藪野種雄 日記 大正8(1919)年 社会人時代
二、社會人時代
九 軌 時 代
□大正八年〔(二十六才)〕
一月一日
み佛の力わが力、わが力み佛の力にてこそ敗殘よ來れ艱苦よ襲へ。歡樂よ來れ、成功よ來れ、伴に生きよ。されど吾が心は、み佛の光にぞ輝かむ哉。新玉の年は迎ふるも此の心は變らじ。唯此の心の光いやが上にも勵みて、み佛の力に沿はむ哉。わが心よ怠ること勿れ。
一月三日
年賀廻り數ケ所を終り。午後一時年頃路惡しき中原畦に、ビスケツト嚙り乍ら、電車にて若松行、金子氏宅を訪れ、笠井氏に祝詞を述ぶ。父上。母上。光子。茂子樣直一直次氏と晩餐を受けぬ。
片足を、去年に殘して年賀哉、直翁。
午後十一時、御別して辟りぬ。トランプを直一氏に習ひぬ。
茂子樣の元氣よくなれるを嬉びて。
あかねさす其笑顏に永へにみ佛の力を加へませ。
誰にか語らむ吾が胸よ、誰にか慰めてむ此の心。
[やぶちゃん注:「若松」北九州市の北西部に位置する都市。当時は若松市で、現在は若松区。「笠井氏」の「父上」は俳句の作者である私の曽祖父である笠井直(ちょく)。その娘である笠井茂子は私の父方の祖母、則ち後のこの祖父藪野種雄の夫人となる人物である。更にその長男である笠井直一(なおかず)なる人物は私の母方の祖父である。そう、私は、この笠井直一とその妻イヨの娘である笠井聖子と、藪野種雄とその妻茂子の息子、笠井聖子の従兄であるところの藪野豊昭の間に生まれた男である。従って、私にとってはこの笠井直という人物は、父方母方双方の唯一の曽祖父、通常なら二人いるはずの曽祖父が、私の場合は同一人物であるということになる。それは生物学的にこの笠井直なる人物の遺伝子が、私には強力に隔世遺伝しているということになるのである。その人物が登場するに彼の俳句が示される。私の専門は俳句(卒業論文は「尾崎放哉論」)である。唯至という俳号も持っている。奇縁と言う外、ない。なお、この笠井家と祖父藪野種雄の関係の動機は現在の私には不分明である。父の話では笠井直一の弟直次(なおつぐ)と祖父種雄がどこかで同級生で、友人であった由、聞いている。また、本記載の末尾でも、お分かりの通り、この後、日記は明らかにこの笠井茂子への恋情を綴っていくことになるのであるが、祖母茂子は生前、この藪野種雄以前に好意を寄せていた男性がおり、その人物は川で溺れて亡くなったということを私に話して呉れたのを思い出す。そして、その人物の名前を父は「豊」と言ったことを覚えていた(父の名は豊昭であるから特に印象に残ったのであろう)。因みに、先の日記で分かる通り、藪野種雄の弟の名は「豊」である。これ以上のことは今の私には分からない。なお、祖母の話を私が覚えているのは、そこに祖母の不思議な体験があったからである。――祖母はその日、外出して汽車に乗っていたそうである。夏の暑い日であった。その時、汽車に揺られながら、車窓から流れゆく景色を眺めつつ、祖母は『豊さんは泳ぎが好きだから今頃、きっと泳いでいなさるでしょう』とふと思ったという。帰宅して豊さんの溺死を知ったが、その死亡時刻は祖母が車中でそう思った時刻とぴったり一致していたのだそうである。――]
一月六日
われに慰めと絶望との二つの戀ありて、二つの精の如く絶えず吾を動かすとは、さりなん吾を慰めてよと思へ共、其人やあらで絶望かの如き歎息のみで出づる。さびしきは今日の心哉。
一月九日
思ひ出されてはやる瀨無き胸の千々に碎けて。今日は幾度も言ふ名を口につぶやきて思ひを加ふらむも、更にすべなし
一月十七日
忙しき仕事ありて、之を滿足に果しつゝある時は不平も起らず。
わが力、ゆつたりとして眺むる、吸水路、・鐡筋の姿もゆかし。今日の煙れる。
一足も千金の價あり今日の仕事。
仕事閑なる時、又は元氣無き時には不平のみに襲はれて。
これ程の 美しさ知らぬか たはけ者、
