ERIC DOLPHY-The Uppsala Concert Vol.2 の Interview with Eric Dolphy ジョン・O・ブラフマン&エリック・直史・ルカ共同訳
以下は、“ERIC DOLPHY-The Uppsala Concert Vol.2”(MMEX-135-CD 2009年12月21日発売)で公開された Ckaes Dahlgren によって1962年ニューヨークでなされた未発表の“Interview with Eric Dolphy” のオリジナルなジョン・O・ブラフマン&エリック・直史・ルカ共同訳による邦訳である。
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DAHLGREN:エリック、あなたは今のような新しいスタイルをベースにしてから、どのくらいの間、プレイしているんですか?
DOLPHY:う~ん、よくは覚えていないなあ。みんなは、いつもと同じようにプレイしているねと言っていますが、私はいつも進化しているつもりだしね、そうあり続けたいんですよ……だから、本当のところは良く分からないんです。ただ、私は時とともに前に進もうと思ってるし、同じ所には留まりたくはないんです。
DAHLGREN:エリック、あなたはいつも自由なプレイを求めていますが、それには制約がありますよね。たとえば、即興でプレイする時などでも、常に演奏するコードに何がしかの束縛を受けることがありますよね?
DOLPHY:そうですね。曲をどう組み立てるかによるんです……使うコードは――特に私が創った楽曲には私なりのコードがあって――いわゆるコードと呼ばれるものと「一緒になって」プレイしていると言っていいんです。つまり、多かれ少なかれ、主に装飾楽節ごとに使えるものよりも、多少自由さをもった曲全体の基本となる音ではあるんですが……やはり私が以前やってきたことは「コード」だ、ということなんですね……これはなんて言っていいのかな、自分でもよく分からないんだけれども、その――コードとは「間」であり、いつも「ここ」にあって、でも、私たちが試みようとしている「行為」と同じもの――多分、コードがベースとなっている音に於ける装飾楽節に基づいてプレイすること――つまり、それぞれの楽曲はコードに基づいていて、そこでプレイされるものなんだ、と思うんです。
DAHLGREN:御存知の通り、エリック、勿論、あなたの音楽は、フットボールでプレイするクォーターバック、間違いなく、他の人の奏でるジャズとはかなり違うものとして捉えられており、批評家によっては『アンチ・ジャズ』などとも評しています(微苦笑)。それに対して、あなたはどう答えますか?
DOLPHY:そうですねえ、分からない。私はみんなにうまく説明することが出来ないんです……プレイそれ自体が、私の言いたいことなんですよ。多分、「アンチ・ジャズ」なんですかねえ……分かりません……私にはその人――その「アンチ・ジャズ」と評している人が、です――どのように感じているのか、どのように感じて、そう言っているのかも分かりません。このくらいのことしか私には言えないですね。
DAHLGREN:あなたのメッセージを伝える方法、音楽の中で表現しようとする方法はどんなものですか?
DOLPHY:「音楽」の中で?
DAHLGREN:(笑)難しい質問ですが、お願いします。
DOLPHY:そうですね……音楽は……昔、学校で習ったんですが、『音楽は人であり、人は音楽である』と……音楽は時や場所や物事を表現することであり、私自身や他のミュージシャンが今日演奏している音楽というものは、人というものの存在そのものを表現していたり、生活している時代や場所そしてそれぞれの個人の本質や経験を表象するものなんです。ですから私は、総ての人の「違い」を感じますし、それぞれの人から、ある音楽を通して、その人の個性の中に存在する「違い」を感じとるのです。つまり、異なることに対して――それぞれの人が違うノリ方をするということから――あなたはそれぞれの「音」の違いを「分かること」が出来るのです。
DAHLGREN:エリック、聴衆の中で演奏している時、そこにいる聴衆たちのノリはあなたにとってどれくらい大切なのですか?
