忘れ得ぬ人々24 田島さん
今日の夕方、アリスを散歩させていると、近くの寺院の庭で餅搗きをしている音がした。子供らの歓声が聞こえた。……僕はそれを聴きながら、38年前のことを思い出していた……
……富山の隣りの田島のおばさんは当時、もう60がらみだったが、普段は一人で生活していた。時々、おじさんの姿を見ることがあったが、一緒に生活している風でもなかった。……僕の町の住居表示板には「田島ハル」とおばさんの名義が記されていた。……遊びに来た高校時代の友人が「凄いな、古代遺跡だぜ」と言った。何のことかと思ったら、「だってタージマハールだぜ」と言ったのを二人して笑ったのを覚えている。……
……あれは丁度、今日と同じ12月の末のことだった。
田島さんの玄関先で、久しく見なかったおじさんが臼と杵を持ち出して、おばさんと一緒に餅を搗いていた。
母と一緒に呼ばれて行った。
田島のおじさんは、何かの職人らしく、寒いのに半袖のシャツで隆々たる筋肉を見せて美事に餅を搗いていた――右手一本で――
おじさんの左の二の腕は搗いている杵と同じようになっていた。何でも若い頃に、仕事で怪我をして切断したのだということだった。――
しかし、その右腕は狙い済ました感もないのに、トン! と臼に搗き入れる杵の一打は確かであった。――
それは少しひねくれた不良学生だった僕から見ても――とってもカッコ良かったのだ。――
おじさんは、暫く搗いたところで、そばで黙って見ていた僕に、
「あんちゃん、搗いてみっか?」
と杵をすっと差し出した。
普段の非力の僕なら、きっと人見知りして断ったに違いないのだが、おじさんのすりこ木のような左腕をずっと見ていた僕には――おじさんの妙技に惚れてしまっていた僕には、それを断わることが、ひどく非礼なこととして感じられたことだけは、確かに覚えているのである。
緊張気味の腰つきで――おじさんの見よう見まねで――僕は餅を搗いた。
「あんちゃん、なかなかスジがええぞ!」
と、皺だらけの顏でおじさんが言った。
横に寄り添っていたおばさんも何だか普段と違ってつやつやとした肌で笑いながら、合いの手の水を打って呉れた。
あの日、僕ははにかみながら、生まれて初めての餅搗きをしたのだった。
あの日の、田島のおじさんとおばさんと、そして母と、懸命に黙々と餅を搗いている僕と。
――僕は、後にも先にも、餅を搗いたのは、この時ぎりだったんだ。――
――その時の、杵を振り下ろす片腕のおじさんの精悍な顔――僕はそれを今も忘れない――。
田島のおじさんは、それから二、三年後に病気で亡くなった――
……アリスがリードを引っ張った。……寺の庭の餅は、もう搗き上がったらしい……子供らの嬌声が聴こえてくる……
僕はアリスの行くがままに、その寺の前を、去った……
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