燕雀は、何ぞ知るべう 此の雄圖
いらいらし、なうなれそ此の 發電機。
不平と言ひ不滿と言ふに二つあり、一つは俸給一つは仕事の上の不滿、されど根本を尋ぬればやはり己が手、己の力の又己が人格の足らざるなり。足らぬを外部から得て一寸と安心を得んとせるが世情哉。
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが「なうなれそ」は「な唸れそ」で、禁止の句法である。]
一月二十三日
今日新罐のセパレーターを檢査したら小石が入つて居た。之を見て恐縮した。濱口さんから皆が叱られた。責任は皆自分に在ると思ふと殘念でならぬ。殊に石が入つてゐたのを見て離職すべしと一時は思つたが、早く發見したので、深く自ら戒める。何事とても、責任を切實に感受して作業せねばならぬ自分は切實に仕事が足らぬのだ。申譯が無いが過ぎにしは及ばず。將來を自戒して進むのだ。
[やぶちゃん注:私は全くの門外漢なので当てずっぽうであるが、祖父が最初に就職したのが九軌(九州電気軌道)という電気鉄道会社で、後の「八月二十四日」の日記に「發電所、變電所」を持っていたことが示されており、祖父は後に深く関わるのが火力発電所発電機でもあることから、「新罐のセパレーター」の「新罐」は祖父が制作した新しい火力発電用ボイラーで(ボイラーは現在でもタービンと並んで火力発電所の主要設備である)、「セパレーター」というのはそのボイラーの蒸気の湿度を落として乾き度を高め、異物や給水処理に用いた薬物を除去するための分離濾過浄化装置のことではあるまいか。このセパレーターがどのようなシステムのものであるかは分からないが、遠心分離機のような高速回転や、特殊なフィルターを装備するものであれば、小石の混入によってボイラー自体が致命的な損壊を生ずる可能性があるのではなかろうか。だからこそ「皆しかられた」のであり、祖父も「離職すべしと一時は思つた」のであろう。但し、それがボイラー炊きの直前か起動直後の検査によって、異常が起こる前に「早く發見し」、未然に除去出来たので、問題が起こらなかったのではなかったか。]
一月二十九日
朝日歌壇より(佐々木信綱選)
今日も亦、悲しき想ひ 胸に祕めて
事無しと書く いつはりの日記 蕉 子
わかれては、後の心の さびしくも
君戀ふる身を あはれとおぼせ 萍浪女
老し梅花、四つ五つ咲ける下に
ふと忍びけり 天平の女 選 者
(註)茲數日、鼻、喉、耳の故障で市立病院へ行つてゐられる。體はあまり好調の樣子ではない〔。〕
[やぶちゃん注:最後の佐々木信綱の「天平の女」の「女」は「ひと」と読ませているのであろう。]
二月三日
他人に對し、又自分自身に對し、絶えずとも云ふ程に不平や不滿がある。其がとても耐え得られぬことが多い。其して其等に合ふ毎に、自分が惡いので無くて他人の誰かが惡いせいの如くに思ふのだ。其の惡い者を攻め、よくさせたい樣なあさましい心持が起る。しかも淺間しいと言ふ心も起らぬ位に誰人のせいの如くに思ふことが多い。
六月九日―十一日欠勤(病)
六月十日
本日も病床だ。發熱は無いが不安だ。
横川さんに診て貰つたが、もう宜しからうが健康をとの事である。
終日床の上にあつて、彼女を憶ひ吾身のはかなさを思つて暗ひ想ひに沈む氣がした。何でこれしきの病氣にと思へど。
やる瀨なき此の思ひ御身知るや知らずや。
六月十六日
梅雨は神經的な時ではあるが、しつとりと物思ひに沈むにはよい時である。然ししつとりとした氣持が稍々もすればいらいらとして想ひは千々に碎かれる。
午前中は愉快に働いたが、午後つい起るのが苦しくて休んだ。濱口さんに對して、近來の自分の態度はあまりにも吾儘である。病後とは云ひ乍ら、も少し本心に歸つて御恩に報ひ奉らねばならぬ。戀に苦しめる友を救ふも大切なれども、吾天職を盡すもより大切である。あゝされど、實は吾おのが戀に苦しき此心、誰か慰めくるゝものぞ。
