家出娘だけがいい
数十回見直して而していろいろ考えた末に――映画「リアリズムの宿」はやっぱり――エンディング・テーマのくるりの「家出娘」だけが――いい――作品である。それがかぶった少女が二人と分かれるプロモーション映像だけが「映像」として――いい――それで――終わりだ――残念ながら完膚なきまでにつげの毒と孤独の悲哀のすべての核心が致命的に抜け落ちているからである――
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数十回見直して而していろいろ考えた末に――映画「リアリズムの宿」はやっぱり――エンディング・テーマのくるりの「家出娘」だけが――いい――作品である。それがかぶった少女が二人と分かれるプロモーション映像だけが「映像」として――いい――それで――終わりだ――残念ながら完膚なきまでにつげの毒と孤独の悲哀のすべての核心が致命的に抜け落ちているからである――
俺はお前らの表情に――お前らの顔に――頭から鮮やかに反吐を吐こう――そうでもなければお前らは――気が付かないからだ――俺が怒っていることをな――
105句の大量句稿から見る。これは青春の回想吟であり、それはあたかも時系列に沿って創られ、並べられたかのようにシークエンスが編集されている。最初の11句は纏めて採る。
*
彈き初めの翏を競へり戀きそふ
獲し戀ぞ花の鷄頭艶然と
翏と戀競ひしことぞ掌の胡桃
野分の葉うばひし戀のつまらなく
この「翏」は不審。これは「琴」ではあるまいか? 「獲し戀ぞ」の「鷄」は川村氏によって補われたもの。原句は「獲し戀ぞ花の頭艶然と」であるらしい。
情識りぬ旅の山肌明け易く
蹤きゆきし十九の夏の旅初め
蟬はげし馴初めの得ざりし男の手
蟬はげし夫ならぬ手を識りゐしこと
祕めごとや額の汗の美しく
祕めごとの知る人ぞなし葉鷄頭
蟬は樹に吾が手與へし人ぞ亡し
稻田燈蒼し人亡しと思へばなほ
「祕めごとの知る人ぞなし葉鷄頭」も原句は「祕めごとの知る人ぞなし葉頭」であるらしい。川村氏の補った「葉鷄頭」で採った。ここまでの句群を一連のものとすれば、彼を奪い得た数え「十九の夏」というは、しづ子が後に戦死する許嫁と出逢った頃に同定されているのに一致する。最後の句では既に彼は死んでいる。やはりこの「男」は彼であろう。この後には黒人の恋人との海水浴の4句がある。
*
木枯や胸乳隆くして獨り
この前にも自分の豊かな胸を謳う三句あるが、その
乳ゆたかなれど孤獨や木枯しに
の推敲稿である。
*
ちちははの戀の生れ處や曼珠沙華
しづ子の父俊雄と母綾子は従妹同士であった。因みに僕の両親も従妹同士である。
*
いなづまに長女と生まれてまづはよし
いなづまに早世の次女の貌忘る
いなづまにもつともすこやかなる三女
天の河つねに悲戀は姉娘
學びけり少女の心いつぱいに
しづ子、本名鈴木鎭子は大正8(1919)年6月9日東京市神田区三河町で父鈴木俊雄・母綾子の長女として生まれた。彼女の誕生からのコマ落としの5句連作。初句の「いなづまに」と「まづは」の言辞の持つ意味は、川村蘭太「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の64ページに明晰に語られている。「もつとも」は底本「もっとも」、同じく「いつぱい」も「いっぱい」。
*
稻妻に父憶ふとき汚れけり
つねの世も女人は哀し曼珠沙華
稻妻や母のわだちぞ踏むまじく
以前に記したが、さんざん綾子を苦しめた父俊雄は昭和23(1948)年11月に母綾子の生前から関係があった女性と再婚した。第一句のような強烈な抵抗感に基づく呪詛句がこの前に6句ほどある。この昭和26(1951)年の冬には、しづ子は昭和21(1946)年5月に亡くなっている母綾子の墓を愛知県犬山市の寺に、新たに建立している。
*
蟬のこゑもつとも高し滅びる前
「もつとも」「滅びる」はママ。
*
降る雪やわがをとこ名のむかしの詩
川村氏の「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の『幻の詩句集「小径」』で推理のキーとなった句。
*
雜草に紙片吹き寄る空工場
しづ子の、プロレタリア俳句への答えという感じがする。
*
稻妻に希ひし破婚爲しにけり
僕は以前、関との離婚は昭和24(1949)年3月とした。この句は「稻妻」で秋である。しかし、矛盾しない。「稻妻に希ひし」で過去形であってそれは寒雷でも春雷でもよいのであり、そもそも先行句を見れば一目瞭然、「稻妻」は彼女にとって季語である以上に、彼女の人生の時空間を支配する哲学的な詩語なのである。しづ子は季語に縛られていないのである。
*
逝く夏の葉分けの風のゆくえかな
巧まぬ佳品である。風の囁きが聴こえる――
*
うつせみや吾が手與へし人失せて × ①
大阪へ五時間で着く晩夏かな 〇5指⑥
新涼の喫泉小さくあふるる驛 ×
木枯や胸乳隆くして獨り 〇1 ②
雪こんこん死びとの如き男の手 〇2指③
そだちつつ颱風ちかよりつつあると 〇3 ④
刻すでに颱風圏内花黄なり 〇4 ⑤
以上が「樹海」昭和26(1951)年12月号の発表句全7句である。下に附した記号は、「〇」が昭和26(1951)年9月28日附句稿105句に所収する句、「×」は所収しない句である。「〇」の下の番号は句稿の方で、早く現れる順に番号を振った(今までの句稿は順序に狂いがないが、ここでは大きく食い違うのが気になる)。この内、『指環』に採られた句にはその下に「指」を附した。「うつせみや吾が手與へし人失せて」は明らかに「蟬は樹に吾が手與へし人ぞ亡し」の句の別稿である。巨湫の朱が入ったものとも思われるし、「新涼の」の明らかな句稿喪失からも、例によって句稿の複数脱落の可能性も疑われる。但し、感触的にはここは巨湫の朱という感じが強い。だとすればと仮定した上で一番下に句稿の方で早く現れる順に〇付の番号を振った(やっぱりこの句順は不思議である)。なお、この「木枯や」の句の左には、川村氏の『※巨湫の句か?』という注が附されているが、不審。上で見た通り、句稿にもこの句は入っている。また、この掲載句に言及した「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」306ページでも、この不思議な注について言及されていない。
「美濃へ」の標題で49句。句集『指環』の中核を形成する代表作群が並ぶ。底本には冒頭に川村氏の「すべて句集『指環』から再録」とあるのであるが、これは不審である。何故なら、『指環』の発刊は翌昭和二十七年一月一日であるからである。これは「に再録」の誤りではないかと思ったのだが、以下に見るように川村氏は本誌掲載句と『指環』掲載句とを校訂されており、その二箇所の注で「『指環』の元句は」と表現されており、更に掲げた一句「子を欲りぬ」については、「『指環』になし」とある。ないということは、この「俳句往来」の原稿には少なくともこの句が含まれており、句集『指環』と同一稿ではないといういうことになる。若しくは句集『指環』準備稿なるものが存在し、『指環』発刊直前の「俳句往来」本号にはその一部が示された、ところが実際の決定稿ではそこから「子を欲りぬ」の句が外された、ということではないか。
かくまでの氣持の老けやたんぽぽ黄
歸る歩やまづ火をおこすべしとのみ
以上は二句は『指環』では、
斯くまでの氣持の老けやたんぽぽ黄
歸る歩やまず火をおこすべしとのみ
である。後者は歴史的仮名遣ならば「まづ」が正しい。『指環』では、歴史的仮名遣と斬新な口語が激しく混在して使用されているが、一句の中ではほぼ統一されている。しづ子はこの句に、『指環』では、現代仮名遣・文語表現を採用したということになる(「氣」「歸」の正字化は私の仕儀である)。
子を欲りぬとは氣まぐれか夏の虹
本句は『指環』に所収ない。そしてこの「氣」はママで、僕の仕儀ではない。先の「かくまでの」句は底本では「氣持」は「気持」である。正字の観点から見ると、この49句には正字が殆ど使用されていない。はっきりしたものは「體」「縣」と、この「氣」だけである。「體」はしづ子の好きな字体であり、正字という意識は彼女にはない。「縣」は住所表示に長く使用されてきただけに、これも意識的な正字感覚はないはずだ。だとすれば、この句だけが「氣」と、はっきり正字使用を意識しているということになる。不思議である。この49句の選句は、実は我々の知らないつぎはぎされた(だから正字の本句が混在する)原『指環』稿なるものがあったことを示唆するものではないだろうか。
砂浜に裸身の母が立つ夢を見た
骨髄カリエスを幼少の頃患った僕は、長く
医者
になりたかった。しかし、数学がからっきしだめな僕は中学二年頃に、それを捨てた。その頃、国語の授業で尾崎放哉に出逢った。俳句に惹かれたが、それで身を立てるのは愚劣だと思った。当時の僕には、画家になりたくてなれなかった父を見ていたから、芸術は押しなべて非生産的なものであった(正直言えば、だから惹かれた)。それでもシュールレアリストの父の書棚からフロイトの「夢判断」を盗み読んで、医者がだめなら
心理学者
だと思った。その危ない世界の繋がりで、高校時代、人の心を詮索するのが好きになった危うい僕は、演劇部に入り、そこで
役者
になろうかと本気で思った。高校二年の時の地区大会で審査員の演劇人に「藪野君、君はいい!」と言われたのも手伝った。だが、役者は体力勝負だと知った。僕はカリエスの前歴もあって、運動神経0、如何なるスポーツも楽しいと思ったことはない。役者はあきらめざるを得なかった。かけもちの生物部では、小学生の頃からの海洋生物を扱う学問にも惹かれた。
水族館館員
は憧れだった(今もそれは変わらない)。しかし数学がネックだった。理系は諦めざるを得なかった。だからやっぱり心理学でいこうと思った。大学は殆ど心理学科を選んだ。美事にすべて落ちた。滑り止めの、好きな「文学」で引っかかっただけだった。浪人せずに國學院大學に進んだ。そこでお笑い草にも
小説家
になろうかという夢想を持ったこともあった。しかし大学二年の時、応募した「すばる文学賞」に予選落ちし(いや、今考えれば如何にもな糞下劣な小説であった)、自分が波乱万丈のプロットを形成出来るような才能に乏しいことを自覚した。残ったのは、
国語教師
だった。そうしてそれになった。以後、三十数年間それを続けている。
向後に、改行をするような新しい自己実現も夢も、最早、ない。職業としての新たな展望など、僕には、ない。しかし僕は
野人
になる夢が残されていることを自覚した。「在野人」ではない。真の「野人」――イエティだ――僕はそこで何が出来るか――僕にしか出来ないことはありそうだ――僕は、金にならないことなら、やりたいことがゴマンとあるんだ――それは確かだ――だから――さようなら――と決めた……これが僕の……人生の最後の我儘、なのである……
凍蝶に蹤きて日陰を出でにけり
霧の洋復るなくして流るべし
袞々と國土へだつる霧の洋
「樹海」昭和26(1951)年10月号には9句が載る。僕の琴線句前二句が揚がっている。奇妙なのは「霧の洋」が、
霧の洋復るなくして渡るべきか
となっている点で、これは巨湫の朱とは考えにくい。心情が全く異なるからである。これはリアルな人事句で、「復るなくして渡るべきか」は、もう日本には帰らない覚悟で、彼(恋人のGI)の祖国アメリカへ渡るべきか、というしづ子の『強い近未来への逡巡』を言う。しかし「流るべし」は、逡巡を超えて――渡る、だけじゃないんだ、そこからまた流れて行かなくちゃならないかも知れない、いいえ、それも私なんだわ――という『既に決した未来を透徹した覚悟』の謂いである。しづ子の詩語としての助動詞「べし」はそれほど確定的な意思を示す。私は断然、「流るべし」を採る。
