藪野種雄 日記 学生時代 大正2(1913)年
〔一、〕學生時代
□大正二年(二十才、一、二年生時代)
〔一月一日〕
正月元旦、改元最初ノ新旦デアル。祝スベキ哉、サレド梅ケ香送ラルスベナキ此ノ市街ニハ、諸所ニモルル三味ノ音ナド無風流ノ極ミナリ。
二月二十四日 月
又々……ニハ非レド春日和トナリケリダ 此地未ダ春風駘蕩デハナケレドモ、平和靜寂別天地ナリ。
然ルニダ、然ルニ東都ニ於テハ山本内閣不信任案高シ 彼ハ薩州ノ産ナリ、政友會ハ彼ノ内閣ヲ樹立シ、且ツ自黨ヲ閣員タラシメタリ。云フ迄モナク硬派ナル行雄尾崎、岡崎氏等ハ極力反對セリ。然ルニ軟風、風ヲナシテ進ム能ハズ、
(中略)
於此乎、岡崎、尾崎、福澤桃介等外三十名ハ、脱黨シタリ。
[やぶちゃん注:「山本内閣」第一次山本内閣。内閣総理大臣は第十六代海軍大将山本権兵衛。大正二(一九一三)年二月二十日から大正三(一九一四)年四月十六日までの短命内閣。政府と陸軍の対立によって第二次西園寺公望内閣が倒れ、混乱が陸軍にあったために海軍大将山本権兵衛に組閣が命ぜられ、ウィキの「第1次山本内閣」によると、『それまでの藩閥政治から、政友会の原敬を内務大臣とする政党内閣に近い体制が取られ』、先の『二つの内閣を潰した課題であった軍部大臣現役武官制を、長州閥の陸軍と出身の海軍の両方を抑えて改正』、『軍部が政治に関与することを防いだ』が、『後に贈賄疑惑であるシーメンス事件が起こり、混乱の責任を取り総辞職した』 とある。当時、古巣の政友会に復党していた憲政の神様尾崎行雄は山本権兵衛が組閣後、あからさまに自党利益を優先しようとする政友会に反発して政友会を離党した。「岡崎」は護憲運動と策士家で知られる政治家岡崎邦輔。尾崎とともに政友会を脱党して政友倶楽部を作った(但し、岡崎は年末に復党)。この時、政友会は議会過半数を失っている。「福澤桃介」は大同電力や、奇しくも祖父が後に勤めることになる東邦電力などを設立した日本の電力王で衆議院議員。福沢諭吉の婿養子。大正二年頃は木曽川の水利権を獲得、岐阜県加茂郡に八百津発電所建設したり、日本瓦斯会社を設立している。この時はやはり脱党して尾崎・岡崎と行動をともにして政友倶楽部に入った。]
三月七日 金
諸君ヨ!片々タル小才子ハ既ニ既ニ社會ニ彌漫シテ居ル。一片ノ辞今〔→令〕ノタメニ心ヲ動ジ、一摑ノ金塊ノタメニハ我名譽ヲモ顧ミザル所謂利口者流ハ擧〔テ〕世風ヲナシテヰル。
此中土猛烈ナル爆彈ヲ投ジ、彼等利口者流ヲ塵センハコレ、安川、山川健二郎氏ノ主義デアラネバナラヌ、ト同時ニ卒業生諸君ノ覺悟デアラネバナラヌ。
卒業生諸君ヨ!諸君ハ今ココニ立タルヽニ當ツテ如何ナル未來ヲ想像スルヤ。
或ハ再ビ此地ヲ踏ムノトキ、美シキ内室ヲ從ヘ、美髯ヲタクワヘ、而シテ我等ニ誇リトスルカ。
[やぶちゃん注:「山川健次郎」(嘉永七(一八五四)年~昭和六(一九三一)年)は東京帝国大学・京都帝国大学・九州帝国大学の総長を歴任した物理学者にして教育学者。明治四十一(一九〇七)年に先の注で示した安川財閥(安川敬一郎・松本健次郎親子)の資金拠出による私立明治専門学校設立に協力し、同専門学校総裁となった。但し、祖父が在校した当時は既に九州帝国大学の初代総長として転任している。参照したウィキの「山川健次郎」によれば少年期は白虎隊に属し、日露戦争時は東大総長でありながら、陸軍に一兵卒として従軍させろと押し掛けた強烈な熱血漢で、私が興味を持っている福来友吉の「千里眼事件」でも懐疑派として一番に登場する科学的合理主義者でもある。ここで「主義」と言うのは創立者安川と初代総裁山川によって打ち立てられた明専の校訓校是といったものを指しているものと思われる。]
