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2011/08/29

藪野種雄 日記 大正4(1915)年

□大正四年(二十二才)
 (註)此の年に入ると、氏の日記は著しく明朗性を帶びて來て、大正二三年の暗い影が跡を斷つてゐる。が然し日記は七八月以後は所々に散見す〔る〕程度である。

  一月一日
 何はなくとも親子六人、其貴い聲に引かれて昨夜家庭の兄となつて歸つた。
 今日は一月元旦、何と言ふ想ひ出もなく、例の樣に腹ふくるゝ迄樣々のものを食つた。今は諒闇中である。年始の禮も欠く所多けれど、忘るべからざる人々の内を訪れた。
 さる年も年も失敗の想ひ出たるに過ぎぬ。徹底せる感傷的な生を迭つて來たのである。全力を捧げて自己の務を盡した考であつた。然し事實は失敗の跡を印して居る。所謂誠の眞面目が乏しかつたものとせなければなるまい。人前を作る謙遜すぎる、思ふ存分に事をなさざる、すべて自己には尚多くの虚僞なる自己があつた。佛陀の御前に立ち得ざる自己である。此の新しい年を迎ふるに當つて、何も云ふまい。唯々自己をして眞に偏りなき自己、眞面目な者として此年の終、佛陀の前に勇ましく強く徹したる自己を捧げたい。
[やぶちゃん注:「諒闇」とは「りょうあん」若しくは「ろうあん」と読み、一般には天皇の父母の崩御に当っての天皇が喪に服する期間を言う。大正三(一九一四)年四月九日に亡くなった明治天皇皇后である昭憲皇太后のそれと思われる。但し、礼法では天皇の諒闇は十三日間。この日記の謂いは現在の忌中と同じ意味で用いているのであろう。]

  一月五日
 (註)小野先生の助手として休み中なるに拘らず勞役中。
 先生今日は少々朝寢坊をして急ぎ給ひしにや又もエンテコなる飯をたかれたり。時に午前九時、終に午前十一時といふに、餠にて朝食と御座い、ひいて午後三時晝、午後八時に夕食なりき(夜食)何だか腹が變だわい。
寮への道、グラウンドから東方小松の山上を左に見れば、暗夜の雲間から朝日の樣な大きい黄味がゝつた月が出た。打眺めつゝ小便をとばしけり。
[やぶちゃん注:「エンテコ」不祥。地図上では明専の東方には小松町というのがあり、その近くに戸ノ上山というのがある。ここか。]

  一月七日
   死
 朝日新聞に出た記事がある。曰く某氏珍らしき病氣の爲に死す。大學開始以來最初の病氣。痛さはあまり感ぜす一年半位にして死するものと言ふ。是を讀みたる一刹那は我ながら心をのゝきぬ。其は外でもない、一年程か前に柔道にて打ち出したるらしきコブ、右坐骨上部にあるんだもの。此夜思ひに餘る一夜今からするもゾツとせざるを得ぬ。死!死!我が眼前に一年乃至半年の生のみなりと思ひたる刹那、我父母兄弟其時の心、今後家族の人々の如何になりゆくべきや、などと考へては考へ、生れて甫めて眞摯なる死をば考へしめた。
[やぶちゃん注:「甫めて」は「初めて」に同じい。この記事の學生の病気は、恐らく骨肉種かと思われる(祖父が気にしている自分の傷から見ても)。それにしても、後に四十一歳で結核で亡くなることになる祖父のことを考えると、この二十年前の素直な感懐が不思議に胸を打つ。]

  一月十三日
 五時半………六時に飛び起きて見れば、一帶雪景色なり、オヽ、寒さや寒さ。寢床戀しきこと夥し。寒稽古をやつての歸るさ、足先は尚も石の如し、早速湯にとび込む。點呼は失敬した。

  一月十七日
 今學期行ひたき事の一つとして虚心淡懷を誓ふ。見るがまま、思ふがまゝ、眞は眞のまゝ、發露しよう。
 (註)一月下旬の日記には山川先生滯在中の訓話や、藤村詩集の抜粋がのせてある。
[やぶちゃん注:祖父は殊に詩歌が好きだったようである。遺品の中には石川啄木歌集もある。]

