僕が何を言うか期待しているか?――私は今日、リンゴの木を植える
そんな連中もいるだろう。
それにしても20数年前に僕に「先生の言っている原発の危険性と不要論は全く納得できませんね」とクールに言い放った君は、考え直していいだろう。――いや、僕は君を責めない。このカタストロフを多くの大衆は、しかし未だに対岸の火事だと思っている現実を、実は君が最も驚愕するに違いないからだ。いち早く知った僕がメルトダウンを告げて青くなったのは、理科の先生数人だけだったよ。
いや、数千人単位で同胞が被災死する中で、平然と笑い偉ぶって頷き、日常を強引に行使する連中――これは本当に「まともな連中」なんだろうか? 僕はそうは思わない。
この大衆の愚劣性は、正にいるはずのない怒れる神でさえも、呆れ果てているのではないか?
いや、そんなことはどうでもいい――僕は母の病態が悪化の一途を辿り始めた二週間前から、こんな神の鉄槌のようなカタストロフを心のどこかで「望んで」いたのだ。――関東大震災を不吉に予兆していた芥川龍之介のように――言っておくが、しかしこれは僕の「予言」ではない。――しかし、確かに「事実」として起こったのである。――
――しかしながら――
――僕の心に――昨日から浮かぶたった一言は――僕にも意外なルターの言葉であったことも「事実」であったことを――ヴィトゲンシュタインは笑って許してくれると確信しているのである――
――“Wenn morgen die Welt unterginge, würde ich heute ein Apfelbäumchen pflanzen.”――
――仮に明日この世の最後が来るとしても、私は今日、ここにリンゴの木を植える。――