三月二十三日
夕ヨリ歸省ス、歸省中二週間、ソノ約前半一週日ハ我家ニテ徒ラニ暮シ、或ハ附近ノ坊主山ヲ飛ビ〔、〕或ハ内ニ居テ日ヲ費ス。
後ノ一週間、四月一日ヨリ四月七日夜にカケテハ、正ニ留守居シテ得ル所大ナリ、或ハ靜坐默考ス、又讀書ヨク之ヲ通讀シタリ。
[やぶちゃん注:「坊主山」現在の福岡県田川郡福智町金田にある小山か。標高四十九・五メートル。]
五月五日
月曜ヨリ木曜ニ到ル間ニ於テ、記スべキ事項ハ比較的大ナルモノガアッタ。(中略)
來ルボートレース後ニ於テ選手慰労ヲヤルト云フ、大イニ可ナリ、然ルニ何ゾ、上級ガナスガ故ニ、又場所見當ラザルガ故ニ小倉某々ノ料理店ニ開カント言フ。
咄! 何者ノ痴漢ゾ
川本、伊藤、森山、小林五名ハ立ツタ、而シテ出來得ル最善ヲ盡シタル考ナリ、兎ニ角一般ノ意向ガ傾キ居ルタメカ、校内ニテナスコトヽシテ一段落ツキヌ。(中略)
養ヒ難キハ實ニ小人ナリケル哉。
今後於ケル我等ノ覺悟ハ已ニ定マレリ、何ゾ怖レン百萬ノ敵、千億ノ敵アリトモ。
五月二十七日ヨリ六月十六日ニ到ル間、吾輩日記ヲ記サナカツタ、此ノ怠惰ヲ以テ一般ヲ推スベシト云ハルヽモ一言ナキナリ。然リ我輩、滿足ナル勉強ヲヤラナカツタ。
咄々、愚情漢ヨ
汝ハ徒ラニ言ヲ用ヒ之ヲ行ハザルヤ
未ダ茫莫タル行路ニ漠然ト、シカモ氣ノミアリテユカズ、而カモ而カモ自ラ實アルガ如クニ見セカケ、唯々其ノ虚ヲ蓋ハントス。
汝ノ心ハ浮片々々タリ、是其心著實ナラザレバナリ。學ニ専ラナラザルガタメナリ、學ニ志セルガ如クニシテ實ハシカラズ。(中略)
總テノ私念雜念ヲ除去シテ空々淸々タル天然ノ心ニ歸レヨ
六月二十八日
圖書館ニテ書物ヲ拜借ス。
一、戰爭と平和(トルストイ第二巻)
二、空中飛行
三、マジツク
四、漫遊案内記
五.ハンス、アンダースン物語
六、我子ノ惡德
[やぶちゃん注:「戰爭と平和」は馬場孤蝶の日本語初訳は大正三年であるから、祖父が読んだのは英訳本と考えられる(後に祖父は前述したアメリカ製発電機の買い入れにも関係しており、英語が堪能であったと思われる)。それにしても英語であの大作に挑むとは、恐るべし! 「空中飛行」は不祥であるが、もしかするとこれは押川春浪の明治三十九年博文館刊の「空中大飛行艇」ではなかろうか? 「海底軍艦」のサイド・ストーリー的空想科学小説である。「マジツク」はお手上げである。洋書の手品の実用書ともとれるし、民俗学的な魔術に関わる学術書とも、はたまた「魔術」の題名の小説という可能性もある。「漫遊案内記」に似た書名では坪谷水哉(善四郎)の明治三十九年博文館刊「増訂日本漫遊案内」というのがある。これならば所謂、現在の旅行ガイドのようなものと思われる。「ハンス、アンダースン物語」とはハンス・クリスティアン・アンダーセン(Hans Christian Andersen)のオランダ語発音表記で、童話の父アンデルセンのこと。誰のものであるかは不祥だが、アンデルセンの伝記である。やはり英文か。「我子ノ惡德」これは同定出来る和書である。明治四十二年同文館刊の大村仁太郎著「教育寓話 我子ノ惡德」である。これはいろいろな悪徳を子供に養生する法を説く形で、反面教師としての道徳養生法を述べた変り種の道話集である。国立国会図書館の近代デジタル・ライブラリーで読むことが出来る。]