  二月三日
 午後四時體格檢査。
 身長五尺四寸七分。
 體重十五貫百。
 蟲齒二、視力九度。
 肺活量四千五百。
 體格強健!
[やぶちゃん注:現在の単位に換算すると身長一六五・七センチメートル、体重五六・六キログラム。]

  二月二十二日
 晴れた日。
 日本帝國は支那中華民國殿へ、なかなかに蟲の好い申出をやつた。其一に曰く、外債を起こし又は政府に顧問を搜す時は一應同意を得よ。山東鐵道の敷設權を與へよと。米國は案外平靜なるが如し。
 (註)三月、偉人と凡人との別を記し、即興詩人をひき、宗教書をあさられたものゝ樣である。
[やぶちゃん注:祖父が言うのは同年一月十八日、大隈重信内閣が袁世凱に要求した対華二十一カ条要求のこと。日本の権益を大幅に要求して、実質的な帝国主義日本による中国支配の端緒となった。これも最早、原本が失われて読めないとなれば、私には痛恨の極みである。編者の村上氏には誠に贅沢な言い分であるが、かえってこんな註を施して呉れなかった方が良かった。]

  四月二日
 况後録
 伊東に死なず、龍の口に斬られず、不思議に存らへし命も此處佐渡が島を今は最後の地と覺ゆるぞ。あらうれしや、人々此程の喜をば笑へよかし。日蓮程の果報者。また世にあるべしや。
 頸は鋸にて引きも切られよ。胴は稜鋒もて貫かれもせよ。足には絆を打ちて錐捫みにもせよ。此の息の根の通はむ程は南無妙法蓮華經の聲をばよも絶たじ。
 末法付屬の未來記はまさしく日蓮が生涯に記されたり、刀杖瓦石もて身に流されたる日蓮が、血潮はやがて妙法勝利の願文に染められたり。
[やぶちゃん注:「况後録」は明治三十四(一九〇一)年十二月に執筆された高山樗牛の作品。但し、作品末の作者注記によれば複数の日蓮の文書の引用などをとした、樗牛の私見を含む日蓮称揚の文章である。これはその第一章から部分的に複数引用して、それを繋げたものである。題名は「況滅度後」(きょうめつどご)という法華経法師品の文に基づくもので、これは「如来現在猶多怨嫉、況滅度後」(如来現在、猶ほ怨嫉多かるがごとし、況んや滅度の後をや)を更に省略したものである。これは、仏陀在世中にあってさえ、なお怨敵は多くいた程であるから、ましてや仏の滅後、末法の世にあっては法華経を掲げんとする者への法難は激しいに決まっているという意である。原本では「存らへし」は「ながらへし」、「稜鋒」は「ひしほこ」、「錐捫み」は「きりもみ」と訓じている。国立国会図書館のデジタル・ライブラリーで閲覧出来る。]

  四月七日
 昨夜雨なりしも晴れたり、陸續と歸寮者を見る。テニスをやりたれど、風強かりし。
 明日からは無念の一年間が語る第一日となつた。明日からが愈々自己を勇躍一番せむ時である。さあ今からじあ。
 萬身の勇を鼓して奮鬪すべき時が來た。あゝ何と愉快で〔は〕ないか。
 オヽ腕は鳴る。
 オヽ心は大海の如く。
 オヽ強き力動かざる信念。

  四月三十日
 機械學會に於て諸兄へ。
 (註)是は何處か機械科教室の廊下にでも帖〔→貼〕られもの如く、ピンの跡が四隅に白く殘り、紙面全體が變色してゐる。
◎夫れは夫れは永い間………例へば祖曾父〔→曾祖父〕達が子々孫々の爲に高價な汗と高價な血を以て作りあげた澤山な、然し貴重な財寶が.昨日の野良仕事の折に掘り出された樣に、私等の眼前にも、もつと見事な、もつとスケールの大きい寶を見出すことが出來た。其は眞劍に復活することの出來た各學會であります。
◎篤くと皆樣の御存じの如く。所謂教室光學特にツメコマレ工學と言ふものが、何程迄に活用され、運用されるかは、頗る疑問であります。
 心の底から止めども沸き出する趣味の自分で讀み、趣味の自分で考へ、趣味の自分でやるもののすべては、最も效率の良い、最も強固な地盤の上に得る眞の山川流の技術者を作り、工學をなし、國家をなすものであります。
◎諸君、此の意味に於て眞劍に生きた學會の前途は、何れの學會を問はず、最も幸福であり、最も尊敬すべきものではありますまいか。
◎既に自覺があればまさに來るべきものは、實行であります〔。〕
◎御承知の如く責善會誌第五・六號に於て、我が機械學會長森教授は、「見える樣にせよ」「獨立の意義」を絶叫せられました。
 先生の其の心は、即ち吾々機械學會員一同の眞實な先行詞であります。又なければならぬのであります。
◎「堅實でなければならぬ。連續的でなければならぬ。學生自身の學會でなければならぬ。」とは實に最近に於ける先生の訓言でありました。
 學寮の諸兄よ。
 立つべき時が來た。
 林が盡きると、野に出る。
 今、只今が其時である。
 諸君の御一考を乞ふ。

