藪野種雄 日記 大正5(1916)年 学生時代 終了
□大正五年(二十三才)
〔一月一日〕
大正五年となりぬ。人生其半に到り、父は五十七才母上は五十才にして妹は十八才、豊十五才、正雄は十歳なり。
想へば任や重く務や大なり。悠々自適の時に非ざるなり。國家の爲に一片の義忠を盡し奉るべきは吾人の本務なり。この大任を果すには只自己の人格確立のみ。「寡言窮〔→躬〕行」是吾輩が此新年に於ける誓言となす。
其の實行と否とは獨り種雄一個の浮沈たるのみならす〔→ず〕、實に是國家大損失の一たらずんばあらざるなり。
[やぶちゃん注:「寡言窮〔→躬〕行」の「窮行」は慣用的にこの誤字が用いられるケースがあるようであるが、やはり「躬行](読みは同じく「きゅうこう」)が正しい。「躬」(み)を以て行う、自ら実行することを意味する。但し、「寡言躬行」という四字熟語は初見。一般な使用例では「率先躬行」「躬行実践」。]
一月二日
碧梧桐・努力して月並みへ。
[やぶちゃん注:「・」はママ。初めて俳人の名が示される。河東碧梧桐は明治末から新傾向俳句を提唱推進し、後には荻原井泉水主宰の非定型・無季語の自由律俳句の俳誌『層雲』に参加したり、同じ自由律系の『海紅』を主宰したりしている。しかし、祖父が批判的にこう書いた時期は極めて微妙な時期で前年の大正四(一九一五)年には井泉水と齟齬を生じ、層雲を去り、同年三月に始めた『海紅』も中塚一碧楼に譲ってしまう。祖父は河東碧梧桐の反動形成を敏感に予知している。因みに私は中学二年生で尾崎放哉に感銘し、中三で『層雲』に参加、二十代前半まで同誌友であった。]
一月三日
念佛行者訓條(法然上人)
一月四日
念佛行者訓條(法然上人)
[やぶちゃん注:以上は「一月三日」の後の村上氏の『(註)是が三日四日と續いて書いてある。』によって再現した。「念佛行者訓條」は法然の法語で、本来、古くは「七箇條の起請文」と呼ばれるものであるが、元久元年に書かれた一般に知られる「七箇條起請」、別名「七箇條制戒」とは全く別物で、起請文というには相応しくないとされ、浄土宗の宗学では「念仏行者訓条」と呼ばれているものである。これは念仏者に対する心得を説いたものであり、自力と他力の明快な区別、「一念は他力、多念は自力」という誤解を正し、三心具足の念仏を相続していくことを説いたものとされる。]
一月五日
珠數〔→數珠〕を求めんとて町を歩きたれ共、空しく歸りぬ。然り我未だとてもとても念佛に入る能はざるものなりき。眞の信にも入らず、眞の念佛をも稱へ能はざるものなり。珠數〔→數珠〕體すべき時ならんや。余輩なるもの尚多大の艱苦と努力とを要せざるべからず。
(註)是より新渡邊氏の北米論や、山川先生の射撃論が四五日に渡つてのせてある。
[やぶちゃん注:「新渡邊氏」は新渡戸稲造。彼のアメリカ観について、祖父がどのような点に関心を抱いたかは分からないが、青山学院大学公開講座「世界の中の日本――日本と世界を結んだ人たち ――」の「新渡戸稲造――太平洋の架け橋 ――」の講座紹介で、青山学院大学特別招聘教授・国際交流基金理事長小倉和夫氏は新渡戸のそれに関して以下のように述べておられるので、参考までに引用させて頂く。『新渡戸稲造のアメリカ観を考える際、新渡戸稲造という人間をいくつかの側面に分け、その各々の側面と新渡戸のアメリカ観との関連を考えることが適当であ』り、その『第一の側面は、新渡戸が「キリスト教徒」であったという点であり、この観点から見た新渡戸のアメリカ観を見ることとしたい。