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2010/11/05

耳嚢 巻之三 武士道平日の事にも御吟味の事

「耳嚢 巻之三」に「武士道平日の事にも御吟味の事」を収載した。


 武士道平日の事にも御吟味の事

 享保の頃、武州二郷半(にがうはん)領邊へ論所(ろんしよ)吟味として御普請役手代の類罷越しけるに、百姓共背く事ありて大勢にて右見分の者へ手向ひ、石を打或は打擲(ちやうちやく)して兩人共はふばふの躰(てい)にて立歸りぬ。依之右村方の者ども江戸表へ呼出し、吟味の上夫々重き御仕置被仰付、右御普請役をも取計ひ不行屆にて押込に伺けるに、右兩人は其砌刀を拔候やとの御尋故、刀を拔不申趣申上ければ、大勢立集り候はゞ打擲には逢可申(あひまうすべき)事也、輕き者なればとて侍の身分にて、帶刀に手も懸ざる段不屆の至り也とて、改易被仰付けると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:暴れん坊将軍吉宗の、御容赦でさえない、『武士たる者の当然の仕儀としての』お構いなしの裁断に対し、こちらは同じ吉宗の、容赦のない、『武士たる者の当然の仕儀をせざるが故の』極めて厳しく見える処断で直対連関。そんな雰囲気を対称的に出せるような現代語訳にしてみた。前項の訳と対比して、お楽しみ戴けると嬉しい。

・「享保」西暦1716年から1736年。

・「武州二郷半領」武蔵国二合半領。現在の埼玉県三郷市の大部分と同県吉川町を含む地域一帯の名称。勿論、農村地帯で、しばしば土地境界の紛争があったようである。底本の鈴木氏注に、『江戸川と古利根川にはさまれた南北に細長い地域』で、『低湿で大部分は近世新墾されたもの。伊奈忠次がこの辺を賜わり一生支配すべしと命ぜられたので、一升を四配するで二合半と称したという俗説がある』とする。この伊奈忠次(いなただつぐ 天文191550)年~慶長151610)年)は代官。後、武蔵国小室藩初代藩主となった。ウィキの「伊奈忠次」によれば、『武蔵国足立郡小室(現埼玉県北足立郡伊奈町小室)および鴻巣において一万石を与えられ、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行った。利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れない。関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来している』とある。

・「論所吟味」「論所」は論地(ろんち)とも言い、所有権・権益などを巡る土地や水域の紛争対象地を指す。幕府の評定所は、こうした田畑・山林・河川等に関わる提訴があった場合、訴訟方と相手方の双方に対して係争地の絵図(これを立会絵図と言った)の作成と提出を命じて、これを検地帳と照らし合わせながら双方の主張を聞き取りつつ、審理した。論所が複雑なケースでは論所検地・論所地改(じあらため)という実地検分がなされたが、本件は正にそうした実地検分での騒動である(以上は小学館刊「日本大百科全書」の「論所」の記載を参照した)。

・「御普請役」御普請奉行のことか。主に土木工事実務全般を掌った御普請方役所の長。御普請奉行は寛永101633)年に設置されており、定員2名で役高300石。支配下に役割役・見分役・調方がいた。御普請方役所は道路改修・河川補修の工事や道路管理の他、した屋敷奉行も兼務し、諸藩藩士の屋敷管理や城門番人支配、幕府関連の土木作業に関わる大工・左官・屋根葺職人・鍛冶師・桶師・畳師といった職人も、この御普請方支配下にあった。ここではその対象者処罰が将軍家吉宗によって特になされていることから、一応、普請奉行でとっておいたが、次の「狐獵師を欺し事」でも、「地改にて通しける御普請役」という言い方が現われてくるので、これは下級役人も含めた広く普請事業に従事する者の、漠然とした謂いともとれる。

・「手代」一般には郡代・代官・奉行等の支配下にあって雑務を扱った下級役人のことを言ったが、ここでは前注の見分役のことと思われる。後に「改易」の処分が下されており、これは後注で見るように、旗本格に処せられた刑罰であるから、一般的な手代としての下級役人という表現にはややそぐわない気がする。

・「はふばふの躰」所謂、「ほうほうの体」で、これは元は「這ふ這ふの体」で、慌てふためくさまを言う。

・「右御普請役」これでは上司である普請奉行の意となるが、それでは後の文脈が通じない。「右御普請役代行として遣わされた手代二人」の意でとった。

・「押込」一室に閉じ込め、外部との接見・音信を禁じた監禁刑で、俗に「座敷牢」と呼ばれた。20日・30日・50日・100日と日数で軽重があった。自宅謹慎相当の蟄居よりも重い。

・「改易」武士の身分を剥奪し、所領・城・屋敷・家禄・財産等を没収すること。除封。士分に課せられた処罰としては蟄居やその強制版である押込の上で、切腹に次ぐ重い処罰であった。

■やぶちゃん現代語訳

 吉宗公武士道遵守これ平常時にても御吟味あった事

 享保の頃、武州二郷半領の辺りで、訴訟となった紛争地の実地検分のため、御普請奉行検分役担当の者が二名赴いたところ、相手方の土地の百姓どもが本検分を不服として、大勢で手向かい、石を投げ、或いは殴る蹴るといった乱暴狼藉を働いた。

 結局かの両名、ほうほうの体にて江戸表に逃げ帰って御座った。

 この一件に依って、刃向かったかの村方の者どもは、勿論、悉く江戸表へ呼び出され、吟味の上、それぞれに重い御仕置きが仰せ付けられて御座った。

 また、かの右御普請役代行として遣わされた検分役手代二名に対しても、そうした事態を招いたことに対する、その事前の対応の拙さと情けなき帰府顛末には不行き届きこれありとの判断にて、両名とも押込に処することと致す旨、上様にお伺いを立てた。すると、

「――右両人は、その砌、刀を抜いておるのか?」

とのお訊ね故、係の者、如何にも哀れなる二名の心証を良きものと致さんと思うて、真正直に、

「いいえ――所詮、相手は百姓なればこそ両人とも太刀なんどは、決して抜いたり致いては御座いませなんだ――」

と答えた。

 すると上様は、

「――興奮致いた大勢が烏合の衆となれば、これ、打擲に逢(お)うこと、当然の理――その折り、相手が百姓という身分軽き者どもであったとは申せ――勿論、好んで斬れ、とは申さぬ――申さぬが――侍の身分にあって、その武士たるものの身分が立たざる、かく理不尽なる所業を受け乍ら、その帯びたる太刀に手もかけざるの段! これ、不届きの極み!」

と激昂されるや、一言、

「改易!」

と、如何にも厳しき御裁断の御意が御座った、と承って御座る。

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