天理教 土岐仲男
天理教
六百畳にも余る大広間
そこに学会人が集まって
六人づつすき焼鍋を囲んで
酒をのみ交わすその瞬間
何かを期待して
一座は急にシーンとしずまった
原始林のようなしずけさ
そうだ!
丁度原子爆弾がおちて
宇宙全体が音になりながら
ひとにはそれが聞こえない瞬間
そうした沈黙が一座を支配した
沈黙は容易にやぶれそうになかった
その瞬間
鉢巻をしてよい痴れた真柱が
盃と徳利とをもって
「ワッハッハッハッ」と
大声で笑いながら立ち上がった
「ようきぐらし!
ようきぐらし!」
真柱は頭をたたいて一廻転した
一座はまたもとのざわめきに返った
何だ?
何でもないんだ
何でもないんだ
「ワッハッハッハッ」
どこかで小さくまた笑うものもあった
[やぶちゃん注:「真柱」は「しんばしら」と読み、天理教及び教会本部を統括する役職。真柱は「教祖の血統者の系譜に基づき、本部員会議において推戴する」とされ、現在まで教祖中山みきの子孫が世襲している。「ようきぐらし」とは、天理教のHPの「教え」の「陽気ぐらし」には以下のように記されている(段落を排除させて頂いた)。『私たちのからだはどうなっているのか、科学の発達が、次々に細部まで明らかにしてくれました。とりわけ、遺伝子に関する研究が長足の進歩を遂げ、驚かされるばかりです。考古学は考古学で、人類の歴史をどんどんさかのぼり、一枚また一枚とベールをはがしていきます。どこまでもミクロの世界へ、どこまでも太古の世界へ。探求心旺盛な人間のことですから、人類は「いつ」「どのようにして」つくられたのか、その情報はもっともっと私たちの手元へ届けられることでしょう。しかし、どうしても分からないことがあります。それは、人間は「誰が」「なんのために」つくったのか、ということです。それは、人間を創造した「元の親」に尋ねる以外に術はないのでしょうか。教祖が自ら筆を執られた書き物に、「月日(神)には人間創めかけたのは、陽気遊山が見たいゆえから」とあります。人間が陽気ぐらしするのを見て、神も共に楽しみたい、というわけです。各自勝手の陽気ではなく、ほかの人々を勇ませてこそ真の陽気とうたわれます。それは、互いに立て合いたすけ合うこと。人間はそれぞれ異なります。そのそれぞれの個性を持った人間が、互いに良いところを伸ばし合い、足りないところは補い合って、たすけたりたすけられたりしながら、共に生きることをいいます。陽気ぐらしこそが、私たち人間の生きる目的なのです』。ここで考古学が特に挙げられているのが面白い。]