鎌倉攬勝考巻之十一附録六浦総説八景詩歌に歌川広重大判錦絵名所絵揃物金沢八景各図挿入
「鎌倉攬勝考」巻之十一附録の六浦総説の「八景詩歌」に、ウィキ「金沢八景」にあるパブリック・ドメイン画像を用いて、歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の各図を配し、彩りを添えるとともに往古を偲ぶ縁とした。
――いい感じだ――ご覧あれ――
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「鎌倉攬勝考」巻之十一附録の六浦総説の「八景詩歌」に、ウィキ「金沢八景」にあるパブリック・ドメイン画像を用いて、歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の各図を配し、彩りを添えるとともに往古を偲ぶ縁とした。
――いい感じだ――ご覧あれ――
昨夜の不思議な人物の御訪問により、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、何と今朝、軽く300000アクセスを突破していた(昨日一日のアクセス数は――何と――3757アクセスだ! これはニフティ・ブログ・ランキングの123位に相当した)。最早、先のHP開設6周年記念テクスト「八景詩歌」を、同時に300000アクセス記念とするしか法は御座らぬ。悪しからずお許しあれい。
……何となく、でも、このマニアックにご覧になられた御仁に、僕は感謝したい気がしている。ありがとう――
――今後とも満身創痍傷心鬱々たるHP「鬼火」ブログ「鬼火~日々の迷走」をよろしくお願い申し上げ奉りまする――
300000アクセス+HP開設6周年記念として、「鎌倉攬勝考」巻之十一附録の六浦総説の「八景詩歌」を公開した。ネット上には、ちょっと検索をかけてみても、これらの漢詩群の書き下しや語注は見当たらない。300000アクセス突破記念と6周年テキストとしては、それなりの価値はあろうと思う。本ブログにも、以下に掲げおく。【追記:同日11:00 300000アクセス記念の記述を追加。一部の誤植を訂正、注を追加した。向後、本文に注の追加する場合でも、ここはこれ以上、弄らない予定であるので、引用される場合は、本文テクストを用いられるよう、お願いする。/2011年6月28日 ブログ版との差別化をはかるために、本文頁には歌川広重の錦絵「金沢八景」全図を配した。ご覧あれ。】
*
八景
平潟落雁 町谷村の南、平方の西なる鹽燒濱をいふ。
洲崎晴嵐 洲崎の民家連る所をいふ。
内川暮雪 瀨が峰村の前の濱をいふ。
野島夕照 野島村の南へ出たる所、或は瀨戸の浦をもいふ。
乙舳歸帆 刀切村の東に船見ゆるをいふ。
瀨戸秋月 瀨戸の海上をもいふ。
小泉夜雨 釜利谷村の北の鹽濱をいふ。
稱名晩鐘 稱名寺の鐘をいふ。
〇八景詩歌
[やぶちゃん注:以下、漢詩は先に述べた東皐心越の金沢八景の由来となったもの、和歌は京極無生(むしょう)居士(心越と同時代の武士にして歌人、禅僧であった京極高門(たかかど 万治元(一六五八)年~享保六(一七二一)年)のこと。丹後田辺藩主京極高直の三男。この京極の家系はばさら大名で知られた佐々木道誉の子孫で、和歌の名家でもあった。黄檗宗の高僧鉄眼道光らに師事して晩年、出家した。)の作である。それにしてもこの部分、不思議なことに、原本に欠字が存在する。博覧強記の植田にして如何にも不審である。何故、彼はこのままにしておいたのか。七年後の出版であるが「江戸名所図会」には完全なものが載っているし、現在ではこの原詩は多くの郷土史研究家のページに掲載されている。そもそもここにここまで書き記しておいて、不明な字を調べきれずに出版したというのも俄かには信じ難い。ともかくもまず、底本通り、欠字を「○」で示し、それぞれの注で完全なものを示した。私の書き下しは一部不明な箇所について、ちくま学芸文庫版「江戸名所図会」を参考にした。私は――この欠字に何らかの謎が――八王子戍兵学校校長としての植田が「鎌倉攬勝考」に潜ませた軍事上の何らかの暗号が――隠されてでもいるかのような、アブナい眉唾歴史考証家の気分になったことを告白しておく。漢詩と和歌の前後に行空けを施した。]
平潟落雁
列陣冲冥堪入塞。 萩蘆蕭瑟幾成隊。
飛鳴宿食恁棲遲。 千里傳書誰不愛。
跡とむる眞妙に文字の數そゑて、鹽の干潟に落る雁哉
[やぶちゃん注:「江戸名所図会」所収の書き下しでは、以下の通り、「萩」は「荻」である。
平潟落雁
列陣冲冥堪入塞
荻蘆蕭瑟幾成隊
飛鳴宿食恁棲遲
千里傳書誰不愛
平潟落雁
列陣冲冥(ちゆうめい)にして塞に入るに堪ゆ
荻蘆(てきろ)蕭瑟(しようしつ)として幾いくばくか隊を成す
飛鳴宿食棲遲(せいち)を恁(おも)ふ
千里書を傳へて誰か愛せざる