七月一日
修身ノ時ニハ藤井先生ガ多少卜モ余ノ思ヒ居タルヲ語ラル〔。〕先生ハ其ノ判断力ト勇気卜ニ於テ此ノ二ケ年間ニ經過スル所ガ見タイト、我々タルモノ奮起セズシテ可ナランヤデアル。
昨日日頃カラ少々氣分ガ惡シカツタ。之運動不足ニヨルモノダ。今日ハ早速柔道ヲヤリタルニ精神爽快言フベカラズ。
八月十五日
△△氏ヨリハ學資供給ヲ中止シ、他ヨリ世話シヤルベシトノ事デアル。其何處迄モ心配シテ下サルニハ衷心ヨリ感謝ヲ表スモノデアル。何レノ地ニカ一識ノ見モナク、而モ不才ノ我が如キヲ助クル者カアル、別ケテモ自ラノ困窮ヲモ顧ミデ力ヲ與フル〔、〕如何デカ他ニ之ヲ求メ得ベケンヤ、其厚志ニハ萬腔ノ誠意ヲ持シテ感謝セザルべカラズ、サレド男子生レテ他人ノ助ヲ受クル〔、〕之ヨリ大ナル恥辱アランヤ。
僕ハ極力何等カノ方法ヲ以テシテ、自活ノ路ヲ立テント決心シタ。此心幸ニ藤井先生ノ御同情ニヨリテ多少ノ内職ヲ得ラレンカノ運ビニ到ツタノデアル。
先生ノ一書ヲ寄セラレテ曰ク〔、〕△△氏ノ俠心感服ノ外ナシト〔。〕男子他人ノ世話ヲ受ケルハ快心事ニ非ズト雖モ之ヲシテ薄志弱行トハ言ハジ。之ヲ受ケザルコト却ツテ然ラント、先ヅ砕身奮勵ヲ志レソト。
之モ亦一ツノ見解ナルベシ。
淸濁合セ飲ムノ概ヨリ言へバ或ハ然ルベシ〔、〕恩義ノ絆……之シモ廣義ノ強大ノ意志ヨリスレバ何スルモノゾ。唯ニ之ヲ呑ムベシ。然リ大イニ呑ムべシ。呑マルヽベカラズ。此ノ決心サヘアレバ何ゾ杞憂スルヲ要センヤ。
サリトテ我心今△△氏二於テ離レンカ、何ゾ更ニ他ノ援助ヲ受クべキ。
内職ノ費タトヘ少額ナリトスルモ、之ヲシテ何事ノ端ニ加フレバ、自活的努力ヲ得ルトヤ云フべキカ。
[やぶちゃん注:それまでの祖父の学資援助者が都合で援助出来なくなったことに対して、まずは旧援助者への感謝を述べ、その人物が別な援助者を紹介してくれることへの男子としての慙愧の念を述べる。それに対する明専の修身担当の藤井先生の心温まる忠告と、経済的自立の覚悟を述べる。藤井先生の「薄志弱行」という言葉、そして祖父のここまでの気概に満ちた日記を読むと、私はある人物が想起されて来るのである。そう――あの「こゝろ」のK――その人である。我々は、またこの後、Kと全く同様にあらゆる宗教の深奥に深く貫入してゆく私の祖父を見るであろう。]
(註)是より天地の悠久を諭じ、小事に汲々たる自己を咄ひ、悶々の状見るが如く叙述してあるが割愛する。
[やぶちゃん注:こういった祖父のオリジナルな哲理の部分を正巳氏は恐らく字数の関係上から殆んどカットしている。それが私には非常に惜しまれるのである。]
八月十八日 月
月ハ永へニ 淸キモノトハ 知リツヽモ 斯クトハ知ラジ 今日ノ夜ノ月
皎々ノ月ハダークブルーノ夜ノ窓外ヲ輝シテ、今シ橙樹ノ上ニ淸キ銀光ヲ落シタ。
南窓北窓ヲ打開ヒテ、主客三人ノ影ハ涼夜ノ階上ニ物語ツツアツタノデアル。
主人ハ客ヲ見守リテ、語ルヤウ