なお、「樹海」には、
靑蘆の天かがよへり情死もよく
渦卷く爐火白ばくるること狎らされたり
をんな中かるたの男を輕蔑す
の三句が最後に載るが、これは24句稿には入っていない(「爐火」は「ろくわ(ろか)」と読む)。これも実際にはこの句稿は25句以上あったことを示唆するものである。先の「霧の洋復るなくして渡るべきか」というのはその中にあった可能性が考えられる。その場合、現存句稿の後ろだけではなく、中間部も散佚したものと考えられる。現存句稿と比べるとこの前後の句稿がちゃんと残っており、順に「樹海」に掲載されているからである。
「凍蝶に蹤きて日陰を出でにけり」は、直接には橋本多佳子の昭和二十六年六月一日発行の句集『紅絲』冒頭を飾る「凍蝶抄」の、
凍蝶に指ふるゝまでちかづきぬ
等のインスパイアに見えるが、私は実はこの多佳子の句自体が杉田久女の、
蝶追うて春山深く迷ひけり
のインスパイアであると思っている。それは久女の句としづ子を並べて見たときにはっきりする。
蝶追うて春山深く迷ひけり
凍蝶に蹤きて日陰を出でにけり
それは正しい本歌取りで、久女の原句が古い総天然色の画像なら、しづ子のそれはエッジの鋭いモノクロームなのである。しづ子は多佳子の本歌取りを見破り、しづ子流のそれをしてみせたのである。
「霧の洋復るなくして流るべし」「袞々と國土へだつる霧の洋」の二句は、一読、山口誓子の名吟「海に出て木枯歸るところなし」を連想させる(「洋」は「うみ」と読ませるのであろう)。これらに寺山修司の、
凍蝶とぶ祖國悲しき海のそと
や、有名な
、
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖國はありや
を並べてみると、寺山の薄っぺらさが際立つ。しかし、その気障さ加減が、「しづ子」伝説と同じで、寺山の虚数的魅力でもある。私は寺山が好きである。私も彼と同じように何処かで魂の剽窃ばかりの人生だからである。
最後に。最後の「かるた」の句について少し補足する。若い読者には理解し難いと思われるが、かるたというのは近代に於いては数少ない男女の直接的な人体接触を含んだ危うい交流の場であったことを認識しておく必要がある。それを知らないとこの句をまたぞろ「しづ子」伝説で曲解する羽目に陥る。以下は私の「こゝろ」の「先生の遺書 八十九」に附した注の一部である(殆どが引用である)。
OCTOPUS氏のHPにある「競技かるたのページ」の論文から一部を引用する。『十畳の客間と八畳の中の間とを打抜きて、広間の十個処に真鍮の燭台を据ゑ、五十目掛の蝋燭は沖の漁火の如く燃えたるに、間毎の天井に白銀鍍の空気ラムプを点したれば、四辺は真昼より明に、人顔も眩きまでに輝き遍れり。三十人に余んぬる若き男女は二分に輪作りて、今を盛と歌留多遊びを為るなりけり。(*1)』〔『*1 尾崎紅葉「金色夜叉」(昭和44年11月新潮文庫)より引用』という注記記載がある〕。『尾崎紅葉(1868~1903)のベストセラー小説「金色夜叉」(明治30~35 年連載、未完)の中には明治当時のかるた会の模様が述べられている。娯楽の少なかった当時、かるたというのは格好の男女の出会いの場であったと想像される。実際、後のクイーン渡辺令恵の祖父母も、昭和5(1930)年頃ではあるが、かるたが縁で出会ったとのことである(*2)』〔『*2 渡辺令恵「競技かるたの魅力」(「百人一首の文化史」平成10年12月すずさわ書店)』という注記記載がある〕。『当時のかるたの試合は、今日で言う所のちらし取り、あるいは2組に分かれての源平戦が主流であった。「金色夜叉」に描かれたかるたの試合は、どうやらちらし取りであったように思われる』(以上は同HP内の「3.競技かるたの夜明け」の冒頭「かるた会のあけぼの」より引用)。『黒岩涙香が開催した明治37(1904)年の第1回かるた大会の案内には「男女御誘合」とあり(*1)、当初かるた会は女性に大きく門戸を開いていた。だが、男尊女卑の傾向が著しかった時代で』あったため、明治41・42(1908・1909)年頃に至って『かるたが世間に認知されるようになると、男女が交わって競技を行なう点が非難の的となる。「若い男女が入り乱れになつて、手と手を重ねたり、引手繰事(ひったくりっこ)をしたり、口の利き様もお互ひに慣れ慣れしくなり作法も乱れて居る」(*2)と、山脇房子は明治42(1909)年1月に指摘している。「今の若い男女は平常は隔てられて居て、いざかるたとでもなると、又極端に走りますからいけない」と、山脇は「風俗上衛生上の害を避ける為め」にテーブルの上での競技をも提案している。またその一方で、「相手が女では、バカバカしくて本気になって取れン」(*3)であるとか、「荒くれ男を向ふに廻して戦を挑むような女は嫌ひだ」「婦人は須らく男子に柔順で、繊弱優雅なるを愛する」(*4)などといった男性選手の言い分もあった。その結果、黒岩涙香としては当初の「平等意思」(*5)に反するとしながらも、東京かるた会は明治41(1908)年2月、傘下の各会と同盟規約を結ぶこととなる。その内容は「同盟各会の会員は勿論東京かるた会の出席者は素行不良ならざる男子たること」「同盟各会其他競技席上には婦人及素行不良と認めらるる男子の入場を拒絶すること」(*6)といったもので、これにより明治42(1909)年2月の5周年大会以降女流選手の大会参加は認められなくなる』。『しかし、完全に女性が閉め出されていたかというと、そうではなく、仙台では女流大会が開催されており、昭和2(1927)年の第1回大会では藤原勝子が優勝している。東京や山梨、筑波などでも同様の大会が開かれている(*7)』とある。因みに『かるた会が再び女流選手に門戸を開いたのは昭和9(1934)年1月5日の第22回全国大会からであった』(以下略。以上の引用部の注記は以下の通り。『*1 「萬朝報」明治37年2月11日』・『*2 山脇房子「風紀上より見たる歌留多遊び」(明治42年1月「婦人画報」)以下引用は同記事』・『*3 「朝日新聞」昭和30年1月5日「女のはな息」』・『*4*8 「かるた界 第8巻第2号」昭和9年12月 東京かるた会』・『*5*6 東京かるた会編「かるたの話(かるた大観)」(大正14年12月 東京図案印刷)』・『*7 「かるたチャンピオン 95年のあゆみ」平成11年1月 全日本かるた協会』。以上は同HP内の「5.かるた黄金時代」の「女流選手のあゆみ」より引用)。ここで明治四十年代初頭に公的なかるた会が『男女が交わって競技を行なう点が非難の的とな』ったこと自体が、実はそれ以前、男女の手が触れあたりする私的な男女の正月のかるた取りが、密やかにそうした男女の交感の場でもあったことを図らずも物語っていると言えよう。
この掲載句十句はすべて昭和25年11月号から昭和26年7月号の「樹海」からの採録であるが、僕が琴線句としたものは、「樹海」昭和26年1月号の次の一句のみである。
月の夜の蹴られて水に沈む石
僕のfacebookで僕の「狂師像」を公開した。容量が大きく、ここでは無理で、流石にYouTubeでの配信は恥ずかしく、それでもアメリカに行ってしまった教え子に何とか見せたいもの……と思っていた。facebookはだいぶ前にある教え子に誘われて入ったが殆んど使っていなかったので動画アップ機能があることに今日気が付いた。さっき、アメリカの教え子が見てくれた。「足が上がってますね!」そうなんだ、これが。僕も見てびっくりだった。ラインダンス並みに上がってるんだ。当時の女性の教員からも、それを言われたんだ。懐かしいね。あの日、「狂師像」で一位になった51歳の僕を家で待ってたのは、父母の赤飯だった――僕は子供の頃、運動会で一度も一位になったことはなかったからね――離任式でも話したね――親ばか子ばかである――
演者だけの自慰――僕は計測係(言っておくが僕の学校の上演は明日だ)で3ステージ3時間を舞台下のソデでひっそりと見続けたが――客席にいるのは十数名だった――笑うなよ! 「数十名」ではない「十数名」!だ――僕はこれなら喜んでベケットの「クラップ」を一人で総てやれる、そこにこれ以上の観客を呼び込める、と確信したぐらいだ……でも……もう……終わりなんだ……すなまいな……ともかくも! これが芝居だと思ったら、大間違いだぜぇ!……俺が言いたいのは、だ! 観客なき演劇はマスターベーションそのもの、だってことさ……だから! 叫べ! 叫んで、その核心を変えろ! 「私たちは馬鹿じゃねえ!!!」って、な――俺も、老体ながら一緒に――叫ぶぜ!!!
「樹海」昭和26(1951)年10月号には次の三句が載る。
乳房持つ犬に蹤けられ夕燒雲
朝顏のつねに日蔭の花も咲く
大阪や來泊てて覺めし夾竹桃
僕は馬鹿なのか、最後の句が読めない。尚且つ、この句、底本の8月24日附句稿69句稿には含まれておらず、また底本末尾に配された年月日不明の句稿にも含まれていない。これは、底本に初めて示された大量未発表句稿には散逸した部分があることを示唆している。少なくとも、この8月24日附句稿は69句以上あったと考えてよい。一句目「乳房持つ」は『指環』所収句であり、僕の琴線句の一句である。以下、僕の撰。
好きことの電報來たる天の河
明星にまがふかたなき軀と識りぬ
還り來て得し病かな鳳仙花
看とること曉およぶ水中花
風鈴の瞼とづれば鳴りにけり
乳房持つ犬に蹤けられ夕燒雲
雪はげし妻たりし頃みごもりしこと
雪はげし吾のみのほか知らず過ぐ
雪はげし葬るべく意をかためしこと
雪はげし月を經ずして葬りしこと
激つ雪自ら葬りおほせけり
雪はげし葬りて性別さへ頒たず
蘭の葉の三月寒し離婚せり
火蛾舞へば妻たりしこと悔ゆるや切
その名さへうとみけるかな燈蛾堕つ
黑人の妻たるべきか蚊遣火堕つ
ふたたび妻たるべきか舞ふ燈蛾
火蛾の舞ひ人種異る手と手合はす
まつかうに西日きたれる殘暑かな
桐一葉かつて十七のお下げ髮
桐一葉西日の中に落ちにけり
蟬かしまし飲酒喫煙おぼえしこと
雉啼くや遠き過去やら近きそれ
流れ星ひんぱんに戀を奪いしこと
遠花火音より早く失せにけり
樹の下にいちじく吸ふや白痴のごとく
祭笛吹き了りなば情ささげむ
祭笛ふくとき若さ恥ぢにけり
花の木瓜寒むざむ浮氣してみよか
凍みる戸を怒りと共に閉ぢ來しなり
「好きことの」の「好きこと」とは朝鮮戦役からの恋人の日本への帰国を指す。川村氏の年譜によれば、この年の八月頃、恋人のGIが佐世保に戻った。句稿は佐世保での再会の喜びを連句する。
――しかしその喜びは暗転する――彼はヒロポン中毒者になって帰ってきたのであった。「明星に」から「風鈴の」の句群はしづ子の、その愕然たる思いを伝えて哀しい。川村氏の年譜によれば、同八月中の出来事として、この恋人の米兵はその後、埼玉県朝霧基地に移動し、『横浜から米国へ帰国する』ことと決し、この『恋人に会うために一泊二日で岐阜より上京』した旨の記載がある。
「激つ雪」を含む「雪はげし」連作は勿論、橋本多佳子の昭和26年6月1日発行の句集『紅絲』に所収する「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」の如何にもな本歌取りではある。しかし、私たちはここにしづ子の悲しい堕胎の思い出をここに知ることになる。これは架空の句では読みえない。恋人の絶望的な病いの中で、伝説の「しづ子」を演技をする余裕など彼女にはなかったはずだ。いや、これは伝説以前の「妻」であった時の体験である。――その「妻」の相手は正式な結婚をし、すぐに冷えきった「関」姓の人物か、それとも――などという詮索はこの際、僕には不要である。伝説の中の「しづ子」が垣間見せた真実のしづ子の聖痕(スティグマ)を、僕は全身で、受けとめる――