「棲遲」は世俗を離れて閑適の生活を送ること。結句は蘇武の雁書に基づく感懐であろう。]
洲崎晴嵐
滔々驟浪歛餘暉
滾々狂波遠竹扉
市後日斜人靜悄
行雲流水自依々
賑える洲崎の里の朝けふり、はるゝ嵐にたてる市ひと
[やぶちゃん注:「江戸名所図会」所収の書き下しでは、以下の通り、「遠」は「遶」である。
洲崎晴嵐
滔々驟浪歛餘暉
滾々狂波遶竹扉
市後日斜人靜悄
行雲流水自依々
洲崎晴嵐
滔々たる驟浪餘暉を歛(ねが)ひ
滾々たる狂波竹扉を遶(めぐ)る
市後日斜めにして人静悄たり
行雲流水自(をのづか)ら依依
「餘暉」は夕陽余暉で残照のこと。]
内川暮雪
廣陌長堤竟沒潜。 奇花六出似○○。
渾然玉砌山河乏。 遍覆危峰露些尖。
木蔭なく松にむもれてくるゝともいさしら雪のみなと江の空
[やぶちゃん注:「江戸名所図会」所収の書き下しでは、以下の通り、「○○」は「鋪絹」、「以」は「似」、「乏」は「色」である。
内川暮雪
廣陌長堤意沒潜
奇花六出以鋪絹
渾然玉砌山河色
遍覆危峰露些尖
内川暮雪
廣陌たる長堤竟に潜かに没す
奇花六出(りくしゆつ)以て絹を鋪しく
渾然たる玉砌(ぎよくせい)山河の色
遍へに危峰を覆ひ些尖しやせんを露はす
但し、承句を「似」として「絹を鋪くに似たり」と読んでも意味は通じる。「玉砌」は原義は玉で出来た階段、そこから豪華な宮殿などを言うが、ここは冠雪した山々を階(きざはし)に見立てたものであろう。]
野島夕照
獨羨漁翁是作家。 持竿盪漿日西斜。
網得魚來沽酒飲。 ○蓑高臥任堪誇。
夕日さす野島の浦に干網のめならふ里のあまつ家々
[やぶちゃん注:和歌の「干網」は「干す網」、「めならふ」は「め並ぶ」と読む。「江戸名所図会」所収の書き下しでは、以下の通り、「○」は「披」である。
野島夕照
獨羨漁翁是作家
持竿盪漿日西斜
網得魚來沽酒飲
披蓑高臥任堪誇
野島夕照
獨羨の漁翁是れ家を作る
竿を持ち漿を盪(あら)ひて日西に斜めなり
魚を網し得て來りて酒を沽(か)ひて飲む
蓑を披(かぶ)りて高臥し任に誇るを堪ゆ
「漿」は濃い液状のものを指すから、漁を終えて溜まった魚籠(びく)や船底の溜まり水を言うか。これはもう柳宗元の「江雪」の隠者「孤舟蓑笠翁」のインスパイアである。]
乙舳歸帆
朝宗萬○遠連天。 無恙輕帆掛日邊。
欵乃高歌落雲外。 依稀數艇到洲前。
沖津舟ほのかに見しもとる梶のをともの浦にかへる夕なみ
[やぶちゃん注:「江戸名所図会」所収の書き下しでは、以下の通り、「○」は「派」である。「欵」は「款」であるが、これは底本の方が正しいので「欵」のままとした。
乙舳歸帆
朝宗萬派遠連天
無恙輕帆掛日邊
欵乃高歌落雲外
依稀數艇到洲前
乙舳歸帆
朝宗萬派遠く天に連なる
恙無く輕帆日邊に掛かる
欵乃(あいだい)高歌雲外に落ち
依稀たる數艇洲前に到る
「欸乃」は「あいない」とも読み、漁師が棹をさして漕ぎながら歌う舟歌のこと。「依稀」は微かに見えるさまを言う。]
瀨戸秋月
淸瀨涓々舟不繋。 風傳虚籟正中秋。
廣寒桂子香飄處。 共看氷輪島際浮。
よるなみの瀨戸の秋月小夜ふけて千里の沖にすめる月影
[やぶちゃん注:「江戸名所図会」と文字に異同はない。
瀨戸秋月
淸瀨涓々舟不繋
風傳虚籟正中秋
廣寒桂子香飄處
共看氷輪島際浮
瀨戸秋月
淸瀨涓々として舟を繋がず
風は虚籟を傳ふ正中の秋
廣寒の桂子香の飄(ただよ)ふ處
共に看る氷輪の島際に浮ぶを
「涓々」は水がちょろちょろと流れるさま。「虚籟」は梢を抜けて淋しい音を立てる風の音か。「桂子香」は双子葉植物綱マンサク目カツラ科カツラCercidiphyllum japonicum の香り。秋に黄色に紅葉し、その落葉は甘い香りを放つ。]
小泉夜雨
暮雨淒凉夢亦驚。 甘泉汨々聽分明。
蓬窓○○無相識。 腸斷君山鐡笛聲。
かちまくらとまもる雨も袖かけて、涙ふるえのむかしをぞ思ふ
[やぶちゃん注:和歌の「かちまくら」は「かぢまくら」で「舵枕」か。「ふるえ」は「降る江」と「古江」を掛けるか。「江戸名所図会」所収の書き下しでは、以下の通り、「汨々」は「洞々」、「○○」は「淹蹇」である。
小泉夜雨
暮雨淒凉夢亦驚
甘泉汨々聽分明
蓬窓淹蹇無相識
腸斷君山鐡笛聲
小泉夜雨
暮雨淒凉として夢に亦驚く
甘泉洞々として聽きて分明たり
蓬窓に淹蹇(えんけん)として相ひ識る無く
腸を斷つ君山鐡笛の聲
「蓬窓」は蓬の生い茂る貧しい家。「淹蹇」は、私は、すっかり激しくびしょ濡れになって、の謂いと解する。結句の「君山鐡笛の聲」は、宋代の詩人衰忠徹の「張秋塘の畫龍に題す」の
何當置我君山湖上之高峰
聽此老翁吹織笛
何か當に我を君山湖上の高峰に置き
此の老翁の鐵笛を吹くを聽くべき
を踏まえるか。これは画龍点睛の故事を本にしたもので、老翁とは画中の龍で、龍が鉄笛を吹くというのは、雨音の雲を穿って石を裂くが如き音を以って龍の鳴き声に比したものと思われる。]
稱名晩鐘