第二は、「異邦人」としての新渡戸である。アメリカで長く生活し、アメリカ人と結婚もしたが、アメリカに永住したわけでもアメリカ国籍を取ったわけでもなく、あくまで異国の人であった新渡戸が見たアメリカがどうであったかという観点である。第三の側面としては、当然のことながら、「日本人」としての新渡戸稲造が、アメリカという国及びアメリカ人をどのように見たかといった次元がある。第四には、しかしながら、新渡戸稲造は、当時の日本人としては珍しく国際的な人物であり、国際連盟をはじめ国際社会で活躍した、いわゆる「国際人」であった点に着目し、こうした国際人としての新渡戸が見たアメリカ像を考える必要がある』。
「山川先生の射撃論」は、日付から見て、大正五(一九一六)年一月十日『国民新聞』掲載の山川健次郎の記事「学生と射撃」に関わるものと考えてよい。]
一月十八日
痔瘻(普通性危險なきもの)を小倉病院にて診て戴く、三月の休で治療すともよしと聞き嬉しく思ひぬ。伊藤誠君同伴しくれたる。感謝せざるべからず。藤井先生此の病気甚しからざるを喜び下さる。寒稽古は中止とす。體操はやる考なり〔。〕
一月二十八日
吾〔、〕素直なる人とならん哉。
人となるには試に誠に素直なれと云ふ一言に歸するやうだ〔。〕素直な人間、是程心地よく又前途多望なる人間があらう。素直な人間には何等頑な所がない。而も毅然としてゐる。孜々として勉む。然れどひ〔→も〕肩をこらせず。
身を修めて恭謙に父母兄弟恩人に感謝し、一點の私心なし〔。〕友人と交はりては何等の隙なし。事をなすに頭を熱せざれ共眞面目なり。自然の運行に身を委す故自由なり。
[やぶちゃん注:「孜々」は飽くなき努力を重ねること。]
一月三十一日
此の一月には何事もなさなかつた。
此んな事では到底意養ある生活を完ふすることは出來ぬ。明二月からは元日の決心を握つて心持よき第三學年の第三學期を終へよう。
二月二十四日
學校の製圖室から見ると、六連彦島の連峯が卷繪の樣に展開して居る。春も來るのであらう。ボイラーもゼネラルビュウを終つた。一瀉千里でデテイルを早く計算も早く出せとの達しありたり。
四年級の製圖も本日全部出た樣子、森山君歸岡す。オーバーを着用して校門を出る者多し。卒業式迄本日より暫らく。
小生は試驗準備開始。
[やぶちゃん注:「六連彦島」は下関市の彦島地区の地域名で、山口県下関市南端の関門海峡 に浮かぶ彦島と、響灘の六連島(むつれじま)及び彦島に近接して現在は橋で繋がる竹ノ子島・武蔵と小次郎の決闘で知られた巌流島(正式には船島という)を総称する。「ゼネラルビュウ」<general view>は機械工学技術(製図)用語で、一般図・全体図・基本設計図と訳される。]
三月十一日
小林君來寮の由なるも見ざるは殘念なりき。夜七時松本氏宅を訪ひたるも不在なりし改正村氏を訪ふ。「もう一年じや」「一年遲れた代り立派に行つたらう」森氏、山縣氏を訪ふ皆健在なり。
其より植木君を訪ひ、歸れば母喜び、妹喜び、弟も嬉びぬ〔。〕やゝあつて正雄と父上、湯より歸り又嬉び呉れたり。實にも家庭程安樂なる所あらじ。午後十一時半就床。
(註)此の所から四月五日迄は白紙で殘つてゐる。此の中に小倉病院に入つて痔瘻の手術を受けられたのであるが、入院何日間なのかは分明でない。
[やぶちゃん注:村上氏様。本遺稿集を上梓して下さったことを、孫の私は心から感謝致します。――致しますが、ここで二行を費やして痔瘻の入院期間を気になさる位であったなら――他の多くの省略された祖父の文学や哲学や宗教の感懐部分をこそ残して戴きたかったというのが――いや、本音なのであります。]
