縄文の母子像 280000アクセス記念――母の形見に――
……遠い遠い遙か縄文の昔のことだ――後に鎌倉と呼ばれる山を母子が越えていったと……
……父と三人の住居の祝祭に祀るための笹の枝を抱える如何にもひ弱な少年――慈愛に満ちた笑えみを浮かべて左手を少年に触れている母――
……越路をゆく二人の後姿――
――少年は左の手に父の作ってくれた一人前の男の証しである母を守るための立派な石斧をぶら下げて……
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ブログ280000アクセスの記念(280000人目のアクセス者はつい今しがた、12時22分14秒に"nessun maggior dolore"の検索ワードで「NESSUN MAGGIOR DOLORE イワン・ツルゲーネフ 補注追加」をご覧になったあなたである。……因みに詳しくはリンク先の私の注をお読み頂きたいのだがこの“NESSUN MAGGIOR DOLORE”はダンテの「神曲」の一節で、“Nessun maggior dolore che ricordarsi del tempo felice nella miseria.”と続き、イタリア語で「逆境にあって幸せな時代を思い出すこと程つらいことはない。」という、意味なのである……)と――
母の形見に――
――Aндрeй Aлaин Лэрoй Йaбунoвич Лука Taдaский
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追伸:今日の昼間、このブログを書いた後にアリスを散歩に連れてゆくと、近くのおばさんが僕を見かけて、お悔やみを言ってくださった(この方は亡くなった直後に既に線香を上げに来てくれて頂いていたけれども、母の逝去後に僕がお逢いするのは初めてだったから)。……その話の中で、おばさんは「一昨年はいつも元気にアリスちゃんを連れて散歩なさっていたのに……私は……この上の山の方に……まだ、お母さまがいらっしゃるような気がしてならないんです……」とおっしゃった。僕は、このブログを書いた直後だったから、何だかそのおばさんの言葉が真実に聴こえたのだった。……そうして、亡くなった翌日に訪ねてくれた西原のお兄ちゃん、そのお兄ちゃんと、僕とおばさんが話しているそのすぐ下にある寺の、彼のオモニの墓のお参りをしたのを思い出したのだ。その時、お兄ちゃんはオモニの墓のまさにこの裏山の斜面に御菓子をちぎって投げながら、「お~い! また、来るぞ! それまで待ってろよ!」と何ものかに呼びかけて泣いていた。そして振り返って、僕に言ったのだ。「たーちゃん! しょうがないよ!」――そうだ!――この僕の家の裏山の、その山ふところの、自然の中に――確かに母は――いる!――僕は今、神がかった確信を持ってそう感じているのである――
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