夙昔名藍成覺地。 華鐘晩扣茗鯨音。
幽明聞者咸生悟。 一宇○○祇樹林。
はるけしな山の名におふかね澤の、霧よりもるゝ入あひのこゑ
[やぶちゃん注:「江戸名所図会」所収の書き下しでは、以下の通り、「一宇」は「一片」、「○○」は「迷離」である。
稱名晩鐘
夙昔名藍成覺地
華鐘晩扣若鯨音
幽明聞者成生悟
一片迷離祇樹林
稱名晩鐘
夙昔の名藍成覺の地
華鐘晩に扣(たた)くに鯨音のごとし
幽明にして聞く者咸して悟りを生ず
一片の迷離祇樹の林
「咸」は「みな」(皆)と読む。「祇樹」は祇園精舎の樹林。]
今夕の6~8時代に、過去にない膨大な個人の千数回(!)のアクセスによって一気に298983アクセスになっている――ありがとう――でも、困ったな――多分、僕は何もあなたにお答え出来ないのに……
HP開設6周年記念に「鎌倉攬勝考」巻之十一附録の六浦総説の「八木」「四石」「島嶼」「古松」及び「八景」冒頭までを公開した。
――かあさん――花の好きなかあさんへ――「八木」を贈るよ――
2005年6月26日のHP開設から今日で丁度、6年目を迎える。僕はHPにカンターを設けていないけれども、遅れて始めたブログのアクセスが300000になんなんとしている以上、HPへのアクセスもそれと同じいアクセスを想像しても強ち誤りではあるまい。本来なら開設記念のテクストを公開するところだけれども、かねてより述べている通り、母の逝去以後のブルージーな中では、地味に「鎌倉攬勝考」のテクスト・データでも更新することしか出来ない。そこは悪しからずご了承願いたい。今日考えている金沢八景の名木と八景詩歌のアップは、それでも開設記念に相応しくないとは言えまい。
今後ともHP「鬼火」をよろしくお願い致しまする。
*
そして――そしてこの記事をアップした瞬間、ブログ・トップ記事から、母の逝去の2011年3月19日の記事が消える――
システム上、これ以上、ここにこの記事を残すためには以前に書いた記事を削るか、これ以上記事を書かない限り出来ないのである。どこかのアプリのように、水槽を増やすように、もう一つブログを立ち上げればいいという二刀流の裏技を好意で教えてくれた友人もいるのだが……暗い僕に声をかけてくれたその好意は有難かったが、それは、やっぱり、なしにするよ。……日々の迷走をする長距離ランナーの孤独な日記は一本でなければ、孤独とは言えないからね。――
かあさん、ちょっとだけ待っててね! さよなら!――
「鎌倉攬勝考」巻之十一附録の六浦総説のテクスト化に入った。まずは「村邑」「地名」「山川」「橋梁」を公開した。
*
流石に、プチプチ切れるのに危惧を感じ、今日、モニターを19インチの同じ三菱製品に買い換えた。やっぱり、デカ! 明度も高く、老眼には優しい。昨日、296000も越え、300000アクセスが近づいてきた。何かせねばならぬのだが、さて……
「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」パートの「円鑑」を終了した。この魔鏡のエピソード、調べるうちにある事実が見えてきて、なかなかに面白かった。簡単な注を附してある。
夏の日なかに靑き猫
かろく擁(いだ)けば手はかゆく、
毛の動(みじろ)げばわがこころ
感冒(かぜ)のここちに身も熱(ほて)る。
魔法つかひか、金(きん)の眼の
ふかく息する恐ろしさ、
投げて落(おと)せばふうわりと、
汗の緑のただ光る。
かかる日なかにあるものの
見えぬけはひぞひそむなれ。
皮膚(ひふ)のすべてを耳にして
大麥の香(か)になに狙(ねら)ふ。
夏の日なかの靑き猫
頰にすりつけて、美くしき、
ふかく、ゆかしく、おそろしき――
むしろ死ぬまで抱(だ)きしむる。
(「思ひ出」より)
*
国立国会図書館デジタルライブラリーの「おもひで」初版画像を底本としたが、「毛の動(みじろ)げばわがこころ」の部分は「毛の動(みじろ)げはわがこころ」とある。僕の判断で「ば」とした。
遂にブログのトップ・ページから母と僕の最後の会話の記事が消える。本ブログの設定では最大実日数99日分の表示が実質的なマキシムであるからである。母の召された折りの記載、その後のいろいろな僕の感懐も順に消えてゆくことになる。勿論、ブログとしては残るのだが、僕としては僕自身の感懐の中で、どうしても読み易く残しておかねばならない記事が、母の召される前後には幾つかあるのだ。今日、それをブログの左コンテンツ「HP増設コンテンツ及びブログ使用テクスト等一覧(2008年1月~)」に纏めてリンクとして出した。テクスト目当てでここをお使いの方には、少し五月蠅いかも知れないが、僕の心情をお察し戴き、御寛恕願いたい。
今日は気持ちが悪くなる程、暑い――今日の午後は、先日の土曜出勤の振替を貰った。妻と一緒に買物がてら、新しいディスプレイも買いに行こうと思っていたのだが、妻の体調が悪くなり、しかし、ディスプレイの方は妙に機嫌がよくて、誤魔化しようがありそうなので、やめにした。