六月二十五日
かく迄に想ひ焦れて打ち沈むのは何故であるか、彼女が許されざるためか。
然りとせば吾心も亦、あまりに小我的なるに非るか。若し眞實に試錬を受けたる者ならば、彼女……最も愛憐する彼女の爲に、唯一日も早く平癒して、幸福たる彼女の許されたる家庭の人として、正しく強く樂しく一生を送らんことを希ふべきなり。
六月二十六日
疲弊甚し。
明日市立病院にて診察を受けんとす。
左肺に水音あるが如くに感じたり。夕食後なりし故胃の音かも知れぬ。神經大分過敏なり。
[やぶちゃん注:「水音」はラッセル音。肺結核だけでなく、気管支炎や喘息、急性肺炎・肋膜炎・肺水腫などの様々な呼吸器疾患の際に現れる。]
六月二十七日
藤澤博士の診察を受けしに、肋膜炎起らんとして一時壓へ居る状態なるが故に、勤務して差支なけれども、寧ろ一週間休養して全快を待つ方佳ならんとの事たれば、然く決して診斷書と共に濱口さんに御願ひしたり。私の爲に休みての申し譯無けれど、眞に健全となつて思ひ切つたる活動をせずんばあるべからず。心ひそかに松本氏濱口氏に謝す。乞ふ此の不幸者を許し給へ。
[やぶちゃん注:「然く」は「しかく」と読み、このように、の意。祖父は肺結核でなくなるが、この時に既に罹患していたのかどうかは不明である。]
七月十二日
初出勤だ。
草刈氏が後から聲をかけられて、どうですか。皆が此の元氣を喜んで呉れた。嬉しかつた。
七月十四日
岡崎の叔父死去せられし故、本日葬式の爲欠勤せんと思つたが、あまりに休みて申譯なく、午後四時迄會社に出た。
會社で聞けば、友人の間で小生が賞與最高なりしとの事なるが、迷惑千萬。B氏よりも多かつたとは實際何と云つてよいか分らぬ。迷惑である。
七月十六日
Y君から書留が來た。
「何故早く言つて呉れぬか。用達は自分の如き者の當然の事だ。高利など借りて呉れるな。もつと足したいが、今後は何時にても遠慮なく言つて呉れ。其して返済は期限はいらぬ。君の苦痛の無くなつた時にでよい。又かゝる問題の爲に根本的に解決する時が、少くとも本年内に來るであらう。」
此友の心を聞き言ふべき言葉がない。感激の外はない。
七月二十七日
職工給料支拂ひを自ら爲せり、本社が、書記にては不信なる故、もつと他の人をとの事なり。
技術者が支拂ふとは何事ぞ。腹は立ちたれども其爲に中止しては職工が迷惑ならんと、自ら忍びて東原君と二人で支拂たり。
明日濱口氏に云はん。以後絶對に御免を蒙りたい。
八月二十四日
發電所、變電所、職工一同、三割増歎願の件を盡力して呉れと云ふ。
此際根本的の問題を解決せん爲には第一資本主の態度が眞に共に働らくの意を表して、魂在十二時間勤務を八時間(工事は十時間正味)とし現在の實收に加ふるに三割増、即ち五割増として之を本給とする事、而して可及的居殘り代勒を防止し、正味勤務を效率高く活用する事、日用品を實費給與の件、疾病、公傷に對する補助の件(古金物賣却金を基本金とす)以上に對し勞働者としての彼等は、誠心誠意に對する責任の輕からざるを自覚覺して會社の爲に力を盡すべきこと等を考ふ。是が實現せざる時は自ら處決すべし。
(註)是より日記はブランクの場所の方が遙かに多い。
[やぶちゃん注:「是が實現せざる時は自ら處決すべし」は強烈な覚悟である。この祖父の労働者への思いは、倒産して幹部が夜逃げをしたアルミ会社で、社員の一人として残された機材を整理し、社員全員等分に退職金(雀の涙だったそうであるが)を配った私の父の気骨に通じるものがある(このことがアルミ会社の業界紙に載り、私の父は富山の別なアルミ会社から声がかかったのであった)。]
十月十四日
午前中草刈氏と吾々代表と會見し