  五  月
 (註)五月に入ると日揮は所々に散見するばかりであつて其も簡單なもの。

  六月二日
 此の四十日に爲したる所、顧みれば一つとしてあらず。
 此の學期も近く終結するが、どうかして素志を貫かねばならぬ。自分には大なる理想のあることを忘れてはならぬ。

  六月二十二日
 近來氣分甚だよし。
 其の理源を察するに、過日三日(三日坊主と言ふべきなれど)朝食を断ち、後ミルクを用ひたるに案外なりき。元氣舊に倍し、充分なる睡眠も出來、今迄よくありし如き神經衰弱の兆候を見ず。午後十一時迄より以後起しことは稀なり。

  六月二十六日
 今日午前九時、機械科の入口に近付いた時小野先生がオイと呼ばれる。何事ぞと思ひ近寄れば、是はしたり金をやるからとの事。一目散………電氣科に逃れぬ。其より二時間後製圖をやつてゐると單刀直入である。今は強ひて辭されもせず。其の御厚意に甘えて、有難くお受けした。金七圓なり。
 これは吾が最初の勞働の賜なり。何か記念すべきものを求めて永遠に傳へん。
 午後夕食後先生に御禮に參りぬ。
[やぶちゃん注:「一月七日」の村上氏の註にあるように、祖父は恐らくしばしばこの小野先生の研究の手伝いをしていたものと思われ、或いはその研究の成果が実際上の先生の利益に繋がったことによる謝金ということででもあろうか。]

  七月十五日
 午前六時發幸袋に向ふ。午前九時半工作所に出ず〔→づ〕。森山二見君等重量見積中なり。余は直ちに工場も見ずに製圖をしぬ。トレースなり(ポンプデテイル)
(註)是から夏季實習が始まる。
[やぶちゃん注:「幸袋」は「こうぶくろ」と読み、福岡県中央部にあった町。嘉穂郡に属していたが、後に合併して飯塚市となり消滅した。日鉄二瀬炭鉱高雄坑に代表される石炭産業が主幹産業であった。これは夏季工業実習で実際の炭鉱に赴き、採炭作業に必要なポンプの細部の製図作業に従事したことを意味するものと思われる。]