暮れてゆく雨の日の何となきものせはしさに
落したる、さは紅き實の林檎、ああその林檎、
見も取らず、冷かに行き過ぎし人のうしろに、
灰色の路長きぬかるみに、あはれ濡れつつ
ただひとつまろびたる、燃えのこる夢のごとくに。
(「思ひ出」より)
いつまで生きているか分からない。頻繁に電源が落ちる。随分、御機嫌よう。
異花開絶域
滋蔓接淸池
漢使徒空到
神農竟不知
これは芥川龍之介が残した現在知られる生涯に最後の漢詩である。彼の手製の手帳に書かれたもので、「ひとまところ」という例の「芥川龍之介と李賀の第三種接近遭遇を遂に発見した」李賀の詩句を含む集句詩の漢詩を記した詩歌群の掉尾に置かれているものである。その冒頭には『大正十三年九月十八日如例胃を病んで臥床す「ひとまところ」は病中の閑吟を録するもの也 澄江子』のクレジットがある。
○やぶちゃんの書き下し
異花 絶域に開く
滋れる蔓 淸池に接す
漢使 徒らに空しく到る
神農 竟に知らず
○やぶちゃん勝手自在現代語訳
不可思議な一つの花が 遙か遠い絶海の孤島に咲いている
するすると茂ったその蔓は あくまで透き通った清らかな池に浸っている――
漢からやって来た勅使は ただ徒らに空しくそこに辿り着くだけ その花を見ることは出来ない……
いや かの本草の神である神農でさえ ついにその花を名指すことは出来ないのだ……
*
本詩をまともに読み、考えることが出来たのは李賀の時と同じく、2010年5月花書院刊の中国中山大学教授邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国―神話と現実」の「第二章 芥川と漢詩」のお蔭である。彼女は別の章で、本詩を同年に発表した「第四の夫から」と関連させて解読されており、それによれば「絶域」は同作の舞台チベットであり、花はやはり同作に描写される仙境のシンボル桃花とされる。至当な解釈であると思うのだが、僕は本漢詩を一読、「これこそ、あのスマトラのわすれな草の花だ!」と思わず独りごちたのであった。
*
沼にはおれの丈よりも高い蘆が、ひつそりと水面をとざしてゐる。おれは遠い昔から、その蘆の茂つた向ふに、不思議な世界のある事を知つてゐた。いや、今でもおれの耳には、 Invitation au voyage の曲が、絶え絶えに其處から漂って來る。さう云へば水の匀や蘆の匀と一しよに、あの「スマトラの忘れな草の花」も、蜜のやうな甘い匀を送って來はしないであらうか。
*
そうなのだ! あの「沼」のスマトラのわすれな草の花なのだ!――これもかつて書いたのだが、小沢章友の小説「龍之介地獄変」(2001年新潮社刊)のあの印象的なシークエンスで、
*
龍之介は多加志を連れて、二階の書斎に行く。そこでかねての多加志の所望であった絵を描くのであるが、楕円形の島を描き、花を描き、そして
『その花に、愛らしい蝶の羽を生やさせた』。
訝る多加志に龍之介はこう言う。
『これはね、スマトラの忘れな草の花さ』
『いいかい、多加志。この日本のずうっとずうっと南に、ふしぎな島があるんだ。スマトラの忘れな草の島さ。その島にはとても匂いのいい、白いきれいな花が咲いている。その花はなんだと思う?』
『その花はね、魂なんだよ』
『そうさ、ひとは死ぬと、スマトラの忘れな草の島へ、蝶々のかたちをした魂になって飛んでいく。島にたどりつくと、蝶々は白い香り高い花に変わる。それから、時が来て、また花は蝶になって飛びたつのさ。こうやって』
と、もう一枚、その花が持っている蝶の羽を羽ばたかせて飛翔するさまを描いてやる。その二枚の絵をもらって、多加志はにこにこしながら階段を駆け下ってゆくのである――
*
と描かれた、あの花ではないか?!――いや、間違いない! この漢詩の「異花」こそ、あの、スマトラのわすれな草の花なのだ!――と僕は思わず叫ばずにはにいられなかったのである――
*
【2011年6月21日PM8:26追記】
異花開絶域
滋蔓接淸池
漢使徒空到
神農竟不知
因みに、本詩の平仄を調べておいた。以下の通りである。
●○○●●
○●●○◎
●●○○●
○○●●◎
これは平起式の五言絶句の平韻平仄式
◐○○●●
◑●●○◎
◑●○○●
◐○◑●◎
に則っており、韻字である「域」「知」は共に詩韻百六種の平声上平の第四韻「支」である。
「鎌倉攬勝考」巻之十一附録の「人家」「産物」に注を附した。たかが数行、されどそれは確かに僕の注なのさ――
