カテゴリ 山本幡男 創始 / 山本幡男 清水修造追悼歌二首
山本幡男氏のテクストを公開するために、カテゴリ「山本幡男」を創始する。
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山本幡男
明治41(1908)年9月10日 島根県隠岐郡西ノ島町生。小学校校長であった父の6人兄弟姉妹の長男。
大正15(1926)年4月 東京外国語学校(現・東京外語大学)露西亜語科入学。
昭和3(1928)年3月15日 共産党員及びシンパ一斉検挙の際、幡男も街頭連絡の途上で逮捕。卒業を目前にした東京外国語学校から退校処分を受く。後、父、病死。石炭商を営んでいた叔父のいる福岡県戸畑に移住していた家族(母と4人の妹)の元に帰り、叔父の商売を手伝う。
昭和8年(1933)年1月 隠岐の小学校教師、是津(ぜつつ)モジミと結婚。
昭和11(1936)年3月 満州鉄道入社。
昭和11(1936)年6月 ロシア語の実力を買われて大連の調査部北方調査室に入る(単身赴任、翌年モジミを呼び寄せる)。後に新京調査局第三調査室に転任。
昭和19(1944)年7月8日 二等兵として招集。虎林にて初年兵訓練を受く。36歳。
昭和20(1945)年1月 一等兵としてハルビンの関東軍特務機関に配属。
昭和20(1945)年6月 妻モジミ、ハルビンにて幡男と面会。これがモジミと幡男の邂逅の最後となった。
昭和20(1945)年8月 敗戦と同時にソ連軍に抑留。その後、各地のラーゲリを転々とする。
昭和29(1954)8月 25日午後1時30分 咽頭悪性肉腫・化膿性の癌細胞転移によりハバロフスク収容所第21分所内病室にて誰にも看取られすに逝去。享年45歳。遺体は解剖後、収容所から一キロ余り離れたロシア人墓地の隅に埋葬された。墓への氏名・死亡年月日の記入は許されず、墓標番号「45」と書かれた白樺の墓標が立てられただけであった(同志瀨崎清は監視兵の目を盗んで氏名と死亡年月日を墓標の根元に鉛筆で書き入れたという)。
――死後――
昭和31(1956)年12月26日 シベリヤからの最後の引上げ船興安丸、舞鶴に入港。そこには山本の収容所内の友人らによって句読点一つ一つまで『暗誦された遺書』も乗っていた。
昭和32(1957)年1月中旬 帰還した幡男の同志山村昌雄によって第一号の記憶された亡き山本幡男氏の遺書が妻子の元へと届けられた。十日後、同志野本貞夫から記憶から書き起こされた遺書が届く。その後、同志後藤隆敏・森田市雄から同じく封書で、五番目の遺書は同志瀨崎清が持参した。それから半年後、同志新見此助から小包で届いている。
昭和62(1987)年 同志日下齢夫から最後の第7番目の遺書がモジミの元に届いた。実に山本幡男の逝去から33年目の夏のことであった。
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以下、順次公開する山本幡男氏のテクストは、現在、辺見じゅん著「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」に記載されたものしか手に入らない(僕は今夏、隠岐の西ノ島の資料館で山本氏のことを初めて知ったが、つくづく展示資料を筆写してこなかったことが悔やまれる)ので、今後の本カテゴリのテクストは全てそれを底本とするが、時代背景を考慮し、恣意的に正字に変えたこと、字空け等は底本に従わず、僕の判断で挿入してあることをお断りしておく。
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スペルドロフスク収容所にて。酔ったソ連人の運転するトラックから崖に転落して亡くなった同志清水修造氏の追悼式にて、山本幡男が絶唱した七五調追悼歌二首――
古里遠く 異國(とつくに)に 君若くして みまかりぬ
夢に忘れぬ たらちねの 姿を永遠(とは)に 慕ひつつ
寒風(さむかぜ)狂ふ 北の涯 君若くして 世を去りぬ
暗き戰(いくさ)の 犠牲(いけにへ)に 集ひてこゝに弔はん
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