  七月二十四日
 海原に出て角力をやつた。森山、中西と三人、曰く運動不足の補充なりと、夜あの橋上に立つて見ると工作所の獨身會員諸君が、二艘の川舟を以て、川上に赤い提灯ゆらゆらと歌ひ乍ら上つた。毎年の例とか。
    × × × ×
 波多野鳥〔→烏〕峰氏の逆境離脱策と言ふを讀む。
[やぶちゃん注:「逆境離脱策」は波多野烏峰著で実業之日本社が明四十二()年に刊行したもの。波多野烏峰は恐らく波多野養作(明治十五(一八八二)年~昭和十(一九三五)年)と同一人物と思われる。外務省嘱託として日露戦争末期に外務省の特命で中国西域を探査した探検家である。以下、フレッシュ・ペディアの「波多野養作」から引用する(アラビア数字を漢数字に変更した)。『福岡県若松市二島(現・北九州市若松区二島)に生まれる。福岡県中学修猷館を経て、一九〇五年三月、東亜同文書院を二期生として卒業する。修猷館在学中は柔道部に所属し、柔道部の三年上級であった後の首相広田弘毅とも交流があった』。『東亜同文書院を卒業後、外務省から、東亜同文書院院長根津一を通じて、他の数人の東亜同文書院二期生と共に、中国奥地の新疆省(現・新疆ウイグル自治区)の探査を行う特命を受ける。これは、日英同盟による情報協力に基づいて、イギリス政府から日本政府に、中央アジアにロシア軍の勢力がどこまで及んでいるのかを調査するよう要請があったためであった。一九〇五年七月三日、波多野は北京から単独で探査旅行に出発する。洛陽、西安、蘭州を経て、西域に入り、遠くウルムチ、イリまで探査を行った。その間、これらの地域の情報を詳細に記録し、北京の日本公使館に送っており、それらは現在、当時のシルクロードの状況を知る上で貴重な資料となっている。その一方で、烏蘇近郊で蒙古の杜爾伯特王と、哈密では哈密回王と会見し、青海省ではダライ・ラマに謁見している。一九〇七年六月六日、北京に帰還する。なお、この探査旅行を東亜同文書院の在校生が知ると、彼らも大旅行を行うことを強く懇願したため、東亜同文書院では五期生から、毎年卒業時に、学生自らが計画する三ヶ月から四ヶ月の大旅行を行うことが恒例となり、これは四十三期生まで続いている』。『帰還後、外務省の嘱託として北京の日本公使館で勤務する。その頃、長女の初子が誕生したが、その名前は、当時駐支公使であった山座円次郎が命名したという』。『その後、外務省を辞し、明治鉱業錦州炭鉱に勤務するため奉天(現・瀋陽)に移るが、数年後に体調不良のため郷里若松市に戻り静養する。病状が回復すると、外務省の紹介で中国湖北省にある大冶鉱山の製鉄所(漢冶萍公司)の顧問となるが、再び体調を崩し、一九三二年に辞職する』。『一九三五年七月、大量の睡眠薬を服用し自殺を遂げる。一九三一年に勃発した満州事変により、長年日本と中国の友好のために尽くしてきたことが無になったことに絶望した為といわれる』。偶然かも知れないが明治鉱業で祖父と接点がある。「逆境離脱策」は国立国会図書館デジタル・ライブラリーで閲覧出来る。]

  七月二十五日
 終日見學的實習に疲れて一浴したる後、稻毛祖風の「若き教育者の自覺と告白」を讀みつゞく、得る所大なり。
 (註)此の後へ稻毛氏の煩悶と人生等の略述がしてあつて之が二十七日迄つゞき、最後に「兄さん人生は書き損じを許しませぬ。其自身が淸書です」という句に圏點を打つて結んである。
[やぶちゃん注:「稻毛祖風」は「近代日本哲学思想家辞典」等によれば、本名稲毛金七(きんしち 明治二十(一八八七)年~昭和二十一(一九四六)年)、教育学者。中学教育を受けずに明治三十九()年に早稲田大学哲学科入学、明治四十五()年卒業。中央公論社の雑誌記者を経て「教育実験界」主筆となり、昭和二(一九二七)年教育雑誌「創造」を創刊主宰。創造教育論を唱えて当時の新しい教育運動に多くの影響を与えた人物である。大正十三(一九二四)年のドイツ留学後、昭和二(一九二七)年に早稲田大学講師、後に教授となった。『創造主義、理想主義への転化こそ当時の日本の思想界の情勢であるという時代認識をもち、人間を創造者であるとし、人格の創造を教育の直接目的とし、教育の方法は、創造性を最も有効に発動させることであるとした。すべての子どもの独自性を認め、人格的存在としてとり扱い、国民教育の水準を向上させようとする意図は重い意義をもつものとして迎えられた』(ネット上の図書館レファレンスより引用)。「若き教育者の自覺と告白」は内外教育評論社大正 一(一九一二)年刊で、稲毛の代表的著作。]

  八月十二日
 滿二十九日間の實習を終れり。恥かしと申すべき哉、この實習の爲にとて庶務課より一ケ月の辨當代として六圓を渡すとの事なり余は直ちに辭しぬ。是、後の十日は見學なりたればなり。

