「私」へ
僕が君を好きな理由は、何よりも感性の人――行動の人だからである。君は「私」自身の行為や思念に、『他者に対しては』理由付けとしての弁解をしない(解釈はするが、それが不快な言訳にはなっていない。「先生」に対してはしばしば弁明をするが、それは社交辞令や軽薄な釈明ではなく、『心の素直な表出』である。その点は「坊ちゃん」的――「坊ちゃん」がやや大人になった感じでもある。そうしてそれ故に「先生」は君を愛するのである)。この世には僕を含めて我儘の言い放題と自己弁護と自己保身に終始する輩ばかりが闊歩している。勝手な思い込みと浅薄な邪推(穿ち過ぎでもない点に於いて「浅薄な」である)で言い切って、それで世界が収束したとでも思い込んでいるようじゃないか。僕は君が今、どうしているかがやはり気になるのだ。それこそが確かに「こゝろ」の考えるべき続編である。――靜と結婚しているなんどという噴飯愚劣嘔吐下血な思い込みとは全く別に、それを勿論、テッテ的に考える必要が――あるのだ。――