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2011/08/29

カテゴリ 藪野種雄 創始 / 藪野種雄略歴

カテゴリ「藪野種雄」を創始する。彼は僕の父方の祖父である。彼の遺稿集を本ブログで順次公開する。それは僕の中の彼の遺伝子を追認精査するためである。

落葉籠   藪野種雄遺稿

[やぶちゃん注:以下ブログで順次公開するものは、私の父方の祖父藪野種雄の遺稿集の全文である。遺稿集奥付によれば、村上正巳氏(父の無二の友人で、当時の住所は名古屋市東区柳原町三丁目四三番。「大正九年一月十九日」の日記の註から、村上氏は明治専門学校の後輩に当たることが分かる。大正九(一九二〇)年に二年生で、祖父は就職二年目の一月であるが、祖父は一年落第しているから、数えで五つ、学年で四つ下(明専は四年生であるから祖父の卒業と同時に村上氏は入学した)と思われる。それ以外の氏の詳細な履歴は残念なことに不明である。御存知の方は御教授願えれば幸いである)によって昭和十(一九三五)年七月二十五日に名古屋市東区千種町の印刷所三益社で印刷されており、村上氏の自宅を発行所としている。読み易さを考え、日記の日付の変わる箇所には行空けを施し、一部、脱字と思われる箇所には〔 〕で私が適字や句読点を補ったり、推定される正しい字を〔→(正字)〕で示したりした。一部読み難い箇所に字明けも施した。各年の頭に底本にはない「□」を附した。また、一部に私の注(村上氏の原注は「註」である)を附した。注の多くはウィキその他、ネット上の信頼出来ると思われる資料を参照した。複数の資料を勘案して記載したため、総ては断わっていない。またブログ版ではリンク作業が面倒なため、一部のリンクを省略した。将来、HP版ではリンクを施すので、悪しからず。誤りがあった場合は、御教授願えれば幸いである。なお、本作の原本資料はその多くが散逸しており、作中の「(省略)」を補うことは、現在出来ないことを私は心から残念に思う。尚、祖父はしばしば自己を客体化して「彼」と三人称で呼称する癖があることを断わっておく。]

[見開き:藪野種雄写真に「故人小照」のテロップ。その下に以下の略歴が載る。]

畧歴 明治二十七年生
   東筑中學卒
   大正六年明専機械科卒
   仝年九軌ニ就職十一年辭職
   大正十一年明治鑛業赤池發電所建設
   次デ翌年淺野セメント東京本社嘱託
   大正十三年東邦電力名古屋發電所ニ
   就職、昭和七年退職
    九年八月十四日辭世
[やぶちゃん注:「明治二十七年」は西暦一八九四年。「昭和七年」は一九三四年であるから祖父は享年四十一歳であった。「東筑中學」は現在の福岡県立東筑高等学校(「とうちく」と読む。福岡県北九州市八幡西区東筑)で、明治三十一(一八九八)年に福岡県初の県立旧制中学校として設立、北九州地区においては創立百十三年と最も歴史があり、全国有数の進学校でもある。
「明専」は「めいせん」と読み、現在の国立九州工業大学(福岡県北九州市戸畑区仙水町)であるが、祖父が入った時は北九州の炭坑明治鉱業を手がけた安川敬一郎の安川財閥によって鉱山技術者養成専門学校として明治四十二(一九〇九)年に開校された私立明治専門学校であった。採鉱学科・冶金学科・機械(工学)科で構成されており、日本で初めての四年制専門学校でもあった。大正十(一九二一)年に官立に移管され、戦後の昭和二十四(一九四九)年に新制国立大学となった。現在でも通称として「明専」と呼称されることがある。
「九軌」は九州電気軌道(現在の西日本鉄道の前身)。福岡県門司市・小倉市・戸畑市・八幡市(合わせて現在の北九州市)において路面電車路線を建設・運営した鉄道事業者。明治四十一(一九〇八)年設立。祖父が就職した当時は、これらの都市の主要路線が全通した九軌が大躍進した時期である。
「赤池」福岡県北東部の田川郡に属していた筑豊炭田の有力な鉱山町で、祖父の建設した明治鉱業の三本煙突の赤池発電所は、文字通り、赤池繁栄のシンボルであった。近年、財政再建団体となって合併、福智町となって赤池町は消滅した(先のリンクは福智町公式ウェブサイトの「財政再建」のページで赤池発電所の写真がある)。
「淺野セメント」は現在の太平洋セメント(旧日本セメント)の前身。浅野総一郎を総裁とする浅野財閥の中核企業として発展した。以上この辺り、祖父は目まぐるしく会社を変わっているが、日記などから窺われることは、職工や同僚の苦しみを見逃せない現場技師として、しばしば上司や会社幹部と衝突、それが一因としてあるように感じられる。そこには祖父の独特の気骨が感じられるのである。
「東邦電力名古屋發電所」東邦電力は大正から昭和の戦前期に存在した電力会社。五大電力(東邦電力・東京電燈・日本電力・大同電力・宇治川電気)の一つ。大正十(一九二一)年に関西水力電気と名古屋電燈が合併、関西電気が設立、翌年、関西電気と九州電燈鉄道の合併に伴って九州北部・近畿・中部の一府十一県に及ぶ事業を行うようになって東邦電力と改称した。先の注で示した福澤桃介が専務取締役で、実質上の経営は福澤の盟友であった副社長(後に社長)松永安左エ門が当った。当時、水主火従であった電力業界にあって、松永は火力発電を重視、大正十四(一九二五)年には東京へ進出、東京電力を設立(現在の東京電力とは無縁)、昭和初期には日本有数のエネルギー企業へと成長した。後、昭和十七(一九四二)年、国家総動員法により再編解散した。その「東邦電力名古屋發電所」は松永の肝煎りで大正十五(一九二六)年十二月に名古屋市港区大江町に建設した、アメリカから輸入した単位容量三万五千kW発電機二台による出力七万kWの、最新鋭のこれまでの日本にはなかった最大容量火力発電所であった。ここに往時の外観を写真で見ることが出来る(リンク先は名古屋の情報発信ネットワーク「Network2010」の「開府400年」の「昭和初期1」)。惨憺たる経歴でありながら、東邦電力に転職し、それも最重要の新規プロジェクトを任せられたのは、推測ながら、祖父の技師としての手腕が業界で買われていたからこそではなかったろうか。
「九年八月十四日辭世」とあるが、如何なる錯誤があるかは分からないが、現在のところ、祖父の命日は八月十五日となっている。]