川村氏の年譜では月は示されていないが、この秘密の堕胎連作の直後の「蘭の葉の」の句によって、しづ子が生涯で一度だけ正式な「妻」であった、「関」姓の夫との離婚が(少なくともこの堕胎事件はしづ子一人の秘密であって、少なくとも夫側からの離婚の直接理由であるようには読めない)、昭和24(1949)年3月であったと考えてよい。
「火蛾舞へば」「その名さへ」も多佳子の「火蛾捨身瀆(よご)れ瀆れて大切子」等の火蛾句に似る。しかし「火蛾捨身」の句は多佳子の昭和三十二年の句であるから、そのインスパイアではないのである。そして、しづ子の詠みの方が遙かに切実であることに気づく。
薬中になった病んだ彼を健気に看病するしづ子をなめた彼女の背後からのショット――「黑人の妻たるべきか」「ふたたび妻たるべきか」と逡巡するしづ子の顔の眼をターゲットとした前方からのあおりのショット――しづ子の白い手が布団から出た彼の黒い手をとって「手と手合はす」アップ――枕辺のランプにコンコンとぶつかる「舞ふ燈蛾」――「蚊遣火」のアップ――「火蛾の舞」ふアップ――蚊遣の灰がポトリと「堕つ」――
「まつかうに西日きたれる殘暑かな」は、しづ子らしい強靭な句である。しづ子は何か、ある覚悟をしたとき、強烈な眩しい強い句を産む。この句は僕には、そのような一瞬の時間を切り出した句として映る。
僕は久女じゃないが大の「虚子嫌ひ」である。「桐一葉」宍、しづ子の可愛い八重歯が、虚子の太腿にがっしと嚙みついて快い。
秘かな堕胎告白もそうであるが、「桐一葉かつて十七のお下げ髮」や「蟬かしまし飲酒喫煙おぼえしこと」「流れ星ひんぱんに戀を奪いしこと」と、この句稿では病んだ恋人の実景と過去が、文字通り、「遠き過去やら近きそれ」といった感じで目まぐるしくフラッシュ・バックする。
「遠花火音より早く失せにけり」はこうして単独で読むと、写生句である。写生を伝家の宝刀とされる方には、しづ子もやるじゃないか、と言わせるかも知れない。それが僕の言う『俳句の病い』なのだ。是非、底本をお読みあれ。これは「樹の下に」「祭笛」などと同じく12句続く遠花火と祭りの句群の中にあって、何ものでもない『儚い一瞬の恋情の遠花火』であることがお分かりになるであろう。底本の「全句」をお読みあれ。僕はあくまで川村蘭太氏の労作「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」(新潮社2011年1月刊)の販促を手助けをするものである。なお、この「祭笛」の句――「祭笛吹くとき頭かしげける」という句もこの12句の中にあるのだが――も橋本多佳子の「祭笛吹くとき男佳(よ)かりける」「祭笛うしろ姿のひた吹ける」のインスパイアである。一見、如何にもな剽窃のごとく見えるのであるが、ここには仕掛けがある。多佳子のこの句はやはり句集『紅絲』に所収するのであるが、「祭笛」と標題するこの句群には『戦後はじめて京都祇園祭を観る』とあって、この笛吹く男は多佳子の恋人でもなんでもない。ところが、この多佳子の句をまずスタートとして、しづ子のこれらの句群を読むと、鮮やかに一人の祭笛を吹く青年とそれを熱い眼で見つめる女の姿が――晴れの祭りの一夜のあやうい恋の物語が映像化される寸法になっているのだ、これを私は安易なインスパイアと呼ぶべきではないと思う、これは多佳子の句によって確信犯的に創られた別な事件、平行世界のもう一つの祝祭的神話、トワイライト・ゾーンの一話なのである。そうした視点から見ていると、もう一つの不思議な映像が僕には見える――ここで祭りの笛を吹いているのは一体誰なのか?――それは祭りで見知った行きずりの男――などでは――ない――この「祭笛」を「頭をかしげ」で吹いている「若さを恥ぢ」る「惚れ惚れ」とするような「情をささげ」んとするのは――巫女であり――しづ子自身なのではあるまいか?……僕は多佳子の句も好きである。しづ子もそうだった。先輩俳人として尊敬もしていたであろう。しかし、これみよがしな「雪はげし」と「蟬かしまし飲酒喫煙おぼえしこと」「流れ星ひんぱんに戀を奪いしこと」などの、これでもかといった詩語や句柄の意識的模倣を見ると、これはもうインスパイアというよりは――上流階級の才媛多佳子の、あくまでポジティヴな純愛思慕調の「雪はげし」や、久女由来のあくまで観念的でしかない冒瀆的語感に対する――ネガティヴでしかも強烈なリアリズムに基づく「堕ちた」しづ子が挑戦状を突きつけた対決の句――に見えてくるのである。――これらの句群は、多佳子の句群には「俳句」としては到底及ばないと評されるのであろうし、退屈な公的「俳句史」にも残らない句ではあろう。しかし、僕には――僕の「俳句」の意識の中では――立派に多佳子に拮抗する作品として、永遠に記憶されるのである。
「花の木瓜寒むざむ浮氣してみよか」祭りの後か――伝説の「しづ子」のモノローグ――
しかし――
“La fete est finie.”――
「祭りは終わった」――
バーン!!!――
「凍みる戸」は「怒りと共に閉ぢ」られる――
これが句稿の最終句である――
ぬれあがる葉あかり引くや夕夜
秋さだか兩の睫毛はしとりけり
(「小徑」昭和21(1946)年7・8・9・10・11・12月合併号)
一句目の「夕夜」は「ゆふべよる」と読ませるか。見かけない語であるが、夕暮から夜への時間的経過を表現するものととれば違和感を僕は感じない。句柄も静謐で悪くない。二句目もいい。「しとりけり」は「湿とりけり」の謂い。――実はこの二句は底本である「全句」には所収されていない。僕は本選句を行うに当たって、まず底本とした「全句」を鑑賞し、その後に本文「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の当該年に当たるパートを読むようにした。これは川村氏の鑑賞に僕の選句が左右されないようにするためである。僕は飽くまで僕の感性と解釈で詠み進めたいと思ったからである。ところが、そうやって読み進めたところ、この句にぶつかった。川村氏が何故、この二句を「全句」に入れなかったのかは分からないが、叙述によれば、これは確かに彼女の句である。川村氏がこれを発見した経緯と、驚きのしづ子の定型詩、その男性名で書かれた詩がしづ子の作品であることを明かした卓抜な推理は、同書138ページ以降の『幻の詩句集「小径」』をお読み頂きたい。
この号の掲載句は昭和26(1951)年6月8日附句稿100句の中から撰されたものである。『指環』所収句は9句。その掲載句18句を総て順に掲げる。
拭ふ汗東京の土踏むことなし
搖れてゐる炎天の葉をみとめけり
風鈴や枕に伏してしくしく涕く
風鈴に甘くして飲む水藥
炎天のポストは橋のむかふ側
夏草と溝の流れと娼婦の宿
掌の金や嘲笑に似て蛙鳴く
生温く牛乳飲むや娼家の隅
暦日やみづから堕ちて向日葵黄
高き葉の隔日に照る梅雨なりけり
蟻の體にジユツと當てたる煙草の火
指触れしより蟻のまた速きこと
指はさむ暴れどほしの翅もつ蟻
生臭く半生の星かかげけり
濃山吹くすなほにあゆむ少年犯
ひと在らぬ踏切わたる美濃の秋
霙るる葉居のなかほどを燈しけり
冴返る劍山深く水に沈み
因みに、この選句は100句句稿の順に正しく並んでいる。この内、しづ子によって『指環』に採録された9句だけを、以下に抽出する。
搖れてゐる炎天の葉をみとめけり
風鈴や枕に伏してしくしく涕く
炎天のポストは橋のむかふ側
夏草と溝の流れと娼婦の宿
暦日やみづから堕ちて向日葵黄
蟻の體にジユツと當てたる煙草の火
ひと在らぬ踏切わたる美濃の秋
霙るる葉居のなかほどを燈しけり
冴返る劍山深く水に沈み
最後に、先に僕が6月8日附句稿100句で琴線句として掲げた19句を示し、本号での採否を見る。〇が掲載句、×がこの時には巨湫が採らなかった句である。なお、この号に掲載された句群を僕は今初めて見ていることをお断りしておく。
× 五月雨の流れどほしの木木の膚
× 短夜の夢の白さや水枕
〇 風鈴に甘くして飲む水藥
× ひと在らぬ夜るの風鈴鳴りにけり
× 炎日の葉の影を踏み家に入る
× 日は宙に徑にまごつく遠蛙
× 春畫賣る汗に濁りし老婆の眼
× 黑人兵の本能強し夏銀河
× 五月雨に掌を出してみる葉の隣り
× ややありて雫をはらふ濃靑の葉
〇 蟻の體にジユツと當てたる煙草の火
× 指置くや決して指には触れぬ蟻
〇 指はさむ暴れどほしの翅もつ蟻
× 五月雨の湖を燈して渡りけり
〇 生臭く半生の星かかげけり
凡夫である僕の感覚と、俳人巨湫の詩想を殊更に比較しようというのでは、全くない。しかし、不肖の輩である僕の感覚と宗匠たる巨湫の撰のずれにこそ、「しづ子」という仮象された存在証明の、恐ろしいまでの「恣意的なずれ」を見ることは、決して無駄なことではないと、僕は思うのである。
最後に。実は6月8日附句稿100句の中に、一句だけ「樹海」に採られなかったのに『指環』に所収されている句があるのである。それは句稿で「夏草と溝の流れと娼婦の宿」のすぐ前にある、
夏草と溝の流れと娼婦の宿
である。これが『指環』に採られた経緯は分からないが、極めて高い確率でしづ子自身の自選であると考えた方がよかろう。
娼婦俳句伝説を堅固なものにするに、これは相応しい句ではある。
この句――しづ子若しくは「しづ子」にとっては――必要な句であったのだ。
そのようなものとして、僕たちはこの一句を、もう一度、読み返してみる必要がありそうだ。――
標題「夏みかん」総句数21。異例の多さである。――かの名唱の二句が初出する。『指環』所収句は14句。
*
まみゆべし梅雨朝燒けの飛行場
頒ち持つかたみの品や靑嵐
俳句の病いである。
この句を戦中の句だと言えば、人々は誰もが涙し、英霊を思う――正しい制作年を示して「戦中」だと言えば、しづ子とその上の同時代人は一瞬にして顔を曇らし、胡散臭い視線を送る――作者は鈴木しづ子という、と発すれば、しづ子の名を何処かで聞いたことのある者は、したり顔に妙な笑いをして肯んずる――
俳句の病いである。
この冒頭二句は『指環』に所収する。
*
夏みかん酸つぱしいまさら純潔など
いまさら句評など無効しづ子の純潔――
言うまでもなく『指環』所収。
*
燈の薔薇はもつとはなやげ斯かるとき
「燈の薔薇」が今一つこなれない――次の句を並べれば、それは元来が詩語でなく、安っぽい即物でもあるかもしれない、しかし、それは問題ではない――これも俳句の病である――しかし、だから、いい。
『指環』所収。
*
燈の笠に寒のあまおとつたふなり
凡庸とも言われようが悪くない。しかし、前句と並べば、前句の印象を完全な写生句に引き下げる。だから『指環』に採らなかったか。
*
コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ
先日、僕はこの名句をインスパイアさせてもらって、
花幻(はなまぼろし)秋櫻(コスモス)混沌(カオス)母逝けり
と、やらかした。
『指環』所収。
*
倖うすき頤持つや蘭寒み
ゴッホの「病める子」だ――
『指環』所収。
昼、妻と買い物に出かけた――
両手に杖を突いて歩く彼女の後ろ姿を見ながら――
何かの絵を思い出そうとしていた……
夕刻、父とアリスの散歩に出かけた――
不自由な足で歩む父の後ろ姿を見ながら――
僕はさっきの妻の後ろ姿と重ね合わせながら……
その「一枚の絵」を確かに思い出したのだ――
北脇昇「クォ・ヴァディス」
“Domine,quo vadis?”
