雨のふる日 北原白秋
わたしは思ひ出す。
緑靑(ろくしやう)いろの古ぼけた硝子戸棚を、
そのなかの賣藥の版木と、硝石の臭(にほひ)と、…………
しとしとと雨のふる夕かた、
濡れて歸る紺と赤との燕(つばくらめ)を、
しとしとと雨のふる夕かた、
蛇目(じやのめ)傘を斜(はす)に疊んで、
正宗を買ひに來た年増(としま)の眼つき、…………
びいどろの罎を取つて
無言(だま)つて量(はか)る…………禿頭(はげあたま)の番頭。
しとしとと雨のふる夕かた、
巫子(みこ)が來て振り鳴らす鈴(すゞ)…………
生鼠壁(なまこかべ)の黴(かび)に觸(さは)る外面(おもて)の
人靈(ひとだま)の燐光。
わたしは思ひ出す。
しとしとと雨のふる夕かた、
叉首(あいくち)を拔いて
死なうとした母上の顏、
ついついと鳴いてゐた紺と赤との燕(つばくらめ)を。
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繰り返し言う――僕は人間としての白秋がどうしても好きになれないでいる――それは大手拓次の「藍色の蟇」の詩稿を握った儘、拓次の生前、遂にそれを出版しなかった彼に対する恨みの一事にのみよるものである――しかし、認めねばならぬのは……確かに……彼の詩想の本物であるということである……