教員免許状更新講習を終えての感慨
昨日、教員免許状更新講習を終了したが、総ての講座を通して僕が感じたことは唯一つ――現在の教育学はジャズの評論みたようなもんだ――という感慨であった。
僕が大学時分に受けた教育学の講座――今回の講習に比べれば遙かにつまらぬものだった印象はあるが――では、殆んど外来語を聞いた記憶がない。
ところが、今回の講座はカタカナの専門用語の嵐だった。アカウンタビリティだ、リテラシーだ、スキルだ、キャリアだ、ピースメソッドだ、レイマン・コントロールだ、PDCAサイクルだ、PDDだ、SNSだ――情報の講座の30代の若い講師の講義、これ本人が書いたら半分近くがひらがなカタカナで埋まるんじゃないかと思って、僕はブルったね。英語の苦手な僕は、その都度、英和辞典を引いて綴りと意味を確認したのだが、周りの連中は如何にも分かった顔してうなづいていた。――凄いね、今の教員は。僕はつくづく教員不適格者だという感を強くしたね――(半分、冗談、半分、本気)。
世が世なら講師は全員、国賊だね――(これはまず、冗談)
彼らは「法的拘束力」バキバキの高等学校学習指導要領の、「国語」の「第1款 目標」は何だか知ってるのか?
国語を適切に表現し的確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力を伸ばし心情を豊かにし,言語感覚を磨き,言語文化に対する関心を深め,国語を尊重してその向上を図る態度を育てる。
それを教える教育学の教授連が、カタカナばっかり使ってるようじゃ、高が知れるというもんじゃねえか。退職後は皆さん、ひらがなとカタカナで文章が書けちゃうジャズ評論家に転進出来ること、請け合いだ。――(これはモノホンの本気だ)
アスペルガーをアスペと言うのは言語道断だ(但し、僕がこれに不快を覚えるのは、恐らく、教授らのそれとは違う意味でだ。この短縮形に既に謂れなき差別の意識が潜んでいると僕は思うからだ)。しかし、それを言う前に、日本の「学習指導要領」を伝家の宝刀として振りかざす御用教育学者たちよ、まず、不勉強で不真面目な子供らにも、自己保身に汲々としている哀れな教師らにも、すんなり分かる「日本語」で講義をし給え! 以上!
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