筋萎縮性側索硬化症の母に「これで終わりです」という医師の直接告知は妥当であったと言えるか?
あの二月十二日に主治医は僕と母を前に
「筋萎縮性側索硬化症である疑いが濃厚です。従って残念ですが、これで終わりです。後はメンタルな部分で人工呼吸器等をどうするかといったことをお考えになる必要がありますね」「この後、どれくらい延命出来るかは悪いのですが分かりません」(これはALSである以上、確かに正しい)「僕らのボスである徳田虎雄も同じ病気ですが、彼は『生きる』ことを選択したんです。」
と言ったのだった。勿論、その態度は決して軽薄ではなかった。勿論、「終わりです」は治療法も有効な新薬もないという後段の説明を受けるが故に、文脈の中では「治療は」という主語以外にはないのだということも理性的には納得した――が――
「これで終わりです」――そして――『生きること』を選択しないということは、『死ぬこと』を選択することも出来ます――という謂いか?!
僕は今になって感じる。これが三日ほど経って僕に
「自殺したくても自殺も出来ない」
「こんな先の見えない中で生きてゆくのは苦痛だわ」
という母の独白となったのであろうことを――
僕はその4ヶ月も前に、献体を希望している母に
「僕もあなたも自殺は出来ないんだよ。だって献体しているんだから。司法解剖されたら、だめなんだからね」
と通院の帰りのタクシーの中ではっきりと言い放ったりはした――しかし――
この時の
「自殺したくても自殺も出来ない」
という母の肉声は途轍もなく重かった……僕が母だったら
「こんな先の見えない中で生きてゆくのは苦痛だ」
と確かに思うに決まってる……
……僕はいつか原因も不明、余命も不明、治療法なしというこのALSの告知方法について、書きたい。
ALSの患者を親族知人に持つことになる人々のためにも、書きたいと思う。
……今の檣の折れかけた僕には書けるかどうかも定かではないけれど……
……あの、確かに、相応に一生懸命やってくれ、結果として最期となった受け入れ病院も個人的な人脈で特別に差配してくれた医師を、指弾したいのでは毛頭、ない。
そして僕は癌を含む死病の告知に100%賛成である。
が――
しかし
やっぱり
「私のために一生懸命してくれているお医者さんや看護師の方たちやみんなのために、頑張んなくっちゃ!」
と言っている母に
何の前触れもクッションもなしに直接――
「残念ですがこれで終わりです」
「延命を拒否する選択もあるのです」
「いつ死ぬかも悪いのですが分かりません」
という直接『告知』――
否――『赤裸々な謂い』(僕はこれを告知と呼ぶことに抵抗を覚える)は
――絶対に、あってはならなかったと僕は思うのだ
――そこに
――医師として科学的事実を語る手順や方法の中に(これは今現在僕らが置かれている原発の進行中の事実について科学者や技術者が解説することに対しても同様に言えることではある――但し、それは隠蔽と煙に捲く真逆のベクトルとして――である)
――インフォームド・コンセントのセオリーのエシックスに関わる致命的な誤謬が
――患者の心を汲むべき「人間として」の何かが欠けていたのではなかったかということを
――僕は今、痛切に実感しているのである……
*
あなたが母の主治医だったら――どうしますか?――