鎌倉攬勝考卷之九 周防前司親實舊跡 和泉前司行方舊跡 / クソ・アカデミズムについて
「鎌倉攬勝考卷之九」を「周防前司親實舊跡 和泉前司行方舊跡」まで更新した。
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何年か前、かつて僕の教え子の中に、僕のHPを見に来て、「先生、ウィキからの引用は大学じゃ通用しませんよ。」と如何にも見当違いの忠告をして呉れた者がいる。僕は僕のHPの仕事を、有象無象の知的衰弱をきたした大学なんぞで通用させて、クソ・アカデミズムに認めてもらおうなんどとは、毫毛も感じたことは、ない。それが分からなかったこの教え子――しかし、それは高校時代に彼を教えた僕、彼を盲目的アカデミズム志向に導くことを防げなかった僕自身の不徳と致すところである。
ネット上でもウィキを学術研究の旧来のルールから批判・無効とする記事は多い(誠意ある正鵠を射た建設的批評も勿論、ないことはない)。僕はそういうのを見るにつけ、やっぱり真のジャーナリズムは日本では育たぬのだなと嘆息する。そういう狭量性が真の学究の面白さや意欲を徹底的にそぎ落とし、無味乾燥な官憲追従型の垂直思考ばかりの「学徒」を増殖させてしまっている。不審を抱くなら、複数の叙述と「権威ある」大学教授の重々しい書物で確認をとればよい。そうして不審がそこで払拭されたなら、その目から鱗の事実(僕は時にウィキの何気ないエピソード記載によって今まで曇っていた視界が豁然開けたことが何度もある)を堂々と使い、いや、寧ろ、その汎用的価値を顕彰すべきである。
ウィキペディアの誤りは、だいたいに於いて複数の誠意ある記者によって日々更新され、より正確で最新のものにメタモルフォーゼする期待を孕んでいる(そうでない思い込みでパラノイア的に手がつけられなくなっているものもないではないが、それはウィキのセイフティに頼らずとも、個人の晴眼で見れば一目瞭然であるし、逆に反面教師の記載として、かえって面白く批判的に読める。そうしてそれは、発行されている新聞や雑誌の属性と何ら変わらない)。
対して、アカデミズムの古糞は手にこびりつくと、何年たってもそのいやな臭いがする、そうしてその糞の臭いに慣れてしまい、それが自分本来の体臭だと思い込んでしまうものなのである。
危険なネット・テロリズムやネット・アナキズムに洗脳されるのは要注意だが、最早、ネット・ジャーナリズムを軽蔑する連中は、時代遅れの反動と言わざるを得ないと僕は思うのである。
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