新編鎌倉志卷之三 建長寺 (部分公開その4)
「新編鎌倉志巻之三」に、建長寺二十八世肯山聞悟覚海禅師の「建長興國禪寺の碑の文」原文・書き下し・注釈を附して公開した。一つの難峰(しかし、景色は悪い)を踏破し得た感、なきにしもあらず。注釈の最後に、以下の感懐を附した。
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最後に。編者の『文體絶作にあらず。録するに不足といへども』という謂いが、テクスト化の中で何となく分かってきた。勿論、浅学の私には何箇所かの不明箇所があるのであるが、それでも妙に、全体を通じて何か馴染めない違和感を感じるのである。まず、この文章、建長寺を顕彰するに便所の百ワットで、無駄に長い。且つ同一熟語の使用と相同類似表現がやたらに多い。開祖蘭渓道隆の幾つもの逸話も、言わずもがなの「サザエさん」「ドラえもん」最終回の都市伝説クラス、また、その霊験譚なるものも、まるで映像が浮かんで来ない如何にも凡庸な描写に終始している。さらに言えば、その教化の謂いでは、どこぞの政治家のように自律的な禅機や機根より寺を支える権力への阿りが見え見えで、派閥を維持管理する規律規範を何より重んじており、どこぞの教育者のように矯正主義に基づく俗臭芬々たる如何にもな底の浅い思想を、禅語を駆使してごてごてに塗り固めているところなど、禅者・宗教家はもとより、心ある凡俗ならば、どこか退屈不快な感を抱くのではあるまいか。少なくとも私はそう感じたのである。この建長寺二十八世肯山聞悟覚海禅師なる人物、後掲されるように建長寺塔頭妙高院の開山であり、この塔頭は蘭渓道隆の法を嗣いだ大覚派の拠点として知られた。さもありなんという気がする。既に先の「圓鑑」の注で示したように、後の建長寺大覚派と円覚寺仏光派のキナ臭い抗争と義堂周信の苦悩を知った私には、編者とは或は違った意味で、この寺伝の有難い銘文を素直に読むことが出来ないと言えるのである。
――この坊主、小利口な、後のこの寺出身の、現代の禅僧の誰彼と――よく似ているな――誰とは言わない、がね――