句について 山本幡男
昭和25(1950)年か。ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所にて。収容所内で山本幡男が作っていたサークルであるアムール句会会員に対し、幡男が俳句についての心構えについて、セメント紙に書いて回覧した、その文章。
句について
高山樗牛は『文は人なり』と言つた。私はこれに倣つて『俳句は人なり』と言ひ度い。俳句を磨かうと思へば先づ人を磨かねばならぬ。自分の拙(つたな)い俳句を見る度に、私は言ひ知れない淋しさを覺える。樣々な色の繪具を便つてやたら塗りまくつて美しい繪は出來ない。一本の鉛筆で眞に迫つた面白い繪が描けることもある。
俳句にして同樣である。美辭麗句をもてあまして空しく惱む愚を去つて言葉を縱横に驅使する事を學ばねばならぬ。平凡な何の變哲もない言葉の集りがすばらしい俳句を形づくる事があるではないか。道具美事だが腕は一層大事である。
良い俳句とは何か。格調のすぐれて整つた面白い俳句、魅力の多い句にある。俳句の面白さは、①内容の深さ、②映像の鮮やかさ、③連想の豐さ、④餘韻の大きさ、⑤思想の高さ等々である。要約、音感的に魅力のあるもの、印象が鮮明で實感に迫るもの、抽象的に言へば美と眞實のこもつたものである。勿論、これは俳句だけに限つた事ではない。
再び言ふ。良い俳句とは何か。一度口誦み、もう一度口誦みたくなる俳句一讀して忘れがたく記憶に殘る俳句、いつ思ひ起しても樂しめる俳句、後味のすばらしくいい俳句。千句の中のたつた一句でもよいからさういふ俳句を作りたい。
寫生といふ事を皮相に解釋してなんでもかで見たままの事實を句にして萬事事了れりとする初心者が多い。事實より眞實へ、現象より本質へとゆかねばならぬのである。正しく言へば事實を通じて眞實を、現象を通じて本質であらう。