「主よ、何処へ?」
ペテロが十字架に架けられるために行かんとするキリストに問いかけた言葉――
……しかし僕は、その「一枚の絵」を悲愴感を以て思い出したのでは――全く、ない――そもそも僕はずっと以前から――世間で評されるような絶望や立ち竦みとしてこの北脇の「クォ・ヴァディス」を――感じては、全く、いないのだ――
僕は確かな実感としての――
「一枚の絵としての妻と父と僕」を――
北脇昇の「クォ・ヴァディス」の絵の中に――
確かに暖かに、感じたのである……
最初に、これらの手書き句稿を一字一字丹念に読み解き、我々に与えてくれた川村蘭太氏の労苦に心から謝意を表するものである。
それにしても詠み溜めたものではあろうが、一日の便で百句は強烈である。
而してそのうち、『指環』に採られた句は「風鈴や枕に伏してしくしく涕く」「ひまわりを植ゑて娼家の散在す」「夏草と溝の流れと娼婦の宿」のたった三句に過ぎない(採録状況も川村氏の底本の記載に従っている)。
*
五月雨の流れどほしの木木の膚
短夜の夢の白さや水枕
風鈴に甘くして飲む水藥
ひと在らぬ夜るの風鈴鳴りにけり
炎日の葉の影を踏み家に入る
日は宙に徑にまごつく遠蛙
春畫賣る汗に濁りし老婆の眼
黑人兵の本能強し夏銀河
五月雨に掌を出してみる葉の隣り
ややありて雫をはらふ濃靑の葉
蟻の體にジユツと當てたる煙草の火
指置くや決して指には触れぬ蟻
指はさむ暴れどほしの翅もつ蟻
五月雨の湖を燈して渡りけり
生臭く半生の星かかげけり
天の河少女の頃も死を慾りし
濃山吹すなほにあゆむ少年犯
汗白む少年犯の膝頭
コスモスに肯きかねることありけり
「ややありて」の「濃靑」は「こあを」と読む。ダークブルー。
「五月雨の」の句の「湖を燈して」は「うみをともして」と読んでいよう。
しづ子の句の素晴らしさはその独特の映像表現にあると僕は思う。キネマの第一世代の真骨頂とも言うべきか。その時間のモンタージュは凡百のカメラマンを蒼白たらしめるに足ると言ってもよい。
「木木の膚」を本流の如く漲り落ちる「五月雨」を「流れどほしの」とアップどころではない接写レンズで撮る――
三鬼の「水枕ガバリと寒い海がある」をインスパイア、熱にうかされた眩暈を幻のままに「夢の白さや」と詠んで、あの不透明な白々とした「水枕」をクロース・アップ――
「風鈴」(アップ)――「水藥」の壜(アップ)――「甘くして飲む」唇(アップ)のカット・バック――
たった一人の五月の暗い居室にチリンと鳴る孤独な「風鈴」――
路上。焦げ付くような「炎日」に焼き付けられた「葉の影」。女の足がそれを踏みしだいて、そして家の闇へと吸い込まれてゆく孤独なその後ろ姿――
感光するフィルムは辛うじて「日は宙に」ある映像を見せて、カメラは急激にパンして人気のないぎらついた小「徑」を俯瞰、そこ「にまごつく遠蛙」(「遠蛙」は「とほかはづ」であろう)を広角で映し出す――
「春畫賣」りの「老婆の」黄色く「濁」った「眼」そして粘つくようにしたたる「汗」――
「黑人兵の」句は伝説のしづ子ならではの句である。「黑人兵」「本能」「強し」「夏銀河」の総ての語が強靭で尚且つ、批評を許さぬ有機的なソリッドな合体として、読者に迫る。下五で宇宙にスケールを飛ばすのも上手い。その句の具体なイメージを遥かに遠くに措いてしまって、僕はこの句が好きである。
以下、三句を選んだ「蟻」の句は、十句連作である。是非、底本で鑑賞されたい。炎天下のしづ子と蟻のハレーション気味の映像は、忘れ難い強烈な印象を残す。
「生臭く半生の星かかげけり」は先行する、謎めいた句「明星に思ひ返せどまがふなし」に響き合うように僕は感じる。
「少女の頃も死を慾」したしづ子の眼は、「少年犯」の共犯ででもあるかのような「少女」の視線と、そして母の慈愛に満ちた双眸とでもって、見守っている(この「少年犯」の句も四句連作)。
「コスモスに肯きかねることありけり」は翌月の「樹海」(昭和26(1951)年7月号)に載る、知られた「コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ」の原型と言えよう。
本記載を1月から6月に区切ったのは、この6月より、しづ子には多量の未発表句稿が存在するからである。一応、時系列を意識してしづ子の句を見たいと思っているので、ここに区切りを作った。
*
月の夜の蹴られて水に沈む石
(「樹海」昭和26(1951)年1月号)
パースペクティヴと水面の波紋が孤独に美しい詠唱である。
*
戰況や白き花在る枯れの中
(「俳句往来」昭和26(1951)年2月号)
「戰況」とは朝鮮戦争を指す。本句の作歌時期は投稿から考えて二か月程前に遡ると考えられるが、前年1950年10月には中国軍が参戦して戦況は泥沼化、11月、国連軍は10月に進攻制圧した平壌を放棄して38度線近くまで潰走を始め、中朝軍は12月5日に平壌を奪回、この年の1月4日にはソウルを再度奪回している。川村氏の年譜によればこの前年10月頃には恋人となったGI(米軍軍人の俗称で“government issue”(官給品)の略。潤沢な官給品を支給されたことによるとされる)と同棲を始めており、彼はこの5月に朝鮮に出兵しているから、しづ子にとってその「戰況」は切実であった。なお、この『俳句往来』の前号(1月号)にはしづ子をモデルにした柳澤湫二なる人物(「樹海」同人。本名不詳)の小説「なめくじ」が掲載されている。僕は未見であるが「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の291~292ページに、川村氏によって驚天動地のその内容が要約されている。要約でも扇情的で妙に粘着質の印象を持った作品であることを感じさせるが、先に川村氏が指摘し、僕も仮定した巨湫としづ子との秘かな関係をも匂わせる内容ではある。
*
星凍てたり東京に棲む理由なし
山沿ひに小雪來るらあし此の縣のみ
曲りきて伊吹颪を流るるなり
花椿いまだに拔けぬ妻の癖
(「樹海」昭和26(1951)年3月号)
二年前の東京から岐阜への移住、ダンサーを生業としながら以後、同県内を転々とするに至ったしづ子の流転走馬灯のような一〇句から。――「曲りきて」「流るる」のはしづ子自身であることが、如何にも荒涼として哀しい。
*
雪は紙片の如く白めりヒロポン缺く
(「樹海」昭和26(1951)年5月号)
これはしづ子のヤクではなく、恐らく恋人のGIのものではあるまいか。当時の読者はしかし、しづ子の「転落の詩集」をここで確信したに違いない。いや、それもしづ子の確信犯でもあろう――。
*
花散り初むきのふ曉け方みたる夢
(「樹海」昭和26(1951)年6月号)
……しづさん……あなたの見たその夢……そっと聴かせて下さい……
「穢」
という漢字を僕は「のぎへん」に「歳」と生徒に書いてきたのだが、昨日、妻と話していて「違うわ」と言われて、愕然とした。
確かに「歳」ではなかった――「穢」のつくりは「歳」の正字であった――そうして、僕は「歳」に正字があることを、今日の今日まで知らなかったのである――
教え子諸君、遥かに遅まきながら
「穢」
である。ここに数千人の教え子に慚愧の念を以て、訂正する――
僕は実に、この程度の男なのである――
母「聖子テレジア歌集」の縦書版及び先にブログに公開した「母の歌集から」を「同選歌集 たらちね抄」と改題し、同縦書版と一緒にトップ・ページに公開した。特に同縦書版はその読み易さから、静謐な母の思い出とするにふさわしいものとなったと思っている。
――母さん……
しづ子の実像に眩しいハレーションがかかり始める。「しづ子」伝説の第二期ともいうべき世界が起動し始める。俳句も再起動し、年間の発表句は全59句、その内、『指環』に採録されたものは22句である。僕が選んだのも22句であるが、これは偶然の一致、『指環』のものも、漏れたものも僕の琴線句、合わせての22句である。
*
花吹雪岐阜へ來て棲むからだかな
黑人と踊る手さきやさくら散る
(「樹海」昭和25(1950)年2月号)
『指環』採録句。「最後の審判」のように黒人の黒い手としづ子の白い手――早いターンの二人きりの尽きるともないダンス――そこに歌舞伎の舞台の如き沢山の桜吹雪――芝居がかっていながら、強烈なリアリズムと若い律動がある名句である。標題「流転」四句の冒頭二句。
*
指環
冬の夜の指環の指や妻たりし
左中指かたみの指環凍てにけり
玉三つならべ指環の凍てにけり
手袋の指に指環を愛でにけり
をんな持ちならざる指環指凍ゆ
凍つる夜の吻ふれしむる指環かな
過去の冬あたへられたる指環かな
指環凍つみづから破る戀の果
(「樹海」昭和25(1950)年2月号)
これは彼女の第二句集の題名『指環』と同じ標題でありながら、実は最終句のみが『指環』に採られたのみである。時系列から言うとこの指環を送った人物は、短い結婚生活であった関某かと僕は当初思ったのだが、その場合、二句目の「かたみの指環」で躓く。「みづから破る戀の果」からは先に示した関に先行する愛人池田政夫かとも思われるが、やはり「かたみ」がそぐわない。この指環に対する強いフェティシズムには、えも言われるぬしづ子の執念が感じられる。これについて、川村氏は「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の中で、実はしづ子には向島の工場で製図工として働いていた昭和14(1939)年二十歳の頃、二人で秘かに契った婚約者がいたが、彼は戦死した事実を明らかにし(氏名や戦死の時期等は不詳)、『しづ子が真に愛した相手は、戦死した婚約者であった気がする』とされ、またこの「をんな持ちならざる」振りの大きい男物の指環の元の持ち主として『最も自然なのは、戦死した婚約者ということになろう』と記しておられる。僕も、この句群の句柄をほぼ総て説明し得るものは、その戦死した婚約者しかいないと思う。そうしてそう腑に落ちた時、これらの句群はいやさらに輝きを増すと言ってよい。
寒の夜の流離の指環愛でにけり
遊び女としてのたつきや黄水仙
(「樹海」昭和25(1950)年3・4月号)
標題「黄水仙」の四句の最後の二句。後者が第二期の伝説「娼婦しづ子」を初めて読者の鼻先に突きつけた問題の句である。
賣春や鷄卵にある掌の温み
菊白し得たる代償ふところに
娼婦またよきかな熟れし柿食うぶ
(「俳句研究」昭和25(1950)年4月号)
先にも記した通り、『指環』所収は、
娼婦またよきか熟れたる柿食(た)うぶ
で、句形が微妙に異なっている。
しづ子は、前月に続き、メジャー誌も用いてスキャンダラスな都市伝説(アーバン・レジェンド)を世間に播種し感染させる。意味深な標題――「代償」――その全六句の掉尾に「娼婦またよきかな」――この新鋭の、裏切られた俳壇に強迫的な脅威を与えるために――娼婦型最終兵器「しづ子」は――満を持して配備されたのである――
*
霙けり人より貰ふ錢の額
(「樹海」昭和25(1950)年5月号)
ここまで来ると、もはや娼婦句ではなく、路通や乞食井月の風情に古化してくる。前掲句と合わせても4句のみ、「しづ子」娼婦伝説の証左は(それらしい素振り仄めかしや仕草の匂わせの確信犯の句は確かに多くあるが)たったこの程度なのだ。恐らく増殖した妄想の中で、しづ子の句は体よく「娼婦句」として奇形的解釈が行われ、今もいまわしい「伝説」の再生産が行われているのだと僕は思う(ただそれをやはりしづ子はほくそ笑んで黙って蔑視ばかりなのであるが)。僕がこの4句をお示ししたのは、ある意味、それをもう断ち切る時がきたということを秘かに感じているからである。あなたが更に、あなたのしづ子を傷つけない、ためにである――
*
斯くまでの氣持の老けやたんぽぽ黄
春盡や全裸のかひな輕く曲げる
情慾や亂雲とみにかたち變へ
身の變轉あかつきを降る春霞
(「樹海」昭和25(1950)年6月号)
彼女の印象的な下五「たんぽぽ黄」の四句連作の後に掲げた三句が続いた全七句群。僕は『指環』に採らなかった「春盡や」の句が不思議に健康で美しく高い位置に感じられ、次いで「情慾や」から「身の變轉」でもて余し、持ち崩した身体へと映像が変質、最後に、いや、身はまだしも「斯くまでの氣持の老け」をとこそ初めて実感する、しづ子の哀しい姿体が見えるのである。底本によれば、この号でしづ子の具体的な住所が誌面に公開されている。但し、これは必ずしもしづ子の自律的な意志によるものではないであろう。編集上の同人情報記載であった可能性の方が僕には高いように思われる。彼女は自身の住所は知られたくなかったはずだと思う。
*
句作七年十指の爪の小さきこと
(「樹海」昭和25(1950)年8月号)
演じられた「子供の俳句」三句の先行を除けば、しづ子の「樹海」初投句は、先に示した「樹海」昭和18(1943)年10月号の、
ゆかた着てならびゆく背の母をこゆ
で、七年前になる。
*
明星に思ひ返せどまがふなし
(「樹海」昭和25(1950)年11月号)
標題「まがふなし」で5句。川村氏は「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の本文で、この号に松村巨湫は「しづ子のこと」という一文を寄せているが、この長文の評は、実はしづ子自身からの依頼で書いたものであることを後に巨湫自身が明らかにしているとし、そこで『師のこのしづ子評は難解であると共にかなり不思議な文章で』『そこに謎が潜んでいる気がしてならない』と記されている。「KAWADE道の手帖」の「鈴木しづ子」に所収するそれを再読してみた。これはしづ子評としては飛び切りオリジナルなもので、しづ子を語る上では避けて通れない必須評論なのであるが、しかし違った意味で飛び切り難解にして異常な文章なのである。――「〇〇性」「〇〇的」「〇〇化」の連発――傍点の乱打――俳句詩想を示すための哲学的で難解、というより、奇怪奇景な印象を与える「語維」「靭性」「撓性」「抒懐」「抒懐度」「象性」「嚮向的規制論理」といった造語らしきものもふんだんに含まれる尋常ならざる語群――またそこで開陳される彼の俳句詩想の一部は、すぐ後の文で無化されたり、訂正されたり、その外延を野放図に広げたりしていて、これがまた如何にも読みにくい印象を強めているのである。そして――ここに奇妙な性的表現に続く、やや意味不明な文脈が二箇所、出現する。一つは本句を評釈した部分に現れる。
『「まがふなし」はその思慕――かれ自身にも気づかれないリビドー――の存在を無意識のうちにも摑みえたよろこびであり、そこから未来に向かって世界をひらきゆかんとする決意である。』
(「決意」に傍点。「かれ」とはしづ子のことである。巨湫はしづ子を語る際に「かれ」と表現する。これにも僕は奇妙なこだわりを感じる)で、今一つは、しづ子の「すべて夜おそき飯はむ秋簾」の句を激賞する中で(残念ながら僕は別段この句をよいとは思わない)、古来の風雅理念である「寂び」を批判する文脈に現れる、
『ひとによって生み出され、にじみ出て来たものを、後とからしきりと反芻しているのが能楽だ。世にもかけがえのない愛人のそれでないかぎり、分泌物質を嗜尚することに私は堪えがたい。』
(「反芻」「能楽」に傍点)という叙述である。「性」に関わる表現はしづ子を評するに避けられないから、僕はそれを以て「奇妙な性的表現」と言っている、のではない。
掲げた前者は一見、特に変ではないように見えるかもしれないが、よく読むと如何にもおかしいのだ。『かれ自身にも気づかれないリビドー』という受身・可能否定形の使用の意味の不鮮明さ。更に、そもそもが無意識下の性衝動の核部分を言うリビドーは、自身に気づくことは出来ないからリビドーなのである。従って、そ『の存在を無意識のうちにも摑みえたよろこび』とい謂いは精神分析学的には矛盾した言説(ディスクール)なのである。それどころか、それが一気に『そこから未来に向かって世界をひらきゆかんとする決意』にダイレクトに繋がるというのは文学的な措辞としては恰好いいけれども、何を言わんとしているのかが実は全く伝わってこない、やはり「変な意味」で「性」的な解釈なのだ(言っておくが実は僕は、この「明星に思ひ返せどまがふなし」の句をも僕の琴線句としては、採らない。巨湫の言うような、ある強靭な強さをこの句に僕も感じはするが、しかし「僕の琴線」には触れてこないのである。それだけは断っておく。ただしづ子自身がこの句にこだわった事実に於いてこの句はしづ子のエポック・メーキングの句であることは確かであり、そのようなものとしてこの難解な象徴句は今後も議論されねばならない)。――僕はこの巨湫の奇妙なもの謂いには、まさに巨湫の援用しているフロイトの「言い間違え」理論によって解釈し得るのではあるまいかという予感がしている。巨湫は、しづ子との間にある、ある性的な秘密を隠している――しかしそれは巨湫のリビドーに直結しているが故に、こうした言い間違いとして不思議な影をその評釈に投射してしまったのだ――という僕の野狐分析である。今は残念ながら詳細なその分析を立証する資料もなく、している暇もないので、これ以上は語らないこととする。しかし、僕のその一見、性的な牽強付会とも批評されそうな解釈は、後者の巨湫の叙述に至って、解釈可能性の有意な高まりを感じさせはしないだろうか? この文章を「変」に感じない人は、最早、いないであろう。だって俳句の「寂び」を語る中で、
『世にもかけがえのない愛人の』『分泌物質』であるなら、それが汗であり、経血であり、精液であったとしてもそれを私は慈雨のように『嗜尚する』であろう
と巨湫は言い放っているのである。――これは確かに川村氏の言を俟つまでもなく、異様で奇怪な『かなり不思議な文章で』『そこに謎が潜んでいる気が』、確かにしてくるのである。……
「新編鎌倉志卷之五」を「佐介谷」まで更新。この佐介ヶ谷の記載に引く「吾妻鏡」の近親相姦事件は、不勉強にして初めて知った。――頗るつきで面白い! ――イサナキの呪的逃走の櫛がこんな忌まわしい口実に使われているなんて!――それにつけても! これは枠組と櫛の使用がフランス民話の「皮っ子」と同じではないか!――それにつけても、黄門さまよ、鎌倉ガイドにポルノグラフィを仕込むたぁ――やられたね!――黄門さま、ドラマが終わりそうでも、僕のところでまだまだゴカツヤクです!