間違いなく見つけたと思うのだが――心神共にそれについて書く気力がないのだ――ああ! 如何にも残念だ!――これが僕の置かれている愚劣極まりない現実なのだ――この愚劣さは誰にも分からない。誰にも分からない――「社会的に生きる」ということ、そこから「金を稼ぐ」ことがどこかで絶対的な「義務」であるような世界、その「社会的存在が生のステイタスであるような馬鹿げた現象」は僕には何の価値もないのだ――それでいて尚且つ、「誰か」に「価値」あるが如くに欺瞞的に生きるのは奈落的な苦痛である――そうして、そのような状況に甘んじている僕には――僕は――はっきりと言う――ノン――と
「鎌倉攬勝考」巻之十一附録のテクストを更新、念願であった江ノ島パートを総て終了した。但し、最後の「人家」「産物」部分には是非とも注を附したい。しかし、それは後日に期し、まずは該当箇所のテクスト全文と画像を公開することとした。父と母の、そして僕と、僕のかつて愛した江ノ島に繋がる女性たちへ――痛恨の後悔と、そして変わらぬ、あの時のような愛を込めて――
――6年前に右腕首を粉砕した時、ある人は励ましの思いを以って、僕にこう言った。
「腕がなくなったんじゃないから、いいじゃない。」
――3月19日に母を亡くした僕に、ある人は慰めてこう言った。
「震災で亡くなった人を考えれば、お母さんは幸せだった。」
――どこの誰が! 僕の利き腕が使えなくなることを、なくなるよりマシだなど言えるのだろう! 因みに、そう言った人物は両腕ともある健常者だ。
――勿論、腕を失った人物からそう言われたなら、僕はこんなことは書かない――が――だからと言って納得など――僕は――しない――右腕のない人の前で、僕は「だからと言って」僕自身を納得など――しなかった――
――どこの誰が! 震災では死なずに、病気で看護されて病院で亡くなった人間は幸せだと言えるのか! 因みに、かく言った人物は、親族を震災で亡くした人間ではない。
――勿論、震災で親族を奪われた方に、そう言われたなら、僕はこんなことは書かない――黙っていよう――しかし、黙ってはいるが――その謂いの通りに、僕は思わないとはっきり言おう――震災で死ぬのも、病で死ぬのも何らの変わりはない――救うことが全く出来ない点に於いて、母の病気は、天災のようにあっという間に母を襲ったのだ――それが指弾の間であったか刹那だったかなどという比較的な謂いは――忌わしいまでに愚劣である――医療施設で誰にも看取られず、節電計画の暗い部屋の中で、早朝の5時、たった独りで死を迎えた母を、僕は震災で亡くなった人よりも幸せだったなどと、決して言えない――
愛する人の死とは、それぞれの心の中で他と比喩不能比較不能の絶対的な不幸なのだ――
それを現象としての他者の死と等価変換しようとすること、批評することは、立つ地平の土台、座標軸、次元そのものが全く違うのだということを知るべきではないのか――
アドルノの「アウシュビッツの後に詩を書くのは野蛮だ」という、かねてよりどこかで言い過ぎだと思っていたのを、僕は今、修正せねばならない。――それを確かに真実であると、はっきり言おう――
いや、もっと卑近に言おうなら、「牛や豚や鯨や海豹を食って乍ら、お前らは、同じ同類の生物の、それも親族の死に限って哀しむのは如何にも愚劣だ」と言うなら、お前らは――既にして他者に黙って、野菜も蕨も食うことなしに伯夷叔斉のように速やかに飢えて死ぬがよいではないか!――
お前らに――愛する人間の死を悼む、孤としての他者の気持ちを批評する権利は――全くない――
僕は飢えて死のう
だから問題ない
だから君も
同じように飢えて死ね――
母は何も食わず
最後に父が指で唇につけてやった蜂蜜だけをなめて亡くなった――
そんな現実に眼を瞑るなら
僕を慰めるために
僕に語り掛けることはするな
*
因みに、僕の右腕首は先日来、痛みと腫れを生じ始めた……お前は、天罰でも当ったと、言うか?……僕は「天」など信じない……だから、安心し給え……だから黙ってほっとして……そうして、ほくそ笑むがいい……母が思ったように、それがお前の「業」なんだと言うかも知れぬが……僕は、全く以て、そうは思わない……天もないから罰もないのさ……お前らも、いつ何時そうなるか分からない、だからその時に、後悔なさらぬように……では、また
菅原文太に先を越されたから、今さらの感があるが、僕はイタリアの原発見直しの国民投票の結果を受けて、その元凶である日本こそが国民投票をすべきだと、あのイタリア国民投票の圧倒的原発ノーの報道の朝に痛感した。それはあの日、教え子たちに授業でも言った。教え子たちが、僕の言の菅原文太を真似たのではないことを証明して呉れるはずである。
さて、僕が護憲であり乍ら、憲法の「改正」の国民投票に大いに賛成することは以前にも書いたから繰り返さない。
そうだ。
僕は憲法「改正」の国民投票を望んでいる誰かのように、OKなのだ。
しかし、その前に――
いや、一緒でいいじゃあネエか!――
世界を不安のドン底に陥れたこの原発の事故を受けて――イタリアの国民投票を受けて――誠実な人間であるならば、どう考えたって、まず原発の是非を問う国民投票をせねばならネエ!
