鵞鳥と桃 北原白秋
なにごとのありしか知らず、
人さはに立ちてながめき。
われもまた色あかき桃
掌(て)にしつつ、なかにまじりぬ。
河口に今日しはじめて
小蒸汽の見えつるといふ。
朝明(あさあけ)の霧にむせびし
西國(にしぐに)の新しき香(か)よ。
そが鈍(にぶ)き笛のもとより、
鵞の鳥は鳴きてのぼりぬ。
ひとむれのその鳴きごゑよ、
しらしらとわれに寄り來つ。
そはかなし、『見も知らぬ兒よ、
汝(な)が紅き實(み)を欲し。』といふ。
いひしらぬそのくちをしさ、
逃げまどひ、泣きてかへりぬ。
母上に賜(た)びし桃の實、
われひとり食(たう)べむものを。