不特定多数の誰かが私を「猥雑」だとするとすれば私はそれを無限遠に越えて「猥雑」であるという真理に於いて君の命題が不全不可であることを完全に証明する。
この年は、「樹海」1月号に2句、3月号に11句が掲載されたのみで計13句。4月号以降はしづ子は完全に沈黙を守る。関某との結婚生活がどこで切れたかは不明である(なお、川村氏の精査によって戸籍に変更がなく、これは事実婚であったことが分かっている)。この年の末頃か、東京から岐阜に転居している。
*
關といふ姓の感じや寒櫻
林檎剥くややにそだつる妻ごころ
(「樹海」昭和24(1949)年1月号)
二句目は新妻の句として微笑ましいが、一句目は妙に改まった余所行きの「寒櫻」が、全体にややクールな印象を残し、僕には既にしてある影を感じさせる。
*
はこぶ箸のこる悔恨かすかにも
(「樹海」昭和24(1949)年2月号)
冒頭に記した通り、「かすか」に「のこる」だけだったはずの「悔恨」は増殖して膨れ上がり、この結婚生活はあっという間に瓦解する。
昭和23(1948)年の発表句は総数93句、そのうち句集『指環』に採録されたものが39句に及び、それを除くと53句となる。この年は「しづ子」伝説元年であると言える。
*
婚約
婚約や白萩の花咲きつゞき
月光の濱に足跡つけずゆく
秋薔薇署名おこなふ布の端し
秋燈悲し愛情の片鱗さへみえず
秋蛾堕つ初戀の男慕はしからず
(「樹海」昭和23(1948)年1月号)
表記はすべてママ(「燈」「戀」)。川村蘭太「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の巻末略年譜にようれば、しづ子はこの年の12月に当時彼女が勤務していた東芝車輛の「関」姓の同僚男性と結納を交わしているが、早くも翌年にはこの男との結婚生活を解消、とある。しかし、この「婚約」を標題とする五句連作の「婚約」相手は「関」なる人物であるとは思われない。この「婚約」とは後掲する「雪崩」句群の冒頭の「この夜ひそかに結婚す」という謂いと同じく、愛する男に身を捧げたことを意味していよう。問題なのは、その愛情が早回しの映画のように、たった五句の中で急激な右肩下がりを示すということである。これらは前年の秋の一連の出来事と考えてよいようだが、不思議な転落の詩集ではないか。川村氏の探求によって、このしづ子の愛した人物は、池田政夫という「樹海」同人、しづ子より五歳年下の東京商科大学(現一橋大学)学生であったことが分かっている。
*
欲るこころ手袋の指黑に觸るる
(「樹海」昭和23(1948)年3月号)
「黒」は「黑」としたが、「觸」はママ。かのスキャンダルを産んだ句は、その登場からして不幸であった。表記の通り、とんでもない誤植で始まった。勿論、これは
欲るこころ手袋の指器に觸るる
であるが、川村氏によれば、その正誤表示さえなされずに、突如、翌四月号「樹海」誌上で、主宰にして彼女の師である松村巨湫の選評の中で、誤植を言わずに「器に觸るる」として評されることとなる。「樹海」の主要同人の中では早期にその誤植が認知されていたもののようではあるが、一瞥の「黑」は強烈である。それが「器」と訂されたとしても、見てしまった人々にとって、その「器」はまがまがしい「黑い器」なのであった。僕はこの句について語ることを欲しない。いまわしいまでのこの句への波状的な誤解の洪水が、俳人鈴木しづ子の運命を否応なく数奇に向けて変質させてしまった。それは全く以て彼女の責任ではない。――後のしづ子がその張られたレッテルを、逆に強力な武器として使用したことは、完全な正当行為であり、それを本末転倒に指弾したり、阿呆臭い道徳的な説教でもって批判するなどということは許されないのだ。――涎を垂らした自称俳人ニンフォマニアどもの、見当違いの恣意的な曲解誤読の堆積の山が総ての元凶である。それは僕には、京大俳句事件で特高がやった、とんでもなく滑稽なイデオロギー的牽強付会誤釈なんぞより、遥かに致命的で罪深いものであったとさえ言えると考えている。
*
對決
ダンサーになろか凍夜の驛間歩く
霙るる槇最後のおもひ逢ひにゆく
春近し親しくなりて名を呼び合ふ
春火桶甘へし聲に吾がおどろく
對決やじんじん昇る器の蒸氣
(「樹海」昭和23(1948)年4月号)
本「對決」句群全五句の内、「ダンサーになろか」「霙るる槇」「對決や」は『指環』に所収されるが、これは五枚の組み映像、急緩急、薬缶がじんじんと蒸気を噴き上げる「對決」のカタストロフへ至る一つのストーリーを形成していると言ってよい。これは五句セットで読まれるべきものである。初句がしづ子の著名句として知られるが、私は最終句がいっとう好きだ。「器」の用字は先の邪読スカベンジャーどもへ投げ与えた、しづ子の軽蔑に満ちた一擲の腐肉である。
*
雪崩
山の殘雪この夜ひそかに結婚す
雪崩るるとくちづけのまなこしづかに閉づ
山はひそかに雪ふらせゐる懺悔かな
春雪の不貞の面て擲ち給へ
けんらんと燈しみだるる泪冷ゆ
(「樹海」昭和23(1948)年5月号)
これは、日野草城が昭和九(一九三四)年の『俳句研究』に発表した、自身の新婚初夜の連作「ミヤコホテル」のインスパイアであるが、雪山のロケーションが音を吸収し、静謐にして遥かに広がる純白の山小屋の窓外景、室内の映像はタルコフスキイの「鏡」のように素晴らしい。これも最後の三句が『指環』に採られているが、これもやはり五句セットで初めて真の心情が伝わる組句である。時期的に見ても前年冬か初春、愛人池田政夫との体験に基づくものであろう。しづ子がこの冒頭二句を『指環』から外したのは、『指環』刊行時には、既にこの時のリアルな映像を出来ることなら忘れたいと感じていたから、かも知れない。
*
好きなものは玻璃薔薇雨驛指春雷
(「樹海」昭和23(1948)年6月号)
標題「好きなものは」の五句の掉尾。「驛」はママ。しづ子の句としては最も人口に膾炙しているものの一つ。尾崎放哉の「咳をしても一人」と同じで、後にも先にもやった者ののみが正当な唯一の「作家」であり、唯一の「作品」で有り続ける見本である。玻璃――薔薇――雨――驛――指――春雷――その個別な象徴関係を精神分析することも、有機的綜合解釈をすることも――総てはしづ子から皮肉な笑みを返されるだけである。なお、この号にはもう一つ「道程」という十句句群があるが、この句群は「懷疑」「戀の淸算」「戀夫」「浮氣男」「死の肯定」「肉感」「情痴」といった伝統的俳句用語から大胆に外れた語句を意識的に散りばめた野心作乍ら、十句全部を総覧すると明白な作為が見え透いてしまい、その結果、一句の重みが不可避的に著しく減じられ、いずれにも等価な瑕疵が感じられてしまう(逆に言えばそれぞれを単独で鑑賞した際には違った印象を与えるかも知れないということではある)。
*
ほろろ山吹婚約者を持ちながらひとを愛してしまつた
(「樹海」昭和23(1948)年7月号)
この号の発表句は「意識」という標題の十一句であるが、内、八句を『指環』に採っている。採られなかった一句がこれで、しづ子にしては珍しい自由律であるから当然の落選である。直前が、
紫雲英(げんげ)摘みたりあなたの胸に投げようか
であるが、それでも初句字余りの範囲内であり、本句は句群にあって形式も詩想も極端に外れている感じがする。しかし、だからこそここで採りたくもなるのである。僕はもともと自由律から俳句に入ったから、こうした句形に全く抵抗感がないのである。
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薔薇の夜や深く剪りたる指の爪
(「樹海」昭和23(1948)年7月号)
前句と同じく『指環』に採られなかった、もう一句なのであるが、これをしづ子が採らなかったことが意外である。僕にはこれは如何にもしづ子らしい句であり、如何にも『指環』の世界に相応しい句であると思うのだが。……いや、余りにも隙がないほどにぴったりし過ぎた、あたかも予定調和のようなものを感じさせるところこそが、しづ子の癇に障ったのかも、知れないな……
*
まぐはひのしづかなるあめ居とりまく
(「樹海」昭和23(1948)年8月号)
遂に確信犯の、勝手に造られた「しづ子」像を逆手にした、しづ子の俳壇への復讐が始まる。総表題は「過程」で十句。『指環』に採録。しかし、何と美しい句であろう。そもそも「まぐはふ」という古語自体、愛する者同士が「目交はふ」で、目を見つめ合うことを語源とする。単漢字の「居」が――あたかもイサナキとイサナミが廻った「天の御柱」のように句を求心的に「とりまく」――そしてしづ子は男と「しづかなる」「目交はひ」の中にいる――この歌、僕にとっては永遠に神聖で美しい――
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裸か身や股の血脈あをく引き
(「樹海」昭和23(1948)年8月号)
前句と同じ「過程」の一句。『指環』に採録。誘惑的な確信犯にも見えるが(「引き」という能動態がそれを更に刺激する)、僕には、エロス以前に、大腿部内股のクロース・アップと浮いた真っ蒼な静脈の、マッド・サイエンティストの手術のような(と言ってしまえば実はサディズムのエロスのシンボルとなってしまうのだが)慄っとする青ざめたモノクロームの美を見る。――しづ子版「アンダルシアの犬」――主演もしづ子自身――なお、「過程」句群の他の句は(底本を読んで頂きたいが)、
山吹散る二度目の女ではわたしは厭だ
という直情径行以外は比較的抑制された句柄であって、この二句から敷衍想像されるような強烈なものではないことを附言しておく。
*
花柘榴左肋膜病にけり
(「樹海」昭和23(1948)年9月号)
しづ子に肺結核の兆候があった可能性を示唆する一句である。
*
風鈴や果してわれは父の子か
(「樹海」昭和23(1948)年11月号)
しづ子が深く思慕した母綾子は昭和21(1946)年5月15日に亡くなっているが、この句は、さんざん綾子を苦しめた父俊雄が正にこの昭和23(1948)年11月に、母綾子の生前から関係があった女性と再婚することへの、強烈な抵抗感に基づく呪詛の句である。
鈴木しづ子の現存する最後の自筆句稿に当たるのは昭和27(1932)年9月15日附、その前が同年9月9日附のものである。川村蘭太「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」(新潮社2011年1月刊)の巻末「鈴木しづ子 全句」によってその表記を見ると、後者では「団扇」を「團扇」、「売らじ」を「賣らじ」、「鶏頭」を「雞頭」、「点ずる」を「點ずる」、「油蝉」を「油蟬」、「醤油」を「醬油」、「灯」を「燈」、「美観」を「美觀」、「虫」を「蟲」と表記している。最終稿でも「虫」を「蟲」、「昼」を「晝」、「台風」を「颱風」(しづ子の好んで用いた語でこの表記は以前から一貫している)、「数」を「數」、「蝉」を「蟬」、「躯」を「軀」、「団扇」を「團扇」(但し、一句のみで他の五句では「団扇」とする)と表記している。これらからしづ子の詩想にあっては、昭和27(1932)年の時点にあってさえ圧倒的に正字のイメージが優位性を保持して奔流していたことが立証されると言ってよい。
……しづさん、僕が貴女の選句集を、そして、ここでの選句をすべて正字化していること、許して頂けますね……
でも、しかし、語るべきことは語らねばならぬ。最後まで――
教育とは「共生」であって、決して間違っても「矯正」ではない。
ノース2号と友だちになりたかった「人間」である――
昭和22(1947)年の発表句は総数50句、そのうち句集『指環』に採録されたものが11句(一句、改作されているものがあるが、それは別な句ととって数えてなかった。最初に掲げたのがその句である)含まれるので、それを除くと39句となる。以上から句を選んだ。
*
あをむ月吻ふれしむる玻璃のはだ
(「樹海」昭和22(1947)年1月号)
「吻」は「くち」。本句は『指環』に、
月蒼む吻ふれしむる玻璃のはだ
の句形で載るが、僕は表記やリズムも含めた詩想に於いて動態で畳み掛ける後者よりも、この初期形の方を、愛するものである。
*
日ざしきし非をさとさるる秋の壁
(「樹海」昭和22(1947)年2・3月号)
僕はこの句に不思議な禅機を感ずる。「非」の哲学的瞑想と言ってもよい。少なくとも僕にはここに具体な情景を浮かべて矮小化する解釈は埒外なのである。これは合併号か。
*
眉ひくや秋蛾はばたく鏡の面
(「黒檜」昭和22(1947)年5月号)
「面」は「おも」か「も」か。しづ子の用字としては「おも」か。シュールレアリスム風のワン・ショット。「鵙」という標題での五句の巻頭句。標題はその中の「鵙高音花壺の水すてるとき」に由来するが、この句の鮮烈さに続く他の句はかすんでしまう。
*
冬雁のむらだちゆくや過去は過去
(「俳句研究」昭和22(1947)年5月号)
「紺リボン」という標題での五句の巻頭句。これもメジャー誌をターゲットとした、下五で斬新に突き放す野心的な作である。ただ、やや巧んだ後味が残る。好きな句だが、しづ子が『指環』に採らなかった気持ちは分かる気がする。この頃の「俳句研究」は恐らく改造社社員であった山本健吉の編集になるものであろう。
*
背信や寒をはなやぐちまたの燈
(「俳句研究」昭和22(1947)年5月号)
同じく「紺リボン」標題の二句目。こちらは前句とは逆に、上五で中七下五の風景を扇情的に浸潤させる効果を狙った。やはりやや狙う意図が見えてしまう句である。しかし、韻律が流麗で僕好みである。
*
アマリリス娼婦に似たる氣のうごき
(「俳句研究」昭和22(1947)年8月号)
標題「春嵐」十句の第四句。これは別段、うまい句ではない。ではないが、しづ子にとってエポック・メーキングな句であるように思われる。この「氣」は作者しづ子自身に確信犯的に投影されているからである。しづ子には、句集『指環』所収の、
娼婦またよきか熟れたる柿食(た)うぶ
という有名な句があるが、それに遥かに先行する、伏線の如き句として僕には映るからである。この知られた句は初出が昭和25(1950)年4月号『俳句研究』で、実は句形が『指環』とは微妙に異なっている。以下に掲げる。
娼婦またよきかな熟れし柿食うぶ
本句は実に、これより凡そ三年前の句であり、『春雷』と『指環』という大きな変身をする、その狭間にある本句は、やはり銘記されるべき句であろう。因みに、この「氣」は底本が正字なのである。更に言えば、実はここに掲載された十句全部が正字表記なのである。これは僕が恣意的にしづ子の句を正字化していることへの、一つの正当性を証するものとして掲げたい。一首の変化を狙ったものとも思われるけれども、そうした意識の切り替えをスムースに出来るのは、彼女の原意識に正字の感覚が定着しているからにほかないらないのである。標題は、最後の第十句目、
春嵐饐えし男體われに觸る
である。「男體」は「だんたい」と音読みさせるか。面白いが、無理のある句である。
この時期、しづ子は「愛憎」「敵意」「本能」「節操」といった哲学的概念語や尋常性を失った語彙衝突の語句を挿入することで詩想を変革出来ると安易に思っていた感を僕は受けるのである。……ただ、それは概念ではなく、切実な現実であったのかもしれないのだが……
新しい「歴史」教科書ごときに甘んずるなヨ!