いやさ、どこかの、憲法「改正」+ポスト政権を狙ってる奴らに告ぐ!
二回の国民投票は面倒だ――
ずっと誰かさんがやりたくてやりたくてたまらなかった、あの憲法「改正」の国民投票と一緒に今
――(「七人の侍」の長老風に)「やるベシ!」
その結果? いいさ、それが今の「日本人」とは如何なる存在であるかを、確かに示すであろうじゃないか。
――さあ、やろう!
原発の是非と憲法変改の是非と!
その国民投票を!!!
――僕は、その結果を受け入れる。
――僕は日本語しか喋れない。
――福島第一が――いやさ、かの忌わしい「もんじゅ」がメルト・ダウンして日本に住めなくなると言われようが――
僕はチェルノブイリの村人達と同じく――
ここから去ることは――
――ない。
――僕はお前らの、おためごかしの言葉に殺されはしネエ。(多襄丸風に)
――僕は僕の意思で死ぬ。
――ふざけんじゃネエ!(忌野清志郎風に)
僕はHPビルダーの自動転送システムを採用していないために、うっかり転送をし忘れていた。これでOK! 是非、江ノ島の春の景色を御堪能あれ!
「鎌倉攬勝考」巻之十一附録のテクストを更新、念願の江ノ島の窟側の全景「春月対景」図を配す。本文注でも述べたが、この絵師は、もしや幕末の人気浮世絵師であった松川半山が、十五歳の少年だった時の作なのではあるまいか!? 是非とも、識者の御教授を乞うものである。
昨夜来よりの作業で「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」パートの前半1/3強を公開することが出来た。「建長寺図」及び「円鑑図」も配した。
薔薇の散りしく道の邊を
母微笑みて去り行けり
薔薇の散りたる道の端に
童子はひとり竦みて立てる
*
ばらのちりしくみちのへを
ははほほゑみてさりゆけり
ばらのちりたるみちのはに
どうじはひとりすくみてたてる
水戸光圀纂録・河井恒久纂述・松村清之考訂・力石忠一参補「新編鎌倉志卷之三」のテクスト化に着手した。今回から、影印による校訂まで総てを完了して、パートごとに公開する。
牛歩は承知、牛は語らず、尾を鷹揚に振りて行方を示すのみ――
「新編鎌倉志」と並ぶ幕末の植田孟縉の編になる鎌倉地誌の名著「鎌倉攬勝考」の最終巻のテクスト化を開始、江ノ島総説のパートを公開した。
本テクスト化に際しては、僕のある個人的な江ノ島への思い入れから、変則的に最終巻である「巻之十一附録」から作業に入ることを御了解頂きたい。まずは「江島總説」。ここから僕は新たな自己拘束に入る。
――という積りであったところが、三日前からディスプレイの調子がどうもおかしい。突然、電源が落ちる。さてもまたしても波状攻撃だ――だましだまし――暫くは生きていそうだが――
母が亡くなる正に丁度、一ヶ月前、
2011年2月19日
に母に妻が携帯電話をプレゼントした。
それを形見として僕は持っている。
持っているが、その実、その携帯電話の番号さえ知らないし、操作方法も殆んど分からない。
ところが、先週、たまたま弄っているうちに、その画像フォルダの中に一枚の写真があることに気づいた。
日時は、
2011年2月25日 20:24
である。
これがその写真である――
妻は母には携帯の説明書を一切渡していない。もう読む気力はないように見受けられたからである。妻との連絡が主で、親族と母との通話にも用いたが、それも概ね見舞いに僕らが行った時に限られていた。
だから、まさか――写真を撮っているとは思わなかった。――
しかし、この写真は正真正銘、確かに母が撮ったものなのだ――
この遅い時刻では妻や僕は見舞いに行っていない。そもそも面会時間を過ぎているから誰か見舞った人間が操作して撮ったものではあり得ない。また、「あの」病院の、まさかとんでもなく奇特な看護師が、この時刻に、母に携帯のカメラの使用法をおめでたくもレッスンしたとは、逆立ちしても思われないのだ――
その露出過多になった、クロッキーのような画像は――
母が入院していた、例のALSの診断と告知を下した病院――最後を看取ってくれた聖テレジア病院ではない。テレジアへは、この一週間後の3月2日の転院であった――
その病室のベッドの上から仰ぎ見た(大部屋であった)遮蔽用のカーテンの角の部分と天井――なのである――
母は――どんな思いで、この写真を撮ったのだろう――
いや 更に驚くべきことがある――
母は、何とこれを妻の携帯に写メールとして送ろうとした痕跡――携帯では妻のメール・アドレスらしきものを途中まで打ち込んであり、未送信のままになっていた――さえあったのである。
――母はこれらのことを――何の説明書もなしに――何と筋萎縮性側索硬化症の急激に進行する中で――たった一人でやろうとしたのである……
母さん――母さんは、やっぱり最後まで――僕の、そしてみんなの尊敬する――元気な元気な「頑張らなくっちゃ」が口癖の――母さんだったんだね――母さん――
私の部屋から忽然と大事なものが消えてゆく
それは私の影である――
けふはまた退屈な仕事に出掛けるのであるが
そんな今朝も不相變淋しい音をたててゐる
雨になる朝である――