四月六日
午後三時に愈々小倉病院を退院せり。
妹が迎へに來て呉れた。夕餐に一家團欒は欣ばしくも嬉しかつた。病める妹に幸多かれ。一日も早く其病平癒せんことを。母上の心盡しの御馳走。
四月七日
天氣は良し、氣は晴れたり。
午前五時起床、弟等と共に朝食をとる。
午前七時半學寮の人となる。今日唯今より余にとりては最後の學生々活として意義多く深かるべき第四學年級の第一日なり。
尊い哉、戰へ。
森先生に挨拶。藤井先生の御同情ある御言葉忘るべからず〔。〕今日は又丁度學寮の室換へあり。植木、一瀨、杉原君等の御世話により幸に相濟みたり、多謝す。
四月九日
主は知らず、聲のみ聞ゆ、高雲雀。
のどかの春は遂に來た。萬目皆生氣に滿つ、野を見よ。山を見よ。靑々たる麥畑、共に連なる桑の葉。
桃の花の紅、目覺むるばかりなり。
ポカポカと温き日、ウツトリとする日なりき。
四月二十六日
政友會総裁原敬及び床次竹二郎以下安川邸に二泊、四時十五分頃より講演。
白頭澤々しき原敬氏謙遜な態度を以て、歐州旅行中、吾邦の花の王は菊なりと聞き感ずる所あり、菊花は第一位とし、櫻花は將に第二位にあるべきなりとて正義人道を説けり。片腹痛し。
床次竹二郎氏の演説は何ぞ深刻なる。吾人は如何なる職につくも、必ずなくてならぬ人間となる覺悟必要なり(中畧)校長講演後に曰く是空前の大演説なりと。
[やぶちゃん注:「原敬」は大正五(一九一六)年当時は第三代立憲政友会総裁。この二年後の大正七(一九一八)年、日本初の本格的な政党内閣たる原内閣を首班して采配を振るったが、大正一〇(一九二一)年十一月四日、東京駅駅頭で暗殺された。「床次竹二郎」(とこなみたけじろう 慶応二(一八六七)年~昭和十(一九三五)年)は内務次官や鉄道院総裁などを経て、大正三(一九一四)年に政友会から衆議院議員となって原及び高橋両内閣の内相を務めた人物。面白いのは、祖父が二人の演説の軽薄を指弾している点である。]
五月十九日
もう最終、小生にとつては最終の學生時代だ。此の年なり共〔、〕森先生に御滿足を與ふる丈けの努力を致さう。寢ても醒めても此の事忘却すまじき事なり。
又今後は如何なる會合ありとも決して腹九合を食ふ事を止めよ。今度と言ふ今度はよくよく苦しかりしを、是亦寢ても醒ても忘るべからず。
(註)六月に入つてからは日記はズゥと書かれてゐない。
[やぶちゃん注:「ズゥ」はママ。村上氏、結構、お茶目。]
六月三十日
澤野さんの所にて午後六時半より八時迄、心の愉快なる物語りなり。心地よし。心地よし。お互に何事も忘れて一念に働らく時が信仰の時である。
歎異鈔をお借りして歸へる。
少しつゞ〔→づゝ〕讀んで行かうと思ふ。
八月三日
福岡に實演中の◯◯君へ。
その爲に淋しき友、其爲に愁ひつゝある親しの友に寄す。余は君がリーベの爲に淋しき心を打消さんとするを殘念に思ふ。なぜもつと大膽に、なぜもつと眞摯に其爲に戰はなかつたのか。若し君が致せし努力が勝利者の名を與へなかつたのであるならば、其は次の事實を語るものではあるまいか。即ち遊戯的な心から之を得んとした爲に、ラインリーベがラインな光を失つて。〔→、〕唯愁ひの一句を投げかけてゐるのではあるまいか。君は人間の死と共に最もラインなるべきリーべを弄んだのだ。其が爲に今君が之を失つて月並の戀と同樣に、意氣地を失つたのではあるまいか。君が心の奧底から湧き出づる純潔なリーベを求むるならば、必ず私の考ふるラインリーベが愛の手を出すことを信ずる。吾が友よ、ラインリーベは勝利者失敗者の何れの名をも與へざるものである。