糞どもが!!!
神話から歴史教科書を始めるなんて吝嗇臭せえことはやめたがいい!
まずはなにより「古事記」をしっかり載せた高校の古典教科書を作ろうじゃねえか! 本気だぜ!!!
マジで俺は今一ヶ月かけて「古事記」の冒頭を授業してるんだよ! 何処にもないから仕方なくって俺のオリジナル・プリント使ってだぜ!――
「くらげなす」から初めて――「蛭子」奇形児出産も国生みもスサノヲの馬の皮からホトを刺す一件も――何もかも、だ!――
そうだな――丹塗りの矢に成りてほとを刺すところも欲しいがね!――
あん?
御前んとこで出せや!!!!!!
俺はそうしたらお前んとこの会社の教科書が採用されなくても――確信犯でゼッタイ使うことを保証してやるぜ!!!……
……いいや……
……残念ながらその時間が俺にはないことを残念に思うのだがね……
――これは俺の最期の「本気の」謂いだ!
――お前らがそれに答えられないのを俺は知ってるぜ!
――だからこそお前らには「本当のあるべき日本」が見えないのだ!!!
♪ふふふ♪
死ねや! 馬鹿どもが!!!!!!!!
四日程前の夢だ――
僕は「平家物語」を開いている――
その壇ノ浦の章の最後――
――あんとくさまはおちのびぬ かのちにあられ とはさひわひに いきのびておはす――
と書かれているのを確かに読んだのだ――
「彼の地」は――
しかし――
何処とは書かれていなかったのだけれども……
*
僕には珍しい活字の夢であった――
世界は退屈で 一人ひとりが 己れの仮象された義務と恣意的な悲哀の中に埋没し そのまま虚無を演じてる――そうして 一人ひとりが そのことをまるで知らない――「人類はこれで終わる」ということも知らないのだ――「先生」が言ったあの言葉は それだったのでないか?!
母の歌集から僕が選した。但し、推敲されたものは僕の感覚で推敲案を選択してある。また、歴史的仮名遣いや送り仮名の一部を補正(拗音の正字化を含む)、更に漢字表記を恣意的に正字にしてある。
*
郭公の 初鳴き聞けば
良きことあるかに 心浮き起つ
鳥よけの 風車は やさし峽田(はざまだ)に
朝毎に見る 鴨の睦むを
けしの花 音もなく散り ニユース告ぐ
昭和を生きし 女優の死去を
二上に 共にのぼりて 弟の
再起をかけし 鐘よひびけと
初夏の風 早苗くすぐり 過ぎゆけば
おたまじやくしの 動きにぎはふ
五十路越えて 犬との散歩 田園の
移り變はりの 機微に親しむ
スカンポの ほのくれなゐに 風吹けば
遠き記憶の 甘ずつぱき日
雨さけて 大木のもと 寄る二人
雨打つ葉音 それぞれに聞く
雨はれて 明けし窓あり 庭先の
合歡の花の香 臥(ねや)に入り來る
新緑の 下(もと)に廣がる つめ草を
花かんざしに 少女たはむる
公園は 梅雨の晴れ間の 光滿つ
眺望臺に 初老の夫婦
落花せし 花を惜しみて
柿の實を 數ふる我を 夫は笑ひぬ
わが所作を 笑ひし夫も
靑き實を 數へゐるらし 柿の木の下(もと)
廢されし 鐵道線路は 夏草に
おほはれており 陽炎燒えて
文明は 都會に厚く 郷里は
汽車は廢線 學舍も無し
この町の 醫業にかけてし 父永眠る
故里の岡 三年とせぶり佇つ
子等はみな 都會に出でて 故里の
岡に淋しく 墓殘るのみ
やりどなき 想ひを抱きて 來し濱邊
波のしぶきに 夕暮は來る
ついと飛ぶ 背黑せきれい 葉にふれて
蓮の玉露 光こぼれり
山ぎはの 一もと合歡の 花の群
夕風立ちて ひぐらしの鳴く
雨あがりて 開けし窓より 合歡の花
あはきかをりの 閨に流るる
新しき 糠を買ひ來て 糠床に
手を加へをり 子の歸省待つ
夜嵐に 散りこぼれたる 葛の花
あはき香をりを 踏まず通りぬ
炎天下 生まれし子犬 みな去りて
荒らせし 庭に 白萩の散る
目を病むと 姉の電話の 切れし夜
しまひ忘れし 風鈴の音
歸省する 車窓に見ゆる 高千穗に
父と登りし 若き日かへる
もずの聲 靜寂破ぶり 鳴きゆきぬ
遠き友逝く 知らせ受けし日
柿の葉を はききよめゆく 音のみに
虚しき裡を いやされる朝
竹とんぼ 子等の歡聲 夢のせて
吸い込まれゆく 秋空の中
冬の夜の 裸木に光る ネオン星
眠れる木々の 悲しみ聞こゆ
降りつもる 雪のふくらみ 母の胸
しのばせそつと 掌をあててみる
[やぶちゃん注:本歌は上句二句目を恣意的に操作してある。]
庭石に 積りし雪の ふくらみに
母を想ひぬ やはらかき胸
一鉢の 梅の香りは 室に滿つ
外は二尺の 雪降り積るなり
鈍き陽を 受けて地藏の よだれかけ
わづかにあせて 雪を吸ひ込む
畦道の 雪をかきわけ 摘みし芹
夫との膳に 春を語らふ
雪殘る 谷の斜面を うめつくし
雪割草も 今はまぼろし
マスカツト 見れば偲ばるる 亡き姉の
象の涙と 言ひつつ食みしを
“Alexandre THARAUD joue/plays RAMEAU ”
何年も前に教え子がプレゼントしてくれた一枚――しとやかで寂しくあたたかで哀しい――「少年の羽」のような演奏……
昭和21(1946)年の発表句は句集『春雷』を除くと、総数21句に過ぎない。尚且つ、その中には『春雷』に採録されたダブりが5句含まれるので、それを除くと16句となる。続く昭和22(1947)年からは第二句集『指環』へ採録されたものが出現するが、何故か、彼女は昭和21年の作品を『指環』に一句も採録していない。以上の16句から7句を選んだ。僕がこの如何にも読者に無用な注を附すのは川村蘭太氏「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」(新潮社2011年1月刊)の編集権を侵害しないためであるが、今後は、この謂いを省略することとする。僕はこのブログによって如何なる利益も蒙ってはいないし、今後も利益を蒙ろうというつもりは、全くない、からである。これは飽くまで、僕のしづ子へのオードなのである――
*
旅ごころさそふふみをばさみだれに
(「現代俳句」昭和21(1946)年9月号)
「現代俳句」は石田波郷が編集に当たった画期的な綜合雑誌で、これはその創刊号でもある。しづ子のメジャー・デヴュー五句の内の一句。――エトランジェが手紙をなめて背後の五月雨へとフォーカス・インする。――波郷は当時三十三歳、翌年十一月には現代俳句協会を創立するなど、戦後の俳壇の再建に精力的に活動していた。また丁度この頃、宿痾となった肺結核に既に罹患していたものと思われる。
*
梅林によするこころや昃る帶
(「樹海」昭和21(1946)年9月号)
「昃る」は「かげる」と読む。――梅林――高速度撮影でパン――ティルト・ダウン――手前に和服の女の後姿がイン、その帯で止まる――初春の淡い夕陽が帯に影を作り――背後の梅林が静かに暮れなずむ……。
*
このてぶりうれしくひひな飾りけり
(「樹海」昭和21(1946)年9月号)
ここでもアップの雛人形の手振りから、それを愛おしく手に取って雛壇に飾る女の手へとズーム・アウトしてゆく、彼女独特の遠近法が美しい。
*
よるの萩おもひそめたることども書く
(「樹海」昭和21(1946)年12月号)
「一つ家に遊女も寝たり萩と月」の確信犯インスパイア。これはしづ子の実景であると同時に、市振の宿の芭蕉の部屋の、その襖を隔てた隣室の、遊女の思いへのタイム・スリップでもある。
*
秋葵みづをこえたる少女の脚
(「樹海」昭和21(1946)年12月号)
「秋葵」は双子葉植物綱アオイ目アオイ科トロロアオイ属オクラ。勿論、ここでは「あきあおい」と読んでいる。周年開花するが、初夏から初秋までが頻繁な開花時期で、季語も夏。5~7cmの黄色若しくはクリーム色で中央が赤い花をつける。通常のオクラの開花は夜から早朝の夜間で、昼頃には凋んでしまう。花の印象は可憐な少女に合わすにすこぶる相応しい。これは静止した水溜りか。映像は総てその水面の映像である。――秋葵の花――水面、揺れて――飛び越える少女の脚――水面、揺れて……
*
鳳仙花なみだぐみたるふたつの眸
(「樹海」昭和21(1946)年12月号)
鳳仙花の接写から涙を溜めた女の双眸の組写真である。しづ子が写真や映画を撮っていたら、きっと素晴らしい映像を残してくれていたろうに……。
*
蜻蛉の高ゆくひとつ廠をこゆ
(「樹海」昭和21(1946)年12月号)
「蜻蛉」は僕としては「せいれい」ではなく「とんぼう」と読みたい。「廠」は恐らく「工廠」で、旧陸海軍に所属し、その兵器・弾薬等を製造修理した軍需工場、所謂、砲兵工廠と思われる。これもしづ子のパースペクティヴの妙味が感じられる佳句である。
現在、川村蘭太氏の労作「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」(新潮社2011年1月刊)によって、我々は鈴木しづ子の現存する総ての句を読むことが出来るようになった。今、僕は鈴木しづ子の俳句の足跡を編年で拾い読みし乍ら、僕なりにしづ子の俳句を辿ってみたい欲望に駆られている。そこで、ここにブログ・カテゴリ「鈴木しづ子」を創始して、幾つかのしづ子のエポックの句や、僕の琴線に触れるものを抄出、僕の浅い読みを添えながらそれを試みたいと思うのだ。
引用の底本は上記「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の巻末にある「鈴木しづ子 全句」を元とする。但し、「鈴木しづ子句集」の冒頭注で語った通り、僕の勝手な思い込から、正字表記に変えて示すことをお断りしておく。まずは何より、川村氏の「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」という稀有の感性と洞察に貫かれたそれをお読みになることを、そしてその全句をお読みになることを、お薦めする。――あなたのしづ子は、僕のしづ子ではないであろうから――
まず、彼女の最初期の句を見たい。
* * *
秋空に校庭高くけやきの木
五年 鈴木しづ子
(「樹海」昭和12(1937)年11月号 「子供の俳句」欄)
*
秋空に赤くもえたつ夕燒雲
尋四 鈴木しづ子
(「樹海」昭和13(1938)年1月号 「子供の俳句」欄)
*
雲の外靑葉若葉がそよいでいる
五年 鈴木靜子
(「樹海」昭和13(1938)年6月号 「子供の俳句」欄)
[やぶちゃん注:「いる」はママ。]
* * *
以上の三句が底本の巻頭に並ぶ。これらが我々が知り得る、そして初めて我々が目にする鈴木しづ子の最も古い(若い時の)句群なのである。
彼女の生涯が謎に満ちていることは周知の通りであるが、ここで吃驚するのは、彼女がその最初から年齢を確信犯で詐称して登場していることである。川村氏の精査により、彼女の生年は大正8(1919)年6月9日であることが判明している。従って実はこの最初の尋常小学校5年と自らクレジットした句はしづ子18歳の、後の二句は20歳の折りの投句なのである。まず、そこに彼女の奇妙な現実世界への仮象の「投企」を僕は強く感じるのである。敢えて言うなら、最初の句の「五年」は――嘘――ではない。しかし、それは尋常小学校「五年」ではなく、私立淑徳高等女学校「五年」という意味でならば、である。ここに「子供」の詐称への後ろめたさの含羞を読もうとすれば、読めないことはない、と弁護しておこう。
その句柄は一見、如何にも衒いのない素直な、いや、俳句を捻ったことのあるものなら、子供らしいと微苦笑、謂わば一笑に附すもののようにも見える。しかし、どうであろう、僕には、ここに既にしづ子の、後年に冴え切ってゆく「視線」のこだわりが強く感じられるのである。
同一俳誌8ヶ月の間に、彼女は一貫した対象と空(虚空)との明確なパースペクティヴのモチーフにこだわった、この三句を示し続けているという点に於いて、である。考えても見るがいい、これが素人なら、毎回、新規な対象に色気を移して、さまざまにつまみ食いするように詠むのが常であろう。中学の頃に俳句にかぶれた僕も、やはりそうだったことを告白する。そうして、乏しい詩力をずらしては誤魔化そうとするのが普通なのだ。僕は、ここ「子供の俳句」欄に、敢えてこうした連作とも思える、当時のしづ子の、「実感」「実視」にこだわった感覚の表現体を、自信をもって投げ入れる――そんな風なしづ子を見る思いがするのである。
* * *
ゆかた着てならびゆく背の母をこゆ
靑芒の一つ折れしがふかれてゐる
(「樹海」昭和18(1943)年)
* * *
しづ子と彼女の母の心的複合(コンプレクス)は非常に複雑である。それは川村氏の著作に譲るが、ここでしづ子は、一気に当時の実年齢24歳になっているのである。
