荏柄天神 そして 江ノ島
「新編鎌倉志 巻之二」は遂に荏柄天神の漢詩に突入したが、これが危惧していたのに反して、これらの漢詩が禅の公案のように奇妙に腑に落ちて来て面白いのだ。訓読に難を感じず、面白いというだけのことで、その詩想を十全に分かるなんどという悟達者を気取るものでは毛頭ないが、しかし面白いのである。ルビがないからHTMLの顕微鏡的な作業をしなくてもいいという最大利点も勿論あるのだが、しかし、直観として確かに、腑に落ちる、面白いのだ。
――序でに言えば、僕の父と母は、この荏柄天神の境内で新婚生活を始めた。僕はそこで生まれたのだ。だから今日は是が非でも、ここまで到達したかったのである。ここで僕は生を受けたのだ。僕のこの世の第一歩の地を僕は水戸の黄門様までフィード・バックして遙かに味わっているのだ。何とそこには、かの僕が哲人として(宗教家としてではない。僕は何の信仰も持たない)尊敬する親鸞の影さえもあったのだ( 「新編鎌倉志 巻之二」の「天神の名号」の二番目を参照されたい)。
――そう言えば、大学時分、失恋の翌日の傷心の女友達を、この境内に連れて行ったのを思い出した。――冬の銀杏の大樹と抜けるような青空だったな――
――そうして――父と母の婚前のデートの江ノ島が、やはり僕の傷痕の青春の地、秘かなる恋情悔恨の地でもあったことといい――僕が卒論にした尾崎放哉と従姉妹澤芳衞との悲恋離別の地が江ノ島であったことといい――そして、この荏柄天神の思い出といい――僕にとって鎌倉とは、確かに因縁と愛憎悲喜こもごもの地であるということを僕は今日、痛いほど悟ったのであった……