[やぶちゃん注:「ラインリーベ」は<Richte liebe>で正しい愛、純粋な愛、清純な愛の謂いか。極めて抽象的な叙述であるために、事態の具体性が摑めない恨みがあるが、祖父は「○○君」のある種の行為を(それが異性愛であるか同性愛であるかも判然としないのだが)、祖父の考える純なる唯一の愛の持つ宗教的倫理的至高性から批判している。初めて日記の中で「愛」が語られる点もここは特異点である。]
八月六日
大門になつかしき濱口氏を訪ふ、午後八時半、是より約一時間半ばかり御話を承る。僕は大膽にも身の上話しを濱口氏に打ちあけた。濱口氏は心をきなき士と思ふ。松本氏とは幾分縁故の人なりと。
[やぶちゃん注:「大門」福岡県には飯塚市と糸島市に大門の地名があるが、前者の方が広域地名としては知られる。]
九月二十三日
(註)此のあたり日記はまばらに書かれてある。
今明日は庭球大會のある日、雨模樣。
小生と原田との彦山行も止むなく中止し、來月十五日頃とし、足立山に登る。ビール一本肉罐詰一つ。權現樣で一寸やり、頂上で大いにビールをやる。十間先きは霧深うして見れども見えず。仙境に入るの心地す。下界は見えず、只俗界の物音のみ傳はれり。野球應援の聲あり。餘は母校よりの聲と言ふに、原田は師範なりと言ふ。否然らずと頑張る。下れば果して原田君の勝。今や小中と豐津中との試合最中なり。
[やぶちゃん注:「彦山」 福岡県糸島市に標高二三一メートルの同名の山があるが、これは恐らく英彦山であろう。英彦山はこれで「ひこさん」と読む。福岡県田川郡添田町及び大分県中津市山国町に跨った山で標高一二〇〇メートル、耶馬日田英彦山(やばひたひこさん)国定公園の一部。中腹に英彦山神宮奉幣殿、山頂に上宮を配し、古来、参拝者や俳句の吟行の地として知られる。またここは羽黒山・熊野大峰山と合わせて日本三大修験山の一つとされ、古くは山伏の修験道場であった。「足立山」は福岡県北九州市小倉北区にある山。標高五九七・八メートル。企救山地の一部及び北九州国定公園の一部。ウィキの「足立山」によれば、漫画「銀河鉄道999」の作者松本零士は『小倉在住であったが「銀河鉄道999が線路を上って宇宙へ旅立つシーンは、蒸気機関車が足立山を登っていく姿を思い浮かべた」ことによる』とある。「權現樣」とあるのは、山麓の妙見町にある妙見宮(妙見神社・御祖神社)のことか。「師範」は福岡県小倉師範学校。現在の北九州市小倉北区下富野三丁目福岡教育大学附属小倉小学校・中学校の所在地にあった。こちらの方が明専よりも足立山の麓に遙かに近い。「小中」は福岡県立小倉中学校で、現在の福岡県北九州市小倉北区愛宕二丁目にある県立小倉高等学校。「豊津中」は福岡県立豊津中学校で、現在の福岡県京都郡みやこ町豊津にある県立育徳館中・高等学校のこと。]
十月四日
小林君を訪問の豫定なり。午後九時頃なりしか小林君を訪へどもあらず。隣の榊原君の下宿を訪へば皆あり。白く檜垣〔、〕三木、福澤等々々、所謂危險思想の鼓吹に少々あてられ氣味なり。皆歸寮の途につく頃獨り勇坊と一つ布團にもぐり入りて不平やら、奮鬪談、失敗談や社會觀、實力と地位等打明けて語る。いらぬと云ふに無理に十圓出して學資にせよと。感涙。
[やぶちゃん注:この「勇坊」とは何者であろう? ここは「隣りの榊原君の下宿」であるはずだから、この「勇坊」は榊原の愛称としか思えないが、それにしても十円もぽんと出すこの男、一体、何者?]