先の句を詠んだ「10歳の少女」が、5年で14も成長するのだ。
色っぽい浴衣を着て、母の背を越えた女は、もはや艶麗な大人の「女」のそれである。
それはあたかもロバート・ネイサンの「ジェニーの肖像」のようではないか。
そして二句目では、まるで尾崎放哉の句のような、早過ぎる諦観の老いた眼つきの印象さえ、僕には感じられる。その「折れた靑芒」の揺れる彼方には、戦争のおどろおどろしい黒雲さえ見え隠れするではないか。
* * *
春雷はいつかやみたり夜著に更ふ
木下闇蜘蛛しろがねの糸ふけり
(「石楠」昭和19(1944)年)
* * *
この二句のシーンにいるのは、もう、間違いなく妖艶な大人の女である。
この前後から戦後の昭和21(1946)年1月迄の「石楠」に投句掲載された残りの十句は、その総てが第一句集『春雷』に採録されている。僕は、この二句を自選から外したしづ子の俳句への「覚悟」と「真摯」さに胸打たれる思いがする。「春雷」の句は恐らく、句集の題である「春雷」とのバランスの中で深考の末に削ったものと思われるが、後者は僕なら残す。「春雷」の中にあったなら、間違いなく僕は琴線句として選ぶ。それを削った彼女の「精進」を、僕は思うのである。
以上の7句と、そして句集『春雷』を合わせたものが、現在知られるしづ子の、『春雷』以前の全句作ということになる。
少年の去りゆけり夏骨の街 唯至
もの心ついてから七歳になるまで、角膜炎で目が見えなかったピアフ。売春宿を営んでいた祖母の元で、幼い彼女は、多くの出来事をその見えない目で見て来た。視力が回復した彼女は、大道芸人である父と共に旅をする。その後、父親と衝突した彼女は、ひとりパリの郊外でストリート・シンガーの道を歩き始める。やがて彼女は、ナイトクラブのオーナーであるルイ・ルプレーに見出されて彼の店で唄うようになる。シャンソン歌手、ピアフの誕生である。
歌姫は四七歳の若さでこの世を去る。だが恋と酒とモルヒネに冒された彼女のそれまでの人生のために、カトリック教会のミサの執行が許されなかった。しかしピアフのバックアップによって、シャンソン歌手として成功したひとりであるシャルル・アズナブールは語っている。
「第二次世界大戦後、パリの大通りを完全に停止させたのは、ピアフの葬儀の時だけだった」
と。ピアフの歌は、しづ子の俳句のように彼女の人生そのままであった。人々は、ピアフの人生に自分を重ねて彼女の歌に聴き惚れた。大衆は彼女の自由な生き方に共感した。しづ子の俳句もシャンソンのように読まれたのだろう。
(川村蘭太「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」 新潮社2011年1月刊 より)
*
――僕は本書を読みながら、この、僕も大好きな「感性のビブラート」シャルル・アズナブールのエディット・ピアフへの心の籠った絶賛のレクイエムの言葉を――ブログに書かずには居られない気に――なったのである……
……かのパリの時間を、哀悼の中で完全に静止させることの出来る芸術家は――やっぱり、僕がやっともの心つい頃にさえ、聴き惚れてしまった、あのピアフだけなのだ……
「新編鎌倉志卷之四」を全テクスト化し、注釈を完了した。
「新編鎌倉志卷之四」の残る部分の本文テクスト化を、先程、終了した。数項に注を付して完成である。
*
古來一句
無死無生
萬里雲盡
長江水淸
古來の一句
死も無く生も無し
萬里雲盡きて
長江水淸し
〇
秋を待たで
葛原(くづはら)はらに
消ゆる身の
露の恨みや
世に殘るらん
*
葛原ヶ岡の、文字通り露と消えた日野俊基の辞世である――
月前戀
君にわが
疎くなりにし
その日より
袖に親しき
月のかげかな
九條良經
ひと妻を美(は)しと思はば
もはやをとめごに心走らすこともなし
かかるときも軈(やが)て君にきたらむ、
かくいへる友の
さぶしき顏目にうかびたり
されどそはまことのひびきあり
ひとのもちものの
及びがたく艷(なま)めき
﨟(らふ)たげにうつくしく
花のなやめるごとき……。
ひと妻を戀はんとするを罪とがとする、
荒き掟(おきて)ある世は寂しきかな。
(「忘春詩集」より)
*
この「かくいへる友」とは……恐らく芥川龍之介である……
「新編鎌倉志卷之四」の海蔵寺の「開山源翁禪師傳」の本文テクスト化及び書き下しと、僕のマニアックな注を今日、丸一日かけて完成、今、公開した。ブラウザ上で見る限り、現在まで公開した分の、凡そ1/5強を、この「開山源翁禪師傳」が占めている。内容?――なんたってあの殺生石の、玄能の、玄翁和尚だぜ! つまらないはずがあるまいが!
一言――
面白いよ!――
カンペキにぶっ飛んでる!――
そこら辺に転がってる退屈な現代小説なんぞを読むより――
意味深神経症候群抜罰則側転仰天天罰覿面面罵罵詈雑言合コン荒唐無稽だ――
――お暇な方は、騙されたと思って――お読みあれかし!
朝寒や幹をはなるる竹の皮
後の世は
明日とも知らぬ
夢の中(うち)を
うつつ顏にも
明け暮らすかな
九條良經
「新編鎌倉志卷之四」は、海蔵寺の「開山源翁禪師傳」のテクスト化に突入した。久々の漢文長文、なかなかに手強そうだ。かの殺生石伝説の高僧とされる人物だ(但し、果たして本当にあのゴーストバスターと同一人物かどうかは実は不詳なのだが)――相手に不足は、ない。
「新編鎌倉志卷之四」を御前谷(ごぜんがやつ)・清凉寺谷(しょうりょうじがやつ)、海蔵寺の冒頭まで更新。右腕のリハビリで途中一時間程中断したが、朝の6時から午前中一杯、注に手古摺った。「御前谷」のような錯誤を生じている部分に注を附すのは、思いの外に時間がかかる。特に、現在、この谷戸名はあまり人口に膾炙していないから、自ずと自分で推理してみるしかない。しかし、そうした錯誤が何故生じたかが、調べるうちに分かってくるのは、推理小説を読む以上に、実に面白いものではある。
――怪物? バルンガは怪物ではない。神の警告だ。――
――君は洪水に竹槍で向かうかね? バルンガは自然現象だ。文明の天敵というべきか。こんな静かな朝は又となかったじゃあないか……この気狂いじみた都会も休息を欲している。ぐっすり眠って反省すべきこともあろう……――
*
万城目「皆さん、あきらめてはいけない。台風が近づいているんだ。きっとバルンガを吹き飛ばしてくれる」
――神だのみのたぐいだ――
由利子「(むっとして)病人を力づけるために云ってるんだから、いいじゃないの!」
――科学者は気休めは云えんのだよ――
――(急に強い眼の光りで)だが、たった一つ望みがある……(自分に)わしは風船を飛ばした時、なぜこれに気づかなかったのか?――
*
――(独白のように)間もなく、バルンガは宇宙へ帰る――
――生命にはいろんな形がある。バルンガは宇宙空間をさ迷い、恒星のエネルギーを喰う生命体なのだ。おそらく衛星ロケット・サタン一号が地球へ運んで来たのだろう。(自分に言い聞かせるように)二十年前には隕石にのってやって来た……――
――サタン一号には、私のせがれが乗っていた。いづれにしても、私には縁の深い怪物だったといえる――
*
――バルンガは太陽と一体になるのだよ。太陽がバルンガを食うのか。バルンガが太陽を食うのか……――
* * *
奈良丸博士……僕は……バルンガに……なることにしました……
シリル「金は!?」
アラン「あるさ! ポケット一杯、ね!」
*
……アラン……僕は「先生」……だけじゃない……贅沢にも……僕はね……「君」にもなることに……決めたんだ……だけど僕は自殺なんて「死んでも」選ばないよ……♪ふふふ♪……
嵐吹く
空に亂るゝ
雪の夜に
氷ぞむすぶ
夢はむすばず
九條良經
「新編鎌倉志卷之四」は「浄光明寺」に入った。僕の鎌倉の至高の仏像のベスト1は、ここの阿彌陀三尊像である。それも僕は三十数年も前にたった一人で、先々代の住職であられた大三輪龍卿師の御好意で悠々と拝観させて頂いたのであった。忘れられない思い出を「阿彌陀堂」の注に記しておいた。お読みあれ。
さびしさや
おもひよわると
月見れば
心のそらぞ
龝ふかくなる
九條良經
[やぶちゃん注:以下は、祖父藪野種雄の遺品である昭和七(一九三二)年紅玉同書店刊「啄木歌集」(「一握の砂」「悲しき玩具」所収)の中で、サイド・ラインが引かれたり、頭に〇や◎などの記号が附されてあるものを首巻から順に抽出したものである。底本のルビは一部の難訓を除き、排除した。]
*
□「一握の砂」より
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
たはむれに母を背負ひて
そのあまり輕きに泣きて
三歩あゆまず
わが抱く思想はすべて
金なきに因するごとし
秋の風吹く
學校の圖書庫(としよぐら)の裏の秋の草
黄なる花咲きし
今も名知らず
神有りと言ひ張る友を
説きふせし
かの路傍(みちばた)の栗の樹の下(した)
先んじて戀のあまさと
かなしさを知りし我なり
先んじて老ゆ
人ごみの中をわけ來る
わが友の
むかしながらの太き杖かな
そのむかし秀才の名の高かりし
友牢にあり
秋のかぜ吹く
絲切れし紙鳶(たこ)のごとくに
若き日の心かろくも
とびさりしかな
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聽きにゆく
やまひある獸のごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞けばおとなし
二日前に山の繪見しが
今朝になりて
にはかに戀しふるさとの山
かにかくに澁民村は戀しかり
おもひでの山
おもひでの川
わが庭の白き躑躅を
薄月の夜に
折りゆきしことな忘れそ
霧ふかき好摩の原の
停車場の
朝の蟲こそすずろなりけれ
汽車の窓
はるかに北にふるさとの山見え來れば
襟を正すも
ふるさとの土をわが踏めば
何がなしに足輕くなり
心重れり
三度ほど
汽車の窓よりながめたる町の名なども
したしかりけり
友われに飯を與へき
その友に背きし我の
性(さが)のかなしさ
あたらしき洋書の紙の
香をかぎて
一途に金を欲しと思ひしが
いくたびか死なむとしては
死なざりし
わが來しかたのをかしく悲し
呿呻(あくび)嚙み
夜汽車の窓に別れたる
別れが今は物足らぬかな
雨に濡れし夜汽車の窓に
映りたる
山間の町のともしびの色
雨つよく降る夜の汽車の
たえまなく雫流るる
窓硝子(まどガラス)かな
眞夜中の
倶知安(くちあん)驛に下りゆきし
女の鬢(びん)の古き痍(きず)あと
泣くがごと首ふるはせて
手の相を見せよといひし
易者もありき
いささかの錢借りてゆきし
わが友の
後姿の肩の雪かな
あをじろき頰に涙を光らせて
死をば語りき
若き商人
子を負ひて
雪の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな
忘れ來し煙草を思ふ
ゆけどゆけど
山なほ遠き雪の野の汽車
何事も思ふことなく
日一日
汽車のひびきに心まかせぬ
あはれかの國のはてにて
酒のみき
かなしみの滓(をり)を啜るごとくに
よごれたる足袋穿く時の
氣味わるき思ひに似たる
思出もあり
かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど
君に似し姿を街に見る時の
こころ躍りを
あはれと思へ
かの聲を最(も)一度聽かば
すつきりと
胸や霽(は)れむと今朝も思へる
みじみと
物うち語る友もあれ
君のことなど語り出でなむ
死ぬまでに一度會はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか
時として
君を思へば
安かりし心にはかに騷ぐかなしさ
わかれ來て年を重ねて
年ごとに戀しくなれる
君にしあるかな
古文書のなかに見いでし
よごれたる
吸取紙をなつかしむかな
春の街
見よげに書ける女名(をんなな)の
門札(かどふだ)などを讀みありくかな
かの旅の夜汽車の窓に
おもひたる
我がゆくすゑのかなしかりしかな
目をとぢて
口笛かすかに吹きてみぬ
寐られぬ夜の窓にもたれて
わが友は
今日も母なき子を負ひて
かの城址(しろあと)にさまよへるかな
夜おそく
つとめ先よりかへり來て
今死にしてふ兒を抱けるかな
死にし兒の
胸に注射の針を刺す
醫者の手もとにあつまる心
□「悲しき玩具」より
遊びに出て子供かへらず、
取り出して
走らせて見る玩具の機關車。
本を買ひたし、本を買ひたしと、
あてつけのつもりではなけれど、
妻に言ひてみる。
旅を思ふ夫の心!
