山本幡男 遺書冒頭
[やぶちゃん注:山本幡男遺書冒頭。これらの遺書の執筆動機は山本幡男の自律的な要請によるものではない。幡男は頭部よりも大きく腫れ上がった首の、その潰れた患部からの膿の死の臭いの中にあっても、幡男は固く帰国を信じていたからである。しかし、見舞った団本部初代団長瀨島隆三からの提案を受けて、昭和29(1954)年7月1日、佐藤健雄が「万が一、万が一を考えて、奥さんやお子さんたちへいい残すことがあれば書いておいてほしい」と断腸の思いで懇請した結果であった。この冒頭に七月二日のクレジットがあり、最後の「子供等へ」の遺書の末尾のクレジットも同じ七月二日である。山本幡男は激痛と衰弱と腐臭の中で、この凡そ四千五百字に及ぶ遺書を一日で書き上げたのであった。以下、これから示す遺書の全文を今、我々が読むことが出来るのは、この山本幡男の遺志を文字通り、心の文字として堅固に刻み込んで守った、仲間たちの存在あればこそなのである。彼らの超人的な暗誦力と復誦の努力、また、一部については秘かに暗誦者が書き記したものを着衣等の中に巧妙に細工して隠すといった懸命の努力によって、日本の家族の元へと、確かにもたらされたものなのであった。]
山本幡男 謹白
敬愛する佐藤健雄先輩をはじめ、この收容所において親しき交りを得たる良き人々よ! この遺書はひま有る毎に暗誦、復誦されて、一字、一句も漏らさざるやう貴下の心肝に銘じ給へ。心ある人々よ、必ずこの遺書を私の家庭に傳へ給へ。七月二日