「バランスは斷じて破る能はざる事をくり返し、しかも是は既に實行しつゝあつて、支配人も認め居らるゝもの故、所長の獨斷にて歩増しを附けたとて差支へはよもあるまじ〔。〕で無くとも正々堂々と支配人に對して我々が要求の如くバランスをとりて、來る十二月あてにもならぬ昇給をせぬがよい」
此の要求に對して草刈氏は大分動いた。午後は最高幹部の話が成立し、草刈氏が平謝りに謝られた。そして自ら支配人を説服すべく決心されたとのこと。
十月十五日
午前十時頃、草刈氏は一同を招かれて、今日迄の事を謝され、一般昇給額の率以外にバランスの爲十二月の定時昇給迄歩増しを實行することゝなつたのである。
十月十六日
大阪名古屋東京へ出張
十一月八日
歸任
[やぶちゃん注:以上の二日は底本の「十月十五日」の後にある『(註)十月十六日大阪名古屋東京へ出張、十一月八日ニ歸任〔と〕日記は一二行位づゝ、十月以後は始どブランク〔。〕』とある註から推定復元した。]
十一月二十一日
勞働者に向つて告げたい。吾々有識階級は、無自覺高慢なる資本家の敵となるに躊躇せぬのだ。
同時に無自覺高慢なる勞働者の敵となるにも躊躇せぬのであるぞ。
唯一つ正義にのみ味方するのだ。
感 想 録
大正八年は思ひも設けず事件の多い其して事件の可なりに大きい年であつた。苦しい事も隨分あつたが、其の苦しみはやがて此の拙い自分のためには強い試練であつたであらう。然し試練の後の現在の自分は依然として取るに足らざるものであるのは、何としてももどかしい極みである。
我が倍する主張の爲に猛然と起つて主義の爲上長に面して成功した。にらまれてゐる。感謝を受けた。同時に敵を作つた。或は無闇にほめられ其の裏面には嘲笑されたのであらうと思ふ。友の爲に、友の戀の爲に戰つて其の家族の人、其友人、本人自分からも批難の的となつた。然し幸か不幸か、友の戀が許された。許された彼の眞の幸福の爲、自分が彼に對する務がまだ用意されてゐなければならぬ。其の三つ巴の如き戀のエピソードの中に、自分自身も危く捲き込まれて、人知らず苦しみ惱んだ。今も煩へてゐるが、自分の爲唯一人理解ある安川が、激励し忠告して呉れた。恩師の藤井さんも戒めて呉れた。或日だつた、友の捲きぞえを食つて期待もせぬ返事を同時に受けて自分の話を切られた。其の時の悲痛は何にたとえよう術もなかつた。無念であつた、然し怒るが愚かだ。彼女、彼女に対する寫眞は破棄した。其して斷然其争を、思ひ切つて起つた。安川も喜んで呉れた。一年越の申込状は藤井先生から井上氏に托されて今も尚井上氏の手許に保留されてゐるのである。此時友は、友の爲に破れんとする此の自分の爲、必ず話の成立を誓つて呉れた。彼女の心もたゞして呉れた。彼女が此の自分の如き者をも幾分理解して呉れてゐる事を知つて再び戀の芽は甦つた。どうすることも出来ぬ。
安川は其れは當然だと言ふ。責任があると言ふ。安住はどうか知らぬが.兎も角三年越しの問題として明年は何とか之を解決しなければならぬ。
今年の後年に於ては職工の給金、時間短縮を解決した。痛快だつた。然し苦しい經驗であつた。此んなことはあまりあつては困りものだ。然し最も止むに止まれぬ爲だ。致し方もない(中略)
[やぶちゃん注:資本家・労働者孰れに向かっても檄を飛ばす祖父は強いインテリゲンチアとしての階級意識を持っていたようである(だからこそ「七月二十七日」の条で給与配分役を命ぜられた際に屈辱的と考えたのである)。当時のコミンテルンなら「ヴ・ナロード!」と批判されるところだが――僕には、如何にもカッコいい、古武士のような種雄じっちゃんの名台詞なのである――。なお、この意味深長な「感想録」には、祖父と祖母の関係に友人の恋愛が関わっていることを深く疑わせる記載になっているが、祖父は巧妙に朧化させて書いており、隔靴掻痒の感が否めない。じっちゃん! もそっと、後の孫にも分かるように書いてほしかったな!]
大正八年終