愛/心
愛は定義された瞬間に総て無効となる。
愛はそれ自体が命題足り得ない。
命題は論理による人間の生み出した総体的智という幻想の観念上の規定である。
本来の愛はそのような「智」を前提としたア・ポステリオリな哲学的定立ではなく、「智」を保持してしまった生命としての人間の、しかし原初的生の意志そのものにア・プリオリに食い入ってしまった楔である。
その楔を抜けば、血が迸り、その個体は確実に死ぬ。
しかし、その犠牲として新たな生命が生まれない、などとは言えぬ。
従って命題上は愛そのものが偽若しくは疑問文としての不完全提起でしかないものではあるものの、しかし、それでいてそれは現に確かに「在る」し、我々の「生」そのものの核心的な「謎」であり続けることによってもパラドクシャルに「在り続ける」のである。
それは「見かけ」上であるか?
それは正当な謂いである。
我々は神ではない。我々はただの一観察者に過ぎない。
「愛」という自他の現象の一観察者に過ぎない。
しかしそれはアインシュタインの相対性理論も、はたまた彼が嫌悪した量子力学をも遙かに凌駕した何ものかが支配している。
我々は他者に愛を示し得ず、実は自分にもそれを示すことは出来ない。
我々は鏡像としての「愛」を見ているに過ぎない。
それは我々によって説明され名指すことは出来得ても、示すことは出来ない
――しかし、とすれば――
即ち、愛は神であることとなり、私はそれを偽とし、以上の叙述全体が無化する。
……このトートロジーが「愛」の謎なのではあるまいか?……