耳嚢 巻之三 御中陰中人を殺害なせし者の事
「耳嚢 巻之三」に「御中陰中人を殺害なせし者の事」を収載した。
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御中陰中人を殺害なせし者の事
御徒を勤し針谷平十郎といへる者、予が幼稚の時隨分逢し男也。有德院樣御代御中陰の事ありし日、右平八郎湯嶋切通しを通りしに、酒興の者向ふより來て理不盡に平八郎へ突懸りけるを、色々はづしけれども理不盡に及びけるにぞ、捨置がたく切殺しぬ。其譯組中へも聞へ頭へも申立けるが、折あしく御中陰の事なれば、取計も有べきに短慮といへる者も有て、上の御咎を恐れしに、慮外者を討留し事なれば事なく相濟ける。其比(そのころ)右御中陰中の事を申上けるに、有德院樣上意に、武士たる者其身分不立(たたざる)事か或ひは慮外いたしける者あらんに、其身の命をも不顧(かへりみざる)は常なり、況や中陰の内におゐてをやと御意ありしと承りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:家光・家綱から吉宗へ将軍家に直接纏わるエピソード連関。
・「御中陰」人の死して後、49日の間を言う。死者が生と死、陰と陽の狭間にあると考えられたため、一般に特に精進潔斎して、殺生を戒めた。中有(ちゅうう)。ほら! 芥川龍之介の「藪の中」さ! なお、これは上意が下されるような「御中陰」であるから、針谷平十郎自身の親族の中陰ではなく、吉宗絡みでとなれば、一番に浮かぶのは宝永6(1709)年1月10日に亡くなった先の将軍綱吉の中陰ではある。綱吉の薨去は宝永6年1月10日で同月は小の月であるから29日までなので、残り19日、2月は大で30日であるから、宝永6年2月末日までのぴったり49日間が綱吉の中陰である。但し、これが絶対に綱吉のものであったかどうかは分からぬ。実は後注の針谷平十郎の同定の絡みの上でも、『そうではない』と考えないと都合が悪い。将軍家所縁の者や高貴な公家衆の中陰に関わるものであったとして、現代語訳では誤魔化した。
・「御徒」とは「徒組」「徒士組」(かちぐみ)のこと。将軍外出の際、先駆及び沿道警備等に当たった。
・「針谷平十郎」岩波版の長谷川氏注では、未詳とし乍らも、可能性として菅谷平八郎政輔(まさすけ 元禄15(1702)年~宝暦3(1753)年)なる人物の名を挙げている。そこには『菅谷は小性組頭・御先鉄砲頭』であったとある。しかしこの人物では宝永6(1709)年には8歳(!)で合わない。根岸は元文2(1737)年生まれであるから、根岸の幼少時(4~10歳。根岸家の養子になったのは宝暦8(1758)年の22歳の時)は菅谷平八郎は40~46歳であるから、自然ではある。更に、調べると根岸の実父安生定洪(さだひろ)は元御徒組頭であった(後に代官)ことからも、この人物の可能性は高い(ということはやはり綱吉中陰説は引き下げざるを得ないか)。現代語訳でもそこを敷衍して訳した。
・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡り名。
・「湯嶋切通し」湯島切通し坂。現在の文京区湯島にあった切通し。湯島天神の東北を「へ」の字形に、湯島の高台から広小路御徒町方向へと下る間道として開かれた。本話の頃は急な石ころ坂であったものと思われる。
■やぶちゃん現代語訳
御中陰中に止むを得ず人を殺めた武士の事
御徒を勤めて御座った針屋平八郎という者は、私が幼い頃、実父の父の仕事の関係上、よく家を訪ねて参り、子供ながらに逢った記憶のある男で御座る。
有徳院吉宗様の御代のこと、さるやんごとなき御方――失礼乍ら、どのような御方で御座ったか失念して御座るが――ともかくも、その御方の御中陰の折りのことにて御座った。
その日、かの平八郎が湯島の切通し坂を通りかかったところ、酒に酔った男が向こうからやって来て、すれ違いざま、訳の分からぬ言掛かりをつけ、五月蠅く絡んで参った。平八郎はいろいろ手管を変えては、かわして避けんと致いたのだが、遂には以っての外の理不尽に及んだがため、最早堪忍ならず、とばっさりと斬り殺した。
この次第、徒士組(かちぐみ)の同僚にも知られ、隠すつもりも御座らねば、直ぐに平八郎自身より組頭へ申し出て御座った。ところが折悪しくも、かのよんどころなき御方の御中陰の期間で御座ったがために、
「――他の取り計らい方、これあるべきところなるに、甚だ短慮――」
と理に拘わる者も御座ったがため、事件として特に取り上げられ、吟味にならんとするかと、お上からの厳しいお咎めを畏まって待って御座ったところが、程なく、理不尽なる慮外者を討ちとったる正当なる仕儀との判断、これ、御座って、どうという御処分もなく相済んで御座った由。
実は、この一件、しっかりと上様の御耳には達して御座った。
係の者、御陰中に抵触せんとする不行届の事例を幾つも挙げんとした一つとして、この平八郎一件の具体を上様に申し上げたところ、
「――その武士たるものの身分が立たざるとか、或いは法外に理不尽なる所行に及ばんとする者、これあるに――例え、その後に咎めがあろうがなかろうが――その身命(しんみょう)をも顧みざるは、これ、武士の常! 況や! 中陰の中に於いてをや!――」
と、問題にすること自体、これ憚られんばかりの、鮮やかなる御裁断の御意が御座った、と承って御座る。