十一月一日
今度お互で「新緑」と申す新聞樣のものを發行せんが爲に日下計畫進渉〔→捗〕中であります。就ては兄等が胸中に横溢してあの大主張、あの大不平、ソノ理想煩悶、エトセトラエトセトラ、さらりと打ち開けようではありませんか。若し夫れ天我等に幸して、夫等の思想の閃が一つの文字、數行の文句となるならば、乞ふ、投稿せよ。
[やぶちゃん注:「就ては兄等が胸中に横溢してあの大主張」というところは、
就ては兄等が胸中に横溢せる、あの大主張
か、
就ては兄等が胸中に横溢してある、あの大主張
と記したつもりであろう。]
十一月五日
武道大會。
銃創術二度、柔道二度共に敗北なり。但し各々二本宛はとりたり。此日雨シトシトと降る。觀覧席寂莫たり。余は思ふ〔、〕昨日の射撃、或は今日の如き武道大會には尠くとも教授連の出席あつて然るべしと。
十一月十九日
ヱマーソン論文集、カーライル佛國革命史と富ふ誠に面白い本が出るので買ひたくなつた。御金三圓送つて下さい、誠に相濟まぬけれ共御願ひ致します。妹の病氣は相變らずよくない。全く絶望だらう。可愛想です。意識は明瞭な故に殊更いぢらしい事を言つて困る。自分でも死を覺悟しながら。死ぬのは一寸とも恐く無いと口には言つて居るけれ共、心の内を、を察してやると血の涙が出る樣だ。嗚呼死と言ふものは何と言ふ痛ましい事であらう。然し斯の如く一難去り、又一難來るも貴い神の示さるゝ所だ。我を修練させるのだと心を引しめてゐる。安心して呉れ。其にしても父が愁歎されるのが何より困つた事だ。一人娘だもの父も苦しかろ。
[やぶちゃん注:「ヱマーソン論文集」は玄黄社から大正元(一九一一)年から二年にかけて刊行された戸川秋骨訳「エマーソン論文集」(上下二巻)、「カーライル佛國革命史」は国民文庫刊行会大正二(一九一七)年刊になる高橋五郎訳「カアライル佛國革命史」(全四巻)と見て間違いない。]
十二月五日
妹危篤の報あり。午後一時歸門
唯一人の妹は余の歸りたるを喜びぬ。又數時間ならざるに兄さん口が寒いよと言ひ、此の世を去つた。兩親に先立ち、兄弟に先立ち、余に取りては唯一人の愛らしき妹は去つたのである。あゝ死よ!何たる莊嚴!
(註)是を以て學生時代の日記は終つてゐるのであるが、卒業の年〔、〕學窓より社會への第一歩と其の翌年、所謂人間の自由型が鑄物にされ易い時代の日記を缺いてゐるのは誠に殘念でならない。大事の契機を拔れて骨拔にされた感はあるが、大正八九十十一と四年間は 途切れ途切れ乍ら記されてゐるので、其の間の脈絡は諸賢に於てつけて戴きたい。學生時代を通覧ず〔→す〕るに、初めは靑年としての野望があらゆる分野に進展し、動じ易い心理が氏の感傷的な性格を通して鋭く動いてゐる。其の次第に線が太く力強くなり、内に苦しむ事よよ、外と〔→よ〕り助力を輸入する方向に轉じ、次第に宗教的な氣分と信念とに融合する立場に止揚されてゐる樣に見える。

