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2011/09/10

岩 ――石女夜生子―― 土岐仲男

――石女夜生子――

岩に何回頭をぶつけるのだ

十回か

百回か

百万回か

その度毎に皮膚が破れて

血糊が霧と飛ぶ

眼球がとび出して潰れ

鼻がひしゃげ

舌もなくなる

それでもなお止めてはいけないのだ

まだまだ岩に頭をぶっける

遂に頭が岩になり

岩が頭になる

その時人は岩であり

岩は人である

人が岩に入いり

岩が人に入いる

世界が岩になり

宇宙が人となる

岩は軽く飛行し

人がその中にいる

天使が来てそのものを護り

天使がそのもののために楽を奏でる

いつかそれは釈迦と合体し

時間と空間をすりぬけて

絶対の虚空に定着する

[やぶちゃん注:題の添書の「石女夜生子」は、「正法眼蔵」「山水経」巻頭に現れる。以下に「松門寺の坐禪會」の「正法眼藏」を元に画像埋込漢字部分を代えたものを引用する。読みは適宜、私が歴史的仮名遣で補った(読みついては個人ブログ「翻訳家のノート」の「第二十九山水経ノート(1)」を参考にさせて頂いた)。

而今(しきん)の山水は、古佛の道現成(だうげんじやう)なり。ともに法位に住して、究盡(くじん)の功德を成ぜり。空劫已前の消息なるがゆゑに、而今の活計(かつけ)なり。朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透脱(とうとつ)なり。山の諸功德高廣なるをもて、乘雲の道德かならず山より通達す、順風の妙功さだめて山より透するなり。

大陽山楷和尚示衆云(大陽山楷和尚、示衆(じしゆ)に云く)、

「靑山常運歩、石女夜生兒。」(靑山 常に運歩し、石女 夜 兒を生む。)

山はそなはるべき功德の虧闕(きけつ)することなし。このゆゑに常安住なり、常運歩なり。さの運歩の功德、まさに審細に參學すべし。山の運歩は人の運歩のごとくなるべきがゆゑに、人間の行歩(ぎやうふ)におなじくみえざればとて、山の運歩をうたがふことなかれ。

いま佛祖の道、すでに運歩を指示す、これその得本なり。常運歩の示衆を究辨(きうはん)すべし。運歩のゆゑに常なり。靑山の運歩は其疾如風(ごしつによふう)よりもすみやかなれども、山中人(さんちうにん)は不覺不知なり、山中とは世界裏の花開(けかい)なり。山外人(さんげにん)は不覺不知なり、山をみる眼目あらざる人は、不覺不知、不見不聞、這箇道理なり。もし靑山の運歩を疑著(ぎぢや)するは、自己の運歩をもいまだしらざるなり、自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしられざるなり、あきらめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに靑山の運歩をもしるべきなり。

青山すでに有情にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず。いま山の運歩を疑著せんことうべからず。いく法界を量局として靑山を照鑑すべしとしらず。靑山の運歩、および自己の運歩、あきらかに撿點すべきなり。退歩歩退、ともに撿點あるべし。

未朕兆の正當時、および空王那畔より、進歩退歩に、運歩しばらくもやまざること、撿點すべし。運歩もし休することあらば、佛祖不出現なり。運歩もし窮極(きゆうごく)あらば、佛法不到今日ならん。進歩いまだやまず、退歩いまだやまず。進歩のとき退歩に乖向(けかう)せず、退歩のとき進歩を乖向せず。この功德を山流(さんる)とし、流山とす。

靑山も運歩を參究し、東山も水上行を參學するがゆゑに、この參學は山の參學なり。山の身心をあらためず、山の面目ながら廻途(ういと)參學しきたれり。

靑山は運歩不得(ふて)なり、東山水上行不得なると、山を誹謗することなかれ。低下(ていげ)の見處のいやしきゆゑに、靑山運歩の句をあやしむなり。小聞のつたなきによりて、流山の語をおどろくなり。いま流水の言も七通八達せずといへども、小見小聞に沈溺(ちんじやく)せるのみなり。

しかあれば、所積(しよしやく)の功を擧せるを形名(ぎやうみやう)とし、命脈とせり。運歩あり、流行あり。山の山兒を生ずる時節あり、山の佛祖となる道理によりて、佛祖かくのごとく出現せるなり。