       編纂者の言葉

 余が畏友藪野氏の遺稿の出版を想ひ立つたのは昨年の夏、氏が他界の直後に於てゞあつた。未亡人からは直ちに材料の提供を受けたのであつたが、一つは余の公務上の多忙と、-つは遺稿と云つても日記とか書面とかゞ主體となつてゐて、學術論文とか隨想とか云つた形のもので無いので、その取捨選擇に手間取つた爲遂に今日迄延び延びになつたのである。で最初は氏の吊慰金の一部を割いて、有志の名で出版する考であつたが、後で述べる如く本書の内容が全く余の主觀を通した一つの體系となつたので、此の責任を他に轉嫁することの不當なるを慮つて、余一私人の此版物とする事にした。
 内容の選擇に當つては、余は一つの指導原理の許に立ち働らいた。其は氏の晩年に於ける人格が靑壯年期を通じて如何に培はれ來つたか、云はゞ發展的形態に於て摑んだ「藪野氏」と云つたものを作る事である。從つて是は所謂遺稿集でなく「遺稿をして語らしめた自叙傳」であり、しかも一つの履歴を梯子段式に並べた通俗のものでなく、「内面生活史」とも云ふべきものである。かゝるものは藪野氏に於て始めて意義のあるものであつて、内面生活の乏しいものにとつては、却つて沽券の低下ともなるであらう。
此の書は氏が生前の知己に配布する計畫であるから、氏が如何なる人となりであつたかを茲に縷述する必要はあるまい。唯茲に一言贅言しておきたいのは、純情的な、多感な、科學的組織よりか直觀的な、そして常に反省しつゞけ、全生涯を通じて経濟的に壓迫され乍らイデアリズムの牙城を死守した氏の精神的苦鬪を十分に汲んで戴きたいことである。
 余がかく書き續ける間、余の眼前には、あの柔和の中に苦み走つた、低聲でニコニコし乍らもどこかに強さを藏つた生前の面影がチラついてゐる。余の筆は宛も此の笑顏によつて導かれつゝあるかの如く、何のこだわりもなく運ばれてゐる。余は嘗て覺えたたことのない快さを以て此の文を書きつゞる事を、諸賢の前に告白しておきたい。
村上正巳       
       内容について
 表紙及びカットは令弟正雄氏(二科の常連)を煩はした。所々に散見する註とあるのは筆者の加へた註である。日記は大正二年より六年迄及び八九十十一年昭和に入つて四五年とあるが、後年のものはブランクに殘つてゐる場所が多い。用紙は最初の二年は落葉籠としてノート、後は常用日記類である。
 所々伏字があるのは勿論著者の意圖の許になされたものである。
[やぶちゃん注:「吊慰金」は「ちょういきん」と読む。「吊」は「弔」の俗字。「二科の常連」とあるが、二科展は昭和十九(一九四四)年に解散、戦後、旧二科会会員によって二紀会を創立、藪野正雄もそちらに移っている。]

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