DOLPHY:勿論、もし聴衆があなたと「一緒である」なら、『聴いてくれている!』という雰囲気を、確かに、そして強く、感じることが出来るのです。しかし、もしも一緒でないなら、あなたのプレイに込められたメッセージは少しばかり伝えにくくなるのです……演奏していて、その演奏している人たちがイカしてるなら、時としてメッセージを伝えやすくなることはあります。しかしその「演奏」は、聴衆が共感して『ノってる』状態になることとは、別なんですよ。
DAHLGREN:エリック、ジョン・コルトレーンとのコラボレーションについて訊かせて下さい。
DOLPHY:そりゃ、もう! とっても素晴らしかったんだ! 本当に! 心からね! 素晴らしいと感じる経験だった!……音楽的にも、精神的にも……私が感じ、そして言えること、それはもう、ただただ「素晴らしい!」という一言に尽きるんだ……そうなんだ……あの時の僕らのプレイは『未だ嘗て体験したことのないこと』だった――でも、それは彼となら『いつでもやっていること』だったんだ! いつもただただ素直に音楽を愛している人々と一緒にプレイして、バンドのミュージシャンみんなが音楽を愛していた……そのことが……ただただ素晴らしかった!……つまり、その……いや、言葉で表わすには難し過ぎる! 分かって貰えますかね?
DAHLGREN:それはあなたにとって明白な『永遠且つ不変な至福』であったと?
DOLPHY:ジョンは本当に神憑(かみがか)ってたんだ!……実際、私は彼と一緒になると、その美事さに、ろくなプレイなんか出来なかったくらいだった(笑)……
DAHLGREN:エリック、あなたにとって、また、一般のジャズにとって、あなたが今後望むこと、そしてそれに対してこうしようという思いが(エリック、笑う)、何かありますか?
DOLPHY:(笑)そうですね、大事なことは――あらゆるミュージシャン……私もですが――「今出来ること」を続けていく、ということなんだと感じているんです。そのことが私自身を、そして私がすることを、強く刺激することにもなると思うんです。活動し続けることが出来るということ、それは、つまり、私自身が成長し続けることが出来るということだから……プレイする時はいつでも、次はもっとよくプレイしたい! もっともっと素晴らしく!……ってね……
[やぶちゃん注:以下、音源ではCkaes Dahlgrenのエンディング・ナレーションが入るが意味不明(スウェーデン語と思われる)で省略した。]
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以上の翻訳に際しては、僕の僚友である高校の英語教師O氏(「先生」という愚劣な呼称は敢えて附けぬ)にまず翻訳をお願いした。昨日出来上がったそれは、もう、あの誠実の人ドルフィーの肉声そのものであるかのような名訳であった(O氏はそもそも僕が出逢った中でも数少ない誠実の人である)。ただ、O氏はジャズは守備範囲ではあられないことから僕が幾分、その訳に手を加え、音源を繰り返し聴いて更に僕のト書き的追加を行った)。従って本翻訳はO氏翻訳によるやぶちゃん勝手自在翻案である。誤訳に見える箇所や奇妙な部分は総て僕に帰するものとお考え頂きたい(特に「装飾楽節」云々のコードに関わる言説は楽理に対する僕の不明から自信がない)。参考として原版の英文テクスト画像を以下に示しておく。但し、これは著作権を侵害することを目的としたものではない。実際の英文には綴りにミスもあり、対訳して戴き、より正確なドルフィーの声を多くの日本人に伝えるための仕儀である。こう訳すべきだというご意見には素直に耳を傾けたく思う。画像に問題がある場合は、削除する用意もあるが、当該アルバムにある日本語の著作権侵害注記は音源に関わるものに限られている。本ページでは一切音源は複製していないのでお間違えのなきように。また邦訳自体にはO氏と連名の著作権を主張するものである。但し本記事にリンクの上、引用される場合は全く問題はない。連絡は不要、ご自由にどうぞ)。
――エリック・ドルフィーはこのインタビューの翌々年、1964年6月29日36歳の若さで重度の糖尿病による心臓発作で亡くなった。――
ずっと以前に書いたラスト・デイトの知られた有名な言葉、
“When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again. ”
「あなたが音楽を聴く、しかし、その演奏が終わった時、それは去ってゆく……虚空へと……。あなたはそれを二度と捉えることは……できない。」(やぶちゃん訳)
と同じように、ここでも飾らない素直な、それでいて深遠な「音楽という哲学」を語る修道士聖エリックの姿が、やはり髣髴としてくるではないか!――
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ジョン・O・ブラフマンさん――ありがとう! 短い間だったけどとっても楽しかったよ! エリック・直史・ルカより――
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別件追伸:「伊東静雄詩集 わがひとに與ふる哀歌 やぶちゃん版」(并びに同縦書版)のデータのサーバーへの転送を忘れてこの作業に入ってしまった。朝の5時半三十数人の方が訪問されたようだが、今、アップしました。ごめんなさい! 画像、お楽しみあれ!