岩波文庫「芥川竜之介句集」に所載せる不当に捏造された句を告発すること
先般入手し、僕の「芥川龍之介全句集」との校合を試みている岩波文庫版加藤郁乎編「芥川竜之介句集」は、その1085番に「雜信一束」の最後にあるアフォリズム、
二十 南滿鐵道
高梁(カオリヤン)の根を匍ふ一匹の百足。
の標題「二十 南滿鐵道」を無視した上、最後にある句点を排除して、これを
高梁(カオリヤン)の根を匍ふ一匹の百足
という『芥川龍之介の俳句』として掲げている。僕はこれに断固として異を唱え、不当な捏造を指弾するものである。
「雜信一束」は全体を通して読めば分かる通り、確信犯的なルナール風アフォリズムであり、この「二十 南滿鐵道」も満鉄をカリカチャライズした『アフォリズム』『一行短文警句』以外の何ものでもないのである(その芥川龍之介の意図についての解釈は「雜信一束」の僕の注を是非参照されたい)。
これは『俳句ではない』。
そもそも加藤郁乎編「芥川竜之介句集」は何故に最後の句点をいやらしくも排除したのか?
その理由をまず訊きたいものである。
そもそも新傾向や自由律には句読点があってよいのである。
芥川も幾つかに読点を用いている。――だがしかし――
しかし句点は知る限りでは全くと言ってよいほど類を見ないのである。
芥川龍之介は俳句に句点は用いないと考えてよいのである。
そうした観点から「雜信一束」の「二 支那的漢口」のを見るがよい。
二 支那的漢口
彩票や麻雀戲(マアジヤン)の道具の間に西日の赤あかとさした砂利道。
其處をひとり歩きながら、ふとヘルメツト帽の庇の下に漢口(ハンカオ)の夏を感じたのは、――
ひと籠の暑さ照りけり巴旦杏(はたんきやう)
最後の句には勿論のこと、句点などはないのである(当たり前田のクラッカーだ!)。尚且つ、これは本文とは有意に字下げが行われて――『芥川龍之介の俳句』――であることは、言わずもがな、一目瞭然憮然憤然ピルゼンマリアだ。駄目押しを添えるなら「高梁(カオリヤン)の根を匍ふ一匹の百足。」は他のアフォリズムの本文と同じ位置から始まっている(こんなことを言わずもがなに言う僕は神経症に罹っているからかしらんと思うほどだ)。
――いや――
そもそも誰一人として今までこれ――「高梁(カオリヤン)の根を匍ふ一匹の百足。」――を『芥川龍之介の俳句』だとは思っていなかったと僕は断言出来る。
ところが――ところがだ、この岩波文庫版加藤郁乎編「芥川竜之介句集」出現と、その恣意的にして愚劣な操作によって、向後、人々はこれを『芥川龍之介の俳句』と思い込んでしまうことになることは確実なのである。
岩波書店は、この嘘を――芥川龍之介の『俳句ではない』1085番の『捏造された句』を――必ず削除しなくてはならない!――
*
ほくそ笑むな、よ! 蛇足ながら、770番の句
病虫
赤ときや蛼鳴きやむ屋根のうら
何だこりゃ? 前書の「病虫」は、勿論、「病中」の誤植だぜ。
青くなれや! これが天下の岩波の仕儀かい? 加藤さんよ! 絶賛の評言『博捜』が泣くぜよ!
これも早急にお直しあれかし――では、随分、御機嫌よう!
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