  八月十三日
 正雄を伴ひ、植木、山縣の友達も連れて本年初めての水泳なり(門司では)
 午後八時、本町教會にて山室軍平氏の講演を聞きたり。
 (註)以下、講演の筆記がある。
[やぶちゃん注:山室軍平(明治5(1872)年~昭和15(1940)年)は牧師にして日本初の救世軍士官、初代救世軍日本国司令官。以下、ウィキの「山室軍平」より引用する(アラビア数字を漢数字に変更した)。『岡山県阿哲郡哲多町(現在の新見市)生まれ。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助とともに「岡山四聖人」と呼ばれる』。『実家が貧しくて、少年時代に養子へ出される。十四歳で上京して、印刷工となり、伊藤為吉の下で修行するが、教会主催の英語学校に入学。そこでキリスト教に触れる。一八八九年(明治二十二年)、同志社大学神学部入学。赤貧の中で勉学に励むが、一八九四年(明治二十七年)に健康を害し、また当時広まりつつあった自由主義神学(リベラル)への反発もあり同志社大学を去る。その後暫くは石井らとともに高梁教会(旧メソヂスト)などで伝道活動を行なっていた』。『翌一八九五年(明治二十八年)より石井の勧めで救世軍に参加。パンフレット『鬨の声』(現在の救世軍日本軍国公報『ときのこえ』の前身)を刊行するなど大いに働き、日本最初の士官(伝道者)となる。後に東洋で最初の中将となり、日本軍国司令官となる。終生に渡り社会福祉事業、公娼廃止運動(廃娼運動)、純潔運動に身を捧げた。一九二四年(大正十三年)に勲六等瑞宝章を受章。一九三七年(昭和十二年)には救世軍より「創立者賞」を受ける』。『「平民の福音」を始め、分かりやすい言葉による著書や説教が親しまれた。妻の山室機恵子』も婦人運動家として知られた。]

  八月十四日
 高等女學校にて文學博士白鳥庫吉氏の日本民族てふ講話を聞きぬ。
 (註)以下筆記がのに〔→つ〕てゐる。
[やぶちゃん注:白鳥庫吉(しらとりくらきち 元治二(一八六五)年~昭和十七(一九四二)年)は東洋史学者。東京帝国大学教授。東洋文庫理事長。以下、ウィキの「白鳥庫吉」より引用する(アラビア数字を漢数字に変更した)。『邪馬台国北九州説の提唱者として有名。師に那珂通世、弟子に津田左右吉など。外交官、政治家の白鳥敏夫は甥』。『日本や朝鮮に始まり、アジア全土の歴史、民俗、神話、伝説、言語、宗教、考古学など広範な分野の研究を行う。一九一〇年に「倭女王卑弥呼考」を著し、「邪馬台国北九州説」を主張。時を同じくして同時期の著名な東洋学者で「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」、「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び称せられた京都帝国大学(現京都大学)の内藤湖南教授が「卑弥呼考」を著し畿内説を主張。後に東大派と京大派に別れ激しい論争(邪馬台国論争)を戦わせ』た。『一九〇七年、東洋協会学術調査部を設立し、『東洋学報』の創刊、『満鮮地理歴史研究報告』の刊行、一九二四年の東洋文庫の設立などに尽力した』。]

  十一月二十日
 淨心會主催、午後七時半より講堂に石川先生成章氏の講演あり。後〔、〕今川先生宅へ。
 念佛三昧に入れば善悪貧富何人たるかを問はず、安穏の生活〔、〕永遠の安住を得るものなりと語らる。念佛三昧に入るには如何なる道をとるべきや、御尋ねす。
[やぶちゃん注:石川成章(せいしょう 明治五年(一八七二)~昭和二十(一九四五)年)は理学博士地質学者。浄心会が主催していることからお分かり頂けるものと思うが、実は石川成章は真宗大谷派の宗教人でもあった。但し、この後半部の語りと祖父の質問は、石川・今川、どちらとの間になされたものかが不分明である。但し、どうも文脈の印象からは、講演後に、恐らく明専の教諭である今川という人の自宅に石川氏を御礼に招き、そこで祖父が石川氏から聞き、尋ねたと読むのが自然か。]

大正四年終
 (註)此年は前年に目立って外部から何者かを得ようとする慾望が増してゐる。内面的に見れば反省し、思索するにつけて、自己の思想内容の貧弱な事が如実に感ぜられてならぬ時代の樣である。かゝる時は或る一階梯を進む度に前途が拓けて、外部へ働きかけたくなる時であり、其が氏に於いてよく見られる樣である。

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