私は不機嫌に口笛を吹いてみる――
それでも不機嫌なままである――
「紛 失 届」
●亡失品目 私
さやうなら。手風琴の町、さようなら、僕の抒情詩時代。
確かに雨に煙る電線の
その漏電する火花であつた
僕はそれを
伏木の國分濱の近くの内心戀してゐた友人の彼女の家の傍で確かに見つめてゐたのを思ひ出す
龍之介よ
君の樣には僕はやつぱり生きられないらしい
その代はり
僕は僕の最後の道を選ぶことにした
それは確かに
或阿呆の一生であらう
それが
私淑する君への
僕の答へだ
これは
僕が好きになれない太宰より 遙かに 愚劣だといふことは 重々に承知の上さ
太宰よりも僕が愚劣であることは
確かに――殘念だな――
太宰よ お前も俺も 芥川龍之介の弟子たり得ない――
やつぱり芥川龍之介の弟子は岡潔だけだな――
睡猫不敢醒嚙撃窮鼠
孤鼠自縊首於棲窩下
分からない奴に 幾ら説明したって 分からない奴は分からないんだ 悲しみは永遠で 所詮誰にも分からない いや 何より 母さんの哀しみが僕にも分からなかったように――僕はもう 説明することをやめるよ――母さん――
「新編鎌倉志巻之二」の影印による校訂を終了した。校訂作業中、ルビの濁点の追加及びルビ中の送り仮名の本文ポイントで表示するかどうかの判断が僕の中で微妙に変化したため、やや不統一が見られるが、読みに支障を及ぼすものではないので、後日の統一を期して、このままとした。以前にも申し上げた通り、漢詩については、訓読は出来ても、浅学のために意味不明な箇所が散見される。幾つかについては識者の御教授を乞う旨の注を附してある。よろしく御鞭撻の程、お願い申し上げるものである。杜撰ながらも、思ったよりも早く完成出来たこの二巻の一応の校訂によって、僕の中での、読み易い「新編鎌倉志」全巻テクスト化の光明が見えたことを、内心、素直に嬉しく思っている。
昔日の僕のような、鎌倉の若き放浪跋渉者に、これを捧げる――君の、君だけの鎌倉を、見つけ給へ――
なに言ってんダ!~~フザけんじゃネェ!――
核など~いらネェ――
なに言ってんだ~~ヨせよ――
ダマせや~~しネェ――
なに言ってんだ!~~やめときな!――
いくら~理屈をコネても――
ほんの少し~考えりゃア~~俺にもわかるサ――
放射能は~いらねェ~~牛乳も飲みてェ!――
何やってんだ~~税金かえセ!――
目を~覚ましな――
巧みな言葉で~~一般庶民を――
ダマそうと~~したが――
今度のことで~~バレちゃった~~その黒~い~~腹(ハラ)――
何やってんダ!~~偉そうニ!!――
世界の~~真ん中で!!――
Oh my darling―I love you―
長生き~~してェ~な!――
Love me tender―love me true―
Never let me go―
Oh my darling―I love you―
ダマされチャァ!!!~~いけねエ!!――
OHHHoooo!―
何やってんダ!!――
偉そうニ!!――
世界の!――
ど真ん中で!!――
Oh my darling!!―I love you…………
長生き~~~~してぇ~~な!~~~~~
*
先に書いた、ピーター・バラカン氏の放送禁止に関わる告発で語られた曲だ。
僕は著作権法違反であることを承知しながら、これを活字にする確信犯である。但し、僕は彼のCDを持っていない。ネット上の動画音声から僕なりに聴き取ったものだ。聴き取りのソースはここを用いた。
彼は確かに預言者であった。それを伝えるに著作権法など、クソの糞だ。そうして忌野氏も僕の仕儀を許して呉れるものと信ずる(そもそも短時間で聴き取れるものを活字にしたとたんに違法だとする世界は、僕にはブラッドベリの「華氏451」の世界と何ら変わらないと思っている)。
――歩こう、預言者――
ほたるぶくろといへばこそ
ほたるとらんと裂きたれど
ほたるあらねば恨みぬる
火垂る時こそ思ひぬれ かの少年の日の思ひ出の
頰垂る涙のいや絶えざらん
幽(かす)かに香ひはのぼる。蕾(つぼみ)のさきが尖(とが)つてゐるのは内からのぼる香ひをその頂點でくひとめてゐるのだ。花かひらいた時は香ひもひらいてしまふ。殘りの香のみの花を人は觀(み)てゐる。
(「香ひの狩獵者」1)
「新編鎌倉志巻之二」の報国寺まで校訂を完了した。
報国寺で――僕は俄然、思い出し、怒りが沸騰したのだ!――
――報国寺の昔の住職に、「死んでもともと」とか、結構、売れた禅「モドキ」本を書いた男がいる。
菅原義道という。
僕も生前に逢ったことがある。
人当たりのいい、好々爺だった(と父も言ってはいた)。
その時、彼は、あの世も仏もない、とうそぶいたのを忘れない(それも確かに禅の世界では真である)。
しかし、「竹の寺」と称して金儲けに邁進し、その時(確か七十年代末だ)、竹もどきの自動入場整理機械(バーが回転するあれだよ)をいち早く設置していた――愚劣なあの機械、さても今もあるんだろうか――
しかし――僕が言いたいのは、そんなことじゃ、ない――
父は鎌倉学園だった。
戦前、漢文の教師はこの菅原義道だったのだ。
彼は墨染めの衣で教壇に立ち、何と言ったか?
