ゾウ(象) 土岐仲男
ゾウ(象)
やさしい眼をした
どこまでも続く肉の塊
鼻もゾウで
耳もゾウで
しっぽもゾウだ
ゾウでないゾウだけが
いと静かに宇宙に漂う
どれがゾウで
どれがゾウでないのか
全きゾウ
一部のゾウ
ふくれるゾウ
しぼむゾウ
硬いゾウ
やわらかいゾウ
ゾウでないものがなければ
ゾウであるものがない
ゾウは鼻を振って
尻尾を振って
木の幹の如き
四つ脚をふんまえて
歩いて行く
歩いて行く
ゾウでないゾウと
永遠の虚無へ――
[やぶちゃん注:この詩が村上昭夫の「動物詩集」に紛れ込んでたら、誰もが村上昭夫の詩だと思うのではあるまいか? 村上昭夫の「象」をここに掲げておく。
象
象が落日のようにたおれたという
その便りをくれた人もいなくなった
落日とありふれた陽が沈むことの
天と地ほどのへだたりのような
深い思いをのこして
それから私は何処でもひとり
ひとりのうすれ日の森林をのぼり
ひとりのひもじい荒野をさまよい
ひとりの夕闇の砂浜を歩き
ひとりの血の汗の夜をねむり
ひとりで恐ろしい死の世界へ入ってゆくよりほかはない
前足から永遠に向うようにたおれたという
巨大な落日の象をもとめて
酒詰先生は恐らく法(カルマ)を象徴する普賢菩薩の乗る象から、禪の空(くう)のシンボルとして象を形象として選んだように私には思われるが、村上氏の「前足から永遠に向うようにたおれたという/巨大な落日の象をもとめて」という最終行は、先生の「ゾウでないゾウと/永遠の虚無へ――」と恐ろしいまでに響き合っている。では――酒詰先生が村上昭夫の「動物哀歌」を読んでいた可能性は?――これは、あり得ないのだ。「動物哀歌」の出版は先生の死から二年後の昭和四十二(一九六七)年だからである。――でも、もし酒詰先生が「動物哀歌」を読んだら、きっと誰よりも感動されたに違いない。――いや、村上昭夫が先生のこの死を読んでいたら(それはあり得ない)、きっと彼の「象」も少し変わっていたかも知れないな……]