「吾自ラ餘裕アリ卜言フニアラネド、君ガ資ニト今日ニ及ビヌ、(中略)。之ヲ水泡ニ歸スハ忍ビ得ザル所幸ニ友ヲ通ジテ、××氏ヨリ學資ヲ給シ得ルニ及べリ。……心安カニ學べヨ」ト。(中略)居タル青年ハ唯共感ニ打タレ一言モ發シ得ザリキ。客ハ窓外ノ月ヲ仰ギ見テ強キインプレツシヨンニ打タレタ。僅ガニ口ヲ開イテ言フ樣「自ラノ如キ不才ノ者ヲシテ尚且ツ如斯キ迄ニ心ヲ砕カル、御厚情ニハ恥愧交々我ヲ責メ申スノデアリマス。生ハ此ノ言葉ヲ聞キシトキヨリシテ、何等カーツノ内職ナリト致シテ、學資ノ一助トナシ、今迄ノ御助力ヲ基礎ニ最後ノ目的ニ奮進セント」
主人其ノ苦學ノ言フニ易クシテ行ヒ難キヲ語リ、若シ事成ルモ或ハ心身ヲイタメテ百年ノ功ヲ一朝ニテ徒費タラシム之才ヨリ甚シ國家ノ損失アラフンヤ。乞フ我意ニ任セヨト。
客何ゾ涙無キヲ得ンヤ
客何ゾ涙無キヲ得ンヤ
話終リテ主客種々ノ物語リヲナシヌ。
暇多ケレバ度々遊ビニ來レヨト。夫人ハ客ヲ送リクレヌ。三度顧ミテ青年ハ涙ヲノミヌ。
[やぶちゃん注:旧学資援助者との対面の臨場感溢れる描写である。]
八月二十一日
藤井學生監訪問。
學生監ハ懇切ニモ生ガ行途ニ対シテ精細ニ見テ呉レタ。感謝ノ極ミダ。
八月三十日
××氏宅訪問。氏ハ英國型ノ紳士ナリ。靜カニ口ヲ開イテ曰ク。
「人生意氣ニ感ズト言フ一念ヲ以テ、ココニ君ヲ世話スル」ト。(中略)
[やぶちゃん注:新たな学資援助者との対面である。]
九月二十四日
先生ハ懇々ト教訓ヲ與ヘテ下スツタ。古イ小學校時代ノ寫眞ナド出シテ見セテ下スツタ。(中略)君ハ本校ノ學生トシテ完全ナモノト成ラネバナリマセヌ。決シテ小サイコトニクヨクヨシテハナリマセヌ。
感深シ
我今日意氣消沈セントスルガ如キアルハ、己レ自身モ亦知ル所ナリ。サレドムシロ此ノ事實ハ我前途ヲ祝福スルモノナルヲ記スベキナリ。何トナレバ汝ハ静寂ニ近ヅキツヽアレバナリ。且ツ靜中動ニ向フヲ得べケレバナリ。
毎晨毎夕、汝ハ靜座スべキヲ期セヨ、之ヲナシテ更ニ汝ガ心ノ落着キヲ強カラシメヨ。
十月一日
急ニ室移動ヲ命ズ〔→ゼ〕ラル
修養ノ道ハ蓋シ吾人ノ根本義ナリ、學ノ如キハ實ニ末ノ末ノミナリ。
是正ニ一理アレドモ、學ノ末ナリテフヲ楯ニ不勉強ナルモノ程見苦シキモノハアラズ。彼等ハ己ノ不能ヲ告白シ居レバナリ。
修學ニ誠意ヲ有スルモノ、又修養道ニ誠意アルべキ也、修道ニ志アルモノ、學ヲ勉メズシテ可ナランヤ。
十月九日 の午後十時半だ。
秋の草露にすだく虫の音は、まこと心地すがすがしきものである。名譽を想はんや。利慾を望み願はんや。あゝ靜、あゝ靜哉。
堂々の自然の運行を想へ、彼は永へに休止することを知らぬ。しかもこの大なる静寂を與へ、思索を與ふるではないか〔。〕偉哉。
僕は今動搖の心にある。而も之を改めんために極力努力をしつゝあり〔→る〕や否や。
默々たる天然の聲の如何に強きことよ。暗々たる天地のひゞきの如何に強きことよ。(中略)
十一月二十三日
隨感
私の思想は今迄、今でもありまするが動搖の期にあると言ふことを自覺するのであります。私は嘗ては非常に固苦しい道德教に捕れたのであります。嘗ては自分と言ふものを買ひかぶつた事もありませう。すべてのものは今よりすれば意義なく誠につまちぬものゝ樣にも感ぜられます。だけれど其つまらない事も今日多少此等を考へ得るに到つた徑程又は過程かと思へば誠に感謝せずには居られませぬ。
私は今〔、〕人の補助によつて學修して居るめであります。僅かに二年を經たに過ませぬが其補助者たる人々に對しては、誠に面目なき次第であります。
