キリスト 土岐仲男 / 土岐仲男詩集「人」完
キリスト
キリストはある朝便所の中で考えた
自分は朝めしも食わねばならぬ
それに女の膚に触れても見度い
いや それは迷夢だ
おれの糞は人のとは違った匂がする
弟子どもがみなそう言う
その方が真実だ
おれの頭は狂ったのかな
そんなことはない
ただ異常に
神が
在天の大神が
このおれを目にかけて下さるのだ
まてよ
しかしあの時
おれは無我夢中で祈ったが
魚はもと通りただの一匹だった!
それだのに
ああ奇蹟が現われた
魚が十匹にふえた
魚が千匹にふえた
弟子どもが叫びおった!
そんなことを言っているうちに
誰かが皆に魚をくばった
「奇蹟の魚だ」
「奇蹟の魚だ」
人びとは口々に叫び
争うてこのおれを礼拝した
おれは詐欺師ではないか
おれはペテン師ではないか
いや!
弟子共には一匹の魚が百匹に見えた
千匹に見えた
何故だろう!
あいつらは迷っているからだ
このおれだけがあいつらよりすこし強い
このおれが迷いだしたら
人類の破滅
世界の破滅だ!
人類の善意が破滅する
人類の道徳が破滅する
そして
世界はなくなる!
その直前に
このわしと言う細い綱によって
皆が
人類全体が
神の国にぶら下がろうとする
このおれが切れたら
世界はつぶれるのだ
人類はつぶれるのだ
おれは糞なんかしていられない
いや
またどこかで野糞でもひればよいのだ
おれは出発しよう
[やぶちゃん注:――酒詰先生、先生は芥川龍之介と同じように、キリストにジャーナリストを見たのではありませんか?――いえ、そして先生もキリストとなられたのですね――ジャーナリスト・キリストとして現世に復活された、のですね――]
詩集 人 土岐仲男 完