隠岐日記1 島後島
今回の旅は妻の足も悪くなっており、僕の右腕も不具合なため、カメラを持って行かなかったので写真は一切ない。その分、僕は如何にも落ち着いて自然の美観を心の「アルバム」にとどめることが出来た。
隠岐ノ島という島はない。我々の多くが恐らく隠岐ノ島と考えている本島を島後(どうご)と呼ぶ。本来は「道後」と書いた。旧くは地方を「~道」と言ったあの用法である。現地の人は「道後島」という言い方さえもあまりしないようだ。
隠岐ではみなとタクシーの小泉禎さんのガイドを頼むが一番だ。神社仏閣の歴史から神前相撲や牛突(うしづ)きまで、彼のお蔭でこの身体不自由な夫婦でも半日で十二分に島後を満喫出来た。彼の知識と推論は専門ガイドに匹敵する。おまけに隠岐相撲(神前相撲で柱相撲ともいい、最後の役力士には相撲場の四方の柱が下賜される)の一番目の真の勝者――二番取り、一番は真剣勝負、二番は一番で勝った力士が負ける仕来りで、神前で一勝一敗となった後、土俵上で相手のまわし取って持ち上げ合い、互いの健闘を讃えて兄弟の契りを結ぶ。何と美しい相撲であろう。これが島人の心である――であり、彼の対戦相手の家を訪ねて、柱も見せて貰ったりした。彼は擦れ違う人々とは悉く知り合いである。私は隠岐を訪れたかつてのラフカディオ・ハーンになったかのように、この島人たちの心に触れた。
ローソク岩では、雲の隙間から美事に落日が顔を出し、網膜に穴が開くかと思うほどに、僕は灯る火を見つめた。
付け加えるならば、その美観も最たるものながら、小型船の船長の、あの複雑な岩礁帯の中で、船客の目の高さを計算しながら、前後左右に操船するその技術と拘りに大いに舌を巻いたのである。
ローソク岩の観光の間も、本社(西郷)に戻ると結果的に総費用が上がってしまうからと、小泉さんはずっと港で待っていてくれた。
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翌朝、ホテルの車で港に向かう途中、小さな女の子が、自宅で出来たナスやキュウリを袋に抱えて、近所の人にお裾分けをしにゆくのと擦れ違った(これは島では日常的なことである。そしてそれはかつての美しき日本の原風景である)。少し離れた少女の家の前に母親らしき人が、少女の「初めてのお使い」なのか、見守っていた。その少女が、僕らの車の方を見た。右手の掌を返して高く上げると、少女は僕らにさよならをした――島後は別れの最後まで美しかった――