叙事詩一篇 山本幡男
[やぶちゃん注:昭和29(1954)年、ソ連製ノートに記された叙事詩。詩中S画伯というのは満鉄調査部時代の上司で同じ収容所にいた佐藤健雄のこと。絵をよくし、ラーゲリで内で画伯と呼ばれていた。この詩は佐藤に宛てて書かれたものと底本にある。底本では途中、「われ唯おし戴いて反誦するのみ」の後に辺見氏の解説が入っているが、辺見氏の「この一文は、次のようにつづいている」という末尾の言葉を信じて(省略のないものと考えて)接合した。底本によれば、幡男は野本貞夫にも次のように語ったとある。
「野本さん、釋迦はね、世界最大のセンチメンタリストなんだよ。キリストは詩人なんだ。ぼくはね、なんのとりえもない凡人だけど、どんなときでもセンチメンタリストでありつづけたい。結局ね、パトスだけがわれわれ人間にとって最初の審判者であり、また最後の審判者なんだ。そう思えてきたよ」
と。]
春なほ寒き二月晝、宵闇の病床に
忽然として枕頭に夢の如く現れし人あり
半白の髯の滿顏にただよふ微笑は、ああ、これ正しく孔子なり
懷かしさのあまり叫ばむとすればその顏貌はいつしか變化して
われ―先輩S畫伯の温容に對す 二言、三言、談を交し
「これ見よ」と一片の紙をわれに渡し、S畫伯、飄然と去り行きぬ
そのやさしき後姿は正しく孔子に異らず
遺されし一片の紙に讀せしは「友情」の詩篇
果してS画伯の作品なりや、はた孔子の筆跡なりや
われ唯おし戴いて反誦するのみ
恐らくは病床にしばしば四聖を夢みるわれを憐れみし孔子の賜りし詩篇に非ざるか
われ屢々瞑目して四聖を思慕するに聖者の面目は何よりも先づその感情の豐富多彩に在り
見よ、出家成道に悉達多(シツタルタ)太子釋迦こそは、世界最大のセンチメンタリストなりしを
また野に咲く一本の白百合にもソロモンの榮華を揶揄するクリストは、いともやさしき詩人ならずや
ソクラテスはまた彼のハートもて論理し、一代の哲學を究めたり
而して我が孔子に至りては、その感情百花の如く繚亂多彩、枯渇せる道話學者到底捕捉しがたき大人格なり
例へば孔子の友情を見よ
君子ノ交リハ水ノ如シと述べたる孔子のセンスのいかに淸明なるか
君子ノ交リハ蘭ノ如シと譬へたる孔子の詩情のいかに豐富なるか
またかの 朋有り遠方ヨリ來ル 亦 樂シカラズヤ
に至りては、滿顏に微笑を湛へて珍客を迎ふる孔子の面貌をまのあたりに見る如く、なつかしくもなつかしく、したはしくもしたはしく
ああこの友あらば百萬人と雖もわれ行かむの感激を沸騰せしむるなり
見よ、孔子去つて二千五百年、孔明が三顧の恩に感動して「出師の表」を捧げしを始めとして歴史上いくたの大事業は多く孔子の所謂「知己の恩」を原動力として成就せられしを
人生意氣ニ感ズ 功名誰カ論ゼン
孔子が教へたる知己の恩は――病苦に呻吟するわれをも奮起せしめたり
われ亦孔子の後輩 誓つて知己の大恩に報ひむと思ふなり
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