叱り、泣く、妻子(つまこ)の心!
朝の食卓!
家を出て五町ばかりは、
用のある人のごとくに
歩いてみたれど――
うっとりと
本の插繪に眺め入り、
煙草の煙吹きかけてみる。
年明けてゆるめる心!
うっとりと
來し方をすべて忘れしごとし。
何となく、
今年はよい事あるごとし。
元日の朝、晴れて風無し。
ぢりぢりと、
蠟燭の燃えつくるごとく、
夜となりたる大晦日かな。
何となく明日はよき事あるごとく
思ふ心を
叱りて眠る。
何故かうかとなさけなくなり、
弱い心を何度も叱り、
金かりに行く。
どうかかうか、今月も無事に暮らしたりと、
外に慾もなき
晦日の晩かな。
「こがらしや
別れてもなほ
振りかへる」
そのひともいまはあらずよ。
どうせまけたはうんのつき
下駄を引きずりぼろを下げ
野道を行けば
はなをは切れてゆきとなる。
(詩集「逢ひぬれば」より)
――断っておくが、以下の画像は、この手のものが「ダメな人」は見ないがよい――
――それでもかつての僕の右橈骨遠位端骨折のイリザノフ創外固定器を装着した写真よりは、どうということはない気がするが――
――つい2時間前まで、僕の臓器であったものの画像である――
――さっき抜歯をした。右上4番の第一小臼歯である。歯周病が疑われていたが、実際には被せた金属の下で、歯が真っ二つに折れていたために化膿が繰り返されていたのだった。根の治療に用いた詰め物が妙に鮮烈な色を見せているのが人体模型の血管みたようでゾワゾワさせるじゃないか――
――僕は、あの橈骨の骨折の際も、失敗した一回目に使用したイリザノフ創外固定器を2度目の手術後にすべて貰って手元に置いてあるのだ――
――レントゲン写真に至っては、金を払ってコピーも買った――
――転んでもただ起きない――
――つもりだったな、あの時は――
――それらは前の学校で医療・看護系の補習に大いに役立ったもんだ――
――今回も、我がコレクションに加えるべく、しっかりと頂戴したというわけだ――
*
せっかくだから――もう一つお目にかけようか――
――僕の奇形臓器だ――
――今から十数年前、右7番の第二大臼歯を抜歯した(それ以前に金属を被せてあった)――
――当時の歯科医曰く――レントゲンでやや不審な点があり、副鼻腔炎の原因となる可能性がある――と指摘されたため抜歯を許諾したのだが――
――これがまた抜くのに1時間以上かかった――
――そうして抜いてみて――
――歯科医「こんなの、見たことがない!」――
――では、ご覧頂こう――
――大臼歯の側根は一般には四方が緩やかに内側に湾曲して、尖った形であるのは御存じだろう――
――ところが僕のは――
――一か所が外へ向かって大きく反っている
――まだまだ――
――その反った則根の右側の根と、そもそもその向こう側をご覧あれ――
――何だか――壁のような感じで――
――少しおかしくはないか?
――そうだ――
――これが反対側から見た根の様子だ――
――完全に癒着して鉈のような塊になっているのが見てとれる――
――上の写真は、最初の画像の右側を正面にして撮ったものである(右の物体は支えるための本の一部)――
――右の反りは視覚的に減衰するので何となく普通の大臼歯のように見えるのだが――
――ところがだ――
――これを反対側から映すと――
――二つの根が完全に癒着しているのが分かる――
――こういうのは歯科医用模型業者の精密根管模型のサイトによれば、遠心側根というらしい(学習用にこうした模型があるということは、必ずしもとびきり稀有の変異形態ではないようだ)――
――にしても、やっぱりゾワゾワする形だね――
*
――僕は魂、ばかりじゃあない――一本の歯に至るまで――奇形者なのだ――
「新編鎌倉志卷之四」は「英勝寺」に入った。画像ソフトを今一つ使いこなせず、やっとこさっとこ「英勝寺全図」を合成、公開した(今回は、見易さを配慮して、縦横二枚の同一画像を挿入してある)。詳しくは僕の注を見て頂きたいが、水戸光圀がこの英勝寺に深い思い入れがあったことは、その記載や図の細密性からも一目瞭然である。
恐らく
「少年」であればこそ
オイディプスであることを
「絶対に」許されるのさ――
そうして ところが
おぞましいこの文明社会に於いては
そういう輩はね
「絶対に」極刑に処せられるのだよ――
しかし お笑いだね XXという原型の奇形たるXYは
闘争と裏切りを完膚なきまでに積み重ねて
それでも奇形者として豪語する
誰も勝ち取れない女の「魂」を求めながら――
呪詛しながら――
おぞましくも 叫ぶのだ――
それでも私は――「男」は――完全だと……
だからこそ 奴らは言うのだ
――「猥雑なるがゆえの処罰」――とね――
*
さても……「夜の果ての旅」も……もう終わり……旅も……祭りも……もう……終わった……
僕は走って
母さんに
追いつこうとするのだけれど
――でも――
母さんは やっぱり 僕の ずっと 向こうにいて
微笑んだまま
遙かな
芹の水茎の彼方へ 消えてゆく……
僕は 下手な 口笛を 精一杯 吹くだけ……
僕はもう3年も前から、職場に尊敬できる(新たなインスピレーションを与えてくれる)先師や同僚を見出し得ない。
それだけで僕は仕事を続けていく意味を感じていない。
尊敬すべき人間のいない世界に進歩はない。
いや――とりわけて若い教師にこそ、そんな人はいるのかも知れない。
それを見分ける力さえ失っている僕は――
それだけで――この教師の世界に於いては、致命的なのだ――
ブログ320000アクセス記念として能「道成寺」の台本形式オリジナル・テクスト及び同縦書版をトップ・ページに公開した。「道成寺」の謡曲本のベタ・テクストや梗概を詳細に記したものは、ネット上に既に、ある。しかし、その舞台を通観してシナリオ化したものは、僕の管見した限りでは、ない。
――これは僕と教え子の二人だけの帰らぬ憧憬である――
――永遠の少年期は戻っては、来ない――
――しかし、二度と繰り返すことが出来ない故に、それは確かな記憶のプエル・エテルヌス(永遠の少年)であり続けることが可能となるのである――
*
なお――ここで僕は献呈した教え子のフル・ネームを記すとともに、僕の本名をも記した――
これは僕の確信犯だ――
僕はもう、この匿名の欺瞞的世界に、反吐が出るほどに飽き飽きしているのだ――
*
母を失った男というものは「永遠のスティグマ(聖痕)を受けた永遠の少年」という「刑罰」に処せられるのかも知れない――
歩こう、預言者――
本日15:56:44に
Blog鬼火~日々の迷走: 耳嚢 巻之三 擬物志を失ひし事
を読みに来た、英語をパソコンの言語に設定しているあなたが、
2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、
320000アクセスでした。
これより記念テクスト公開作業に入ります。
雨と青臭い曼珠沙華の匂いがして
僕は僕の黴臭い玄室の扉を鎖じかけた
すると その軋んだいやな音とともに
僕の親しい死者たちが悉く蘇る
干乾びた 柳の枝に串刺しの
早贄の蛙が
一声 高く
啼いた――
「新編鎌倉志卷之四」のテクスト化に着手した。
おのづから睡眠(ねぶり)さめ來るたまゆらはまだほのぼのし童(わらはべ)ごころ
「鎌倉攬勝考卷之六」は昨日から今日にかけて、偶然に若き日の僕が好んで出かけた秘密のスポット(勿論、今では知られてしまったが)が二箇所、登場する。一つは材木座海岸近く、「こゝろ」の先生の避暑地も近い、光明寺裏の内藤家墓所、もう一つは扇ヶ谷の薬王寺裏のやぐらの風化した四菩薩像――この秋、訪れてご覧なさい、決して失望はさせないよ――
*
但し、前者は今や寺で鍵を(それも複数の)借りないと入れず、後者も柵が出来て直近には寄れなくなっている。しかし僕が「奇形の棄景」と感じた雰囲気は今でも残っているはずである――
*
巻六も残すところ、海蔵寺・光則寺・極楽寺の三つのみ。
翅(つばさ)のおとを聽かんとして 水鏡(みづかがみ)する 喪心(さうしん)の あゆみゆく薔薇
毎日新聞 2011年9月23日 地方版 (下線部・太字やぶちゃん)
石川・志賀原発:北陸電力、原子力安全信頼会議設置――来月1日/福井
◇社外から意見を
北陸電力(本店・富山市)は、志賀原発(石川県志賀町)の安全やコンプライアンス確保に関する取り組みなどについて社外からの意見を取り入れる「原子力安全信頼会議」を10月1日付で設置すると発表した。同会議委員には大橋弘忠・東京大学院教授や菱沼捷二・石川県経営者協会長ら7人が就任する。(以下略)
*
今日だゼ……さて……先般のプルトニウム・カクテルはえらく評判が悪かったからな……充分にダンマリ厚顔頬被りして発酵熟成メルトダウンしただろうから……今度の新原子力レシピは楽しみだゼ……セシウムをアマエビやバイガイにまぶした美味しい食べ方でも享受するおつもりか?……お手並み、基、お面の皮厚み、拝見と致そうじゃあ、ねえか!
默禱の禁忌のなかにさきいでる 形(かたち)なき蒼白の 法體(ほつたい)の薔薇の花。
夢幻(ゆめまぼろし)秋櫻(コスモス)混沌(カオス)母逝けり 唯至
「鎌倉攬勝考卷之六」を補陀落寺まで更新した。気が付いてみたら、恐らく今までの中では最速のスピードでテクスト化をしている。
植田の叙述の補陀落寺の書状の誤りを「鎌倉市史 資料編第一」で校訂した。
――これ、教員になった22歳の秋にボーナスで大枚叩いて買った再版セットだが……
――実に購入32年目にして……この「資料編第一」が役に立ったのだ!
――僕は何という……「迂遠な実際家」であったことか!
……「先生」……僕も、もうじき……「先生」になります……
「鎌倉攬勝考卷之六」は光明寺に入った。
図として付された4枚の内の1枚の額について、僕の推論と判読を試みた。識者の御教授を乞う。