――「死ぬことは生きることと見つけたり」――
「葉隠」を豪語して、いたいけな若者達に天皇の赤子として死ぬことを、確かに! 『教えた』のだ!
彼の授業では、生徒は皆、机の上に正座させられたのだ。
そうして、戦争が終わった……
特攻を志願した少年航空兵として、この男の言う通り、「死ぬことは生きることと見つけたり」を実践し乍ら、辛くも生き残ってしまった父は、まず、復員した鎌倉駅で、ばったり出逢ってしまったのだ――
奴は困った顔をして黙ったままだった。
父は学園に戻った。勤労動員や出兵で、父が受けた僅かな最後の授業――
その国語の授業は――何と、やっぱり菅原義道だった――
教室に来た彼は――
墨染めの衣じゃあない、三つ揃えのスーツを着ていた。そうして――
そうして――奴の第一声は、
「皆さん! 民主主義は――いいもんですよ!」
――これが――「禅者」を気取った、菅原義道なる男の正体である――
――彼は後に防衛大学校か何か、自衛隊の講師になったそうだ。父はそれも許せないという――
当然だ――
国粋主義の「葉隠」の精神からも――民主主義の精神からも――
――禅というものは――
――それを併呑しても――
――かく金の亡者となるような忌わしく汚く衣替えをする奴を――
――決して許しはしないからだ!――
*
僕は事実を述べている。
名誉毀損で訴えるなら、永劫、闘おうじゃないか。
僕はこのちっぽけな愚劣な好々爺然とした(然だ! 禅じゃねえぞ!)菅原義道という男を糾弾したいのでは、毛頭、ない。こんな奴は刺し違える価値もねえんだ! それよか――
――人の人生を――
――教育ならぬ狂育が――
――それは今も生きているゾ!――
――如何に鮮やかに――
――致命的な誤りに――
――死に導くかを――
叫びたいのだ!
*
父さん、やっと僕の仇討ちは――終わったよ――
ほら――これが奴の首、だよ……
「新編鎌倉志巻之二」の「一覧亭集」の全漢文漢詩の書き下しを終了した。想定していた時間よりも、意外に早く終えることが出来た。注釈はぼろぼろだが、襤褸にても寒身には獣毛の温もりもあらんかとも思う。不明の詩句は、僕に課された公案と心得ている。注釈は永遠だ。仏教用語の一部がよく分からない。識者の御教授も切に乞うものである。
君――遂に徧界一覧亭の絶巓に登頂したよ――
――但し、途中のハングした詩句に打ち込んだ注釈のハーケンはとんでもない脆いクラックに打ち込んであるかも知れないんだ――
――僕の後に、ここに攀じ登らんとする君は――僕のハーケンを使ってはならない――
――ゆっくらと登って来給へ――
――僕は満身創痍の心神のままに――徧界一覧亭の欄干に凭れ、相模の十刹海の――その八紘の彼方を眺めやり乍ら――
――君をずっと――永劫に――待っているよ――
今日 僕は あの「三月のうた」の意味が 本当に腑に落ちたんだ 母さん――
「お前」の……僕の笑う……ものみな芽吹く三月に……
母さんは……自ら花を、そして道を捨てていった……
三月に……子らの駆け出す三月に……
そして……母さんは……愛だけを抱いていった……
喜びと恐れと「お前」……それは母さんの喜びと恐れと……そして……
「お前」……それは「僕」だったのだ……
「お前」……「僕」の笑う……三月に……
母さんは愛だけを抱いていった……
喜びと恐れと「僕」……「僕」の笑う……三月に――
母さん――そうだ――僕の笑う三月に、だ――
水の中で石を抱けば輕々としたものだが、香ひの海の中で何を擁(かか)へたら輕くなるのだ。
(「香ひの狩獵者」26)
香ひが歩いて來る。ただ香ひのみが歩いて來る。
(「香ひの狩獵者」31)