たとひ草木土石(どしやく)牆壁の見成する眼睛あらんときも、疑著にあらず、動著にあらず、全現成にあらず。たとひ七寶莊嚴なりと見取せらるる時節現成すとも、實歸にあらず。たとひ諸佛行道の境界と見現成あるも、あながちの愛處にあらず。たとひ諸佛不思議の功と見現成の頂※(ちんにん)をうとも、如實これのみにあらず。各各の見成は各各の依正なり、これらを佛祖の道業とするにあらず、一隅の管見なり。[やぶちゃん字注:「※」=「寧」+「頁」。]

轉境轉心は大聖の所呵なり、説心説性は佛の所不肯(しよふけん)なり。見心見性は外道の活計(かつけ)なり、滯言滯句は解脱の道著にあらず。かくのごとくの境界を透脱せるあり、いはゆる靑山常運歩なり、東山水上行なり。審細に參究すべし。

石女夜生兒は石女の生兒するときを夜といふ。おほよそ男石女石あり、非男女石あり。これよく天を補(ふ)し、地を補す。天石あり、地石あり。俗のいふところなりといへども、人のしるところまれなるなり。生兒の道理しるべし。生兒のときは親子並化するか。兒の親となるを生兒現成と參學するのみならんや、親の兒となるときを生兒現成の修證なりと參學すべし、究徹すべし。

「山水経」とは山水の景色が教える仏性の謂いである。私は「正法眼蔵」は「隨聞記」の方を少しかじったのみで、太刀打ち出来ないのでToshiのブログ「Be quiet」の「正法眼蔵・心訳ノート 山水経」(1~4とあり、リンク先は1)から氏の現代語訳部分を引用させて頂く(但し、段落は原文に一致させてある)。但し、この方の訳は上記引用部の最後の三段落が未訳であるので、高杉光一氏の「正法眼蔵 山水経」の現代語訳を参考にさせて頂きながら(特に「石女、夜、兒を生む」以下の難解な段落では高木氏の訳が大いに役立った)、Toshi氏の訳に繋がるような訳を行った。両者の方に感謝する。

   《引用開始》

今、ここにある山水は、仏の教えを現成したものである。いずれもそのものになり切っており、窮め尽くされた功徳をたたえている。それらは、分節未然の途方もない過去からの(時を超えた)存在であるがゆえに、今ここに、いのちあるものとして存在しているのである。分節未然の途方もない過去からの(時を超えた)自己であるがゆえに、今ここでの透脱(解脱)を果たしている。山の諸々の功徳は高く広いために、雲に乗り世にはたらく道は、必ず山から発せられるのである。風に乗って世にはたらく妙なる功徳は、確かに山によって解脱しているのである。

大陽山の道楷和尚が、僧達に示して言った。

「青山は常に歩を進めており、石女は夜に子を産む」

と。

山は備わるべき功徳が欠けているということがない。このために、常に山は山になりきっており、常に歩を進めている(功徳を生じている)。その(山の)功徳の働きを、子細に学び究めるべきである。山の(功徳の)働きは、人間の(功徳の)働きと同じなのであって、人間が歩を進める姿と同じに見えないからと言って、山の(功徳の)働きを疑ってはならない。

ここで道楷和尚の説いていることは、すでに功徳の働きを示しており、これは仏の教えの根本である。「常運歩」の示しているところを、学び究めなさい。(山の)功徳の働きによって、安住している。青山の(功徳の)働きは、疾風よりも速いが、山の(功徳の)中に居る人は、そのことに気づかない。山中には、世界の全体が現成している。山の外にいる人は、そのことに無頓着である。山(の働き)を見ることのできない人は、こうした道理を知ることもなく、見ることも、聞くこともない。もし山の(功徳の)働きを疑うというならば、自らの(功徳)の働きをも知らないのである。自己の(功徳の)働きがないのではなく、まだ知らないのである。明らかにできていないのである。自己の(功徳の)働きを知るように、青山の(功徳の)働きをも知らなければならない。

 青山はもはや生物でも無生物でもない。自己もまた生物でも無生物でもない。いま、青山の(功徳の)働きを疑うことはできないのである。幾星霜を尽くして、青山の働きを明らかに究めるべきであることを人は知らない。青山および自己の(功徳の)働きを、明らかに調べなければならない。前に進むだけでなく、後ろに歩む働きについても、調べなければならない。

