業
母さんは母さんのALSという病いを「業(ごう)」だと言ったけれど――そんなはずがないじゃないか――だったら、沢山の今回の地震で亡くなった人々も「業」なの? 無数の人々を放射線の恐怖と死に誘いながら、のっぺりとした顔や分かったような顔して弁明解説している彼らの「業」はどうなるの? 数万人の死と時を同じくして生きながら、己が政治的社会的生命やキャリアばかりに汲々としている彼らこそ、神の鉄槌が下されるべきじゃないの? 「業」が宗教内限定の奥義としての定義であるとしても、それはその教義や信仰に於いて知性的にも感性的にもその核心では本質的には納得されるもの、理解可能なものでなければならないはずだろ?(でなければそもそも信仰も布教も、はたまた教団なんていうお目出度い組織が出来るはずがないじゃないか?! 親鸞は確かにそこを説いたけれど、自身はすっかり偶像化されているじゃないか?!) 人知を超えた「業」などというのは、空論なんだよ、母さん。「業」が下されるべき有象無象の人非人がのうのうと生きているという事実は――少なくとも「業」という語自体が下らない方便でさえないということの証しなんだと僕は思うな。
母さん――ものを食べずに緩慢に死のうとしていないかい? だとしたら、それこそ、それは神の意志に背く行為だよ――母さんの内なる神にね――