私はすべての努力を以て學習に又は精神的に努力したのであります。が然し其は自我としての事で、第三者として見れば眞實に努力したので無いかも知れません。何故ならば私は根本的自己の思想上に缺陷を藏して居たからであります。
其の缺陷とは工業の學校に在り乍ら、其學科よりも文學方面に趣味を向はしめたことである〔→あります〕。趣味はやがて其の職となす點に於て斷じて缺損するを許しませぬ。而も工業は曲りなりにも自我の志望したものであることを強ひて忘れんとしたのでありました。何故ならば工業其物が果して如何なるものであるかを、十分に知らなかつたからであります。文學的方面の者が工業的に向つたのは一つの無暴でありませう。
されど是は必ずしも左樣でないだらうと云ふことも確かめられるのであります。文學てう一つの不生産的方向に入る者が茲に生産的方面の工業に入ることは、多分の社會的意義があるます。(中略)
先づ私は、工業、自己の修むる工學が如何なる力と、如何なる社會的意味があるかを、多少想像し得る段階に進んだのであります。
[やぶちゃん注:藪野の一族は祖父と同じく理工学や電気関係に進んだものが多い。他には本書の挿絵を描いている祖父の弟の正雄やその息子たち、私の父などが美術に向かった。純粋に文学というのは実は、一介の高校の国語教師ながら、私だけかも知れない。私は今回、祖父の日記を読みながら、文学は勿論、祖父同様に哲学・宗教への強い興味を持つ私の中に、強力な祖父の遺伝子を実感したことを、ここに告白しておきたい。]
十二月二十四日
第二學期モ終了ス。
過去七日間ハ全力ヲ注イデ出來ルダケノ努力ハシタ。チツトモ愧ズル所ハナイ。
松本氏ヲ訪問シタ。氏ハナカナノ對話家ヂアル、其ノ一言トシテ徹底セザルハナイ。(中略)
自己ノ前ニハ光明セル強固ノ希望ヲ存シテ置カネバナラヌ(中略)
自分ノ理想ハ社會ノ共樂ニアル。
自分ノ目的ハ工業發明ニアル。
自分ノ責務ハ我日本ノ振興ニアル。
自分ノ任務ハ父母ヲ養ヒ弟妹ヲ教フルニアル。
自分ノ本分ハ學生ノ體面ヲ落サザルニアル。
十二月二十五、、六、七、八、三十月
自分は何故に斯く意志が薄弱なのであるか。何故斯く迄決心を徹することが出來ぬか。
汝には眞の努力が無い。
ベストの盡し樣が足らない。
一年は暮れて行く。
年が徒らに過ぎたのではない。
汝が徒らに貴重なる年の機會を逸したのである。
何事も云ふな。
何事も胸に語らへ。
そして猛進せい。
決して黄金の爲に自分の心を屈することはならぬ。せうとしてもならぬ。
淸い生涯に入る。
これが大正三年に入る汝への神の寸志である。
噫々暮れ行く大正二年よさらば。
(註)日記中に淨心會の事や、禪僧の話を聞かれた事が、散見するが氏の内省的な見方は此時代から大体東洋流、禪らしい流を見せてゐる。余は其を出すに意を用ひたのであるが、十分でないのは是はむしろ余の責任である。
[やぶちゃん注:「二十五、、」の読点の二重打ちはママ。村上氏の註の「体」もママ。「淨心會」は後の「四月十六日」の日記に語られるところの明治専門学校内の仏教研究修養サークルであり、この頃にはその会に所属していたか、時に参加していたものと推測される(でなくては後の四月十六日の日記で同会の現状批判は出来ないであろう)。