分別未然のまさにその時より、進歩退歩ともに、(功徳の)働きがひとときも病むことがないのを、よく調べなければならない。(功徳の)働きがもし止むことがあったならば、仏祖は現れなかったであろう。(功徳の)働きに極まりがあるのであれば、仏の教えは今日まで伝わらなかったであろう。進歩はいまだ止むことがなく、退歩もいまだ止むことがない。進歩のときは退歩に背くことなく、退歩のときは進歩に背くことはない。この功徳を「山が流れる」と言い、「流れるが山」と言うのである。

青山も(功徳の)働きを学び究めており、その他のあらゆる方面の山々も水上を行く働きを学び究めているがゆえに、我々が学ぼうとしていることは、これら山々が学び究めようとするのと同じである。

山がその姿のままさまざまに仏の道を学び究めてきたのである。「青山は歩むことなどできない、その他のあらゆる方面の山々も水上を行くことなどできない」と山を誹謗してはならない。自らの視点が低くいやしいために、青山運歩の句を疑ってかかるのである。見聞が狭くつたないために、流山の語を受け入れがたいのである。いま、流水の語は広く理解されているとは言えず、理解の低い者どものあいだに捨て置かれている。

そのために山の(功徳の)働きが、目に見える事実としても、真理としても顕れているのである。山は歩みを進め、山は流れゆく。山が山を生むときがある。山が真理を究め尽くして仏祖となるがゆえに、仏祖はこの世に出現したのである。

   《引用終了・以下は私こと淵藪野狐禪師訳》

たとえ、「山は草木・土石・土塀によって山として構成され成立している」という認識があっても、それは取り立てて疑ったり迷ったりすべきことではなく、また、それによって山のすべてが現成する――分かる訳ではない。たとえ、「山は宝玉輝く荘厳なる聖地である」と見える時があっても、それだけが総ての現成――真理な訳ではない。また、「山は諸仏が修行する結界である」という見解があっても、そうした考え方に執着してはならない。また、「山は諸仏の摩訶不可思議なる働きを現わしている」という、どう見ても最も適切なる現成たる捉え方が認知出来たとしても、実はそれでも、真理はそればかりではない。それぞれの捉え方は、それぞれの立場に基づくものに過ぎず、いずれもが諸仏祖が悟達した世界とは異なる狭い捉え方でしかない。

こうした物心を分離して捉えようとすることは、釈尊が何よりも戒められ、心と本質を分けて説くことは、諸仏祖もまた求めなかったことである。ましてや、ただ心や本質を上辺だけで捉えて済ませようとするのは、禍々しい異教徒の仕儀に他ならないのであり、一言一句に拘わって滞留してしまうのは、悟達の道では、ない。このような状況世界を一瞬のうちに超えることが、ある。それが今ここに述べた、「青山は常に歩を進めている」であり、「東山が水上を行く」ということなのである。これを子細に学ばねばならない。

 「石女、夜、兒を生む」――石女(うまずめ)、夜、子を生む――というのは、子を孕まぬはずの女が子を生む時、それを「夜」と言うのである。即ち、そこでは女も子もすべてが区別を超越して「夜」がその総てを一体とし、総ての対立から完全に自由であるということなのである。石女などと取り立てて言っているが、この世には他にも男石・女石・非男女石があり、彼らは天地の欠けたところを補っている。いや、また、天石・地石がある。これらのことは実は、俗世間の者がしばしば口にすることなのであるが、その真実を知る者は実は、稀である。われわれはこの「生児」(児として生まれる)という言葉の真意を知らねばならないのだ。「生児」――生まれた児の時は、親と子は当たり前に一緒に在る――いや、それだけが「生児」か?! 「生児」――児を生んで親となる時も、これ「生児」の現成である、とばかり分かっただけで参学し得たと思うか?!――いや、「その親がその子となる」時にこそ「生児」の真実の認識がそこに現成するのだということをこそ学べ! 極め尽くせ!

「楷和尚」芙蓉道楷(一〇四三年~一一一八年)。宋の禅僧。曹洞宗。本邦の曹洞宗では中国第十八祖に数える。

――酒詰先生、偉そうですが、キリスト教も包含してしまう超宗派的神話世界を持ち込もうとされたのでしょうが、私としては最後の「天使」は「飛天」としたい気がします。そうです、あの薬師寺東塔水煙に居る、楽を奏でる飛天です。――]

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