鈴木しづ子 三十二歳 昭和26(1951)年9月5日附句稿24句から3句及び「樹海」昭和26(1951)年10月号の発表句から6句
凍蝶に蹤きて日陰を出でにけり
霧の洋復るなくして流るべし
袞々と國土へだつる霧の洋
「樹海」昭和26(1951)年10月号には9句が載る。僕の琴線句前二句が揚がっている。奇妙なのは「霧の洋」が、
霧の洋復るなくして渡るべきか
となっている点で、これは巨湫の朱とは考えにくい。心情が全く異なるからである。これはリアルな人事句で、「復るなくして渡るべきか」は、もう日本には帰らない覚悟で、彼(恋人のGI)の祖国アメリカへ渡るべきか、というしづ子の『強い近未来への逡巡』を言う。しかし「流るべし」は、逡巡を超えて――渡る、だけじゃないんだ、そこからまた流れて行かなくちゃならないかも知れない、いいえ、それも私なんだわ――という『既に決した未来を透徹した覚悟』の謂いである。しづ子の詩語としての助動詞「べし」はそれほど確定的な意思を示す。私は断然、「流るべし」を採る。
なお、「樹海」には、
靑蘆の天かがよへり情死もよく
渦卷く爐火白ばくるること狎らされたり
をんな中かるたの男を輕蔑す
の三句が最後に載るが、これは24句稿には入っていない(「爐火」は「ろくわ(ろか)」と読む)。これも実際にはこの句稿は25句以上あったことを示唆するものである。先の「霧の洋復るなくして渡るべきか」というのはその中にあった可能性が考えられる。その場合、現存句稿の後ろだけではなく、中間部も散佚したものと考えられる。現存句稿と比べるとこの前後の句稿がちゃんと残っており、順に「樹海」に掲載されているからである。
「凍蝶に蹤きて日陰を出でにけり」は、直接には橋本多佳子の昭和二十六年六月一日発行の句集『紅絲』冒頭を飾る「凍蝶抄」の、
凍蝶に指ふるゝまでちかづきぬ
等のインスパイアに見えるが、私は実はこの多佳子の句自体が杉田久女の、
蝶追うて春山深く迷ひけり
のインスパイアであると思っている。それは久女の句としづ子を並べて見たときにはっきりする。
蝶追うて春山深く迷ひけり
凍蝶に蹤きて日陰を出でにけり
それは正しい本歌取りで、久女の原句が古い総天然色の画像なら、しづ子のそれはエッジの鋭いモノクロームなのである。しづ子は多佳子の本歌取りを見破り、しづ子流のそれをしてみせたのである。
「霧の洋復るなくして流るべし」「袞々と國土へだつる霧の洋」の二句は、一読、山口誓子の名吟「海に出て木枯歸るところなし」を連想させる(「洋」は「うみ」と読ませるのであろう)。これらに寺山修司の、
凍蝶とぶ祖國悲しき海のそと
や、有名な
、
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖國はありや
を並べてみると、寺山の薄っぺらさが際立つ。しかし、その気障さ加減が、「しづ子」伝説と同じで、寺山の虚数的魅力でもある。私は寺山が好きである。私も彼と同じように何処かで魂の剽窃ばかりの人生だからである。
最後に。最後の「かるた」の句について少し補足する。若い読者には理解し難いと思われるが、かるたというのは近代に於いては数少ない男女の直接的な人体接触を含んだ危うい交流の場であったことを認識しておく必要がある。それを知らないとこの句をまたぞろ「しづ子」伝説で曲解する羽目に陥る。以下は私の「こゝろ」の「先生の遺書 八十九」に附した注の一部である(殆どが引用である)。
OCTOPUS氏のHPにある「競技かるたのページ」の論文から一部を引用する。『十畳の客間と八畳の中の間とを打抜きて、広間の十個処に真鍮の燭台を据ゑ、五十目掛の蝋燭は沖の漁火の如く燃えたるに、間毎の天井に白銀鍍の空気ラムプを点したれば、四辺は真昼より明に、人顔も眩きまでに輝き遍れり。三十人に余んぬる若き男女は二分に輪作りて、今を盛と歌留多遊びを為るなりけり。(*1)』〔『*1 尾崎紅葉「金色夜叉」(昭和44年11月新潮文庫)より引用』という注記記載がある〕。『尾崎紅葉(1868~1903)のベストセラー小説「金色夜叉」(明治30~35 年連載、未完)の中には明治当時のかるた会の模様が述べられている。娯楽の少なかった当時、かるたというのは格好の男女の出会いの場であったと想像される。実際、後のクイーン渡辺令恵の祖父母も、昭和5(1930)年頃ではあるが、かるたが縁で出会ったとのことである(*2)』〔『*2 渡辺令恵「競技かるたの魅力」(「百人一首の文化史」平成10年12月すずさわ書店)』という注記記載がある〕。『当時のかるたの試合は、今日で言う所のちらし取り、あるいは2組に分かれての源平戦が主流であった。「金色夜叉」に描かれたかるたの試合は、どうやらちらし取りであったように思われる』(以上は同HP内の「3.競技かるたの夜明け」の冒頭「かるた会のあけぼの」より引用)。『黒岩涙香が開催した明治37(1904)年の第1回かるた大会の案内には「男女御誘合」とあり(*1)、当初かるた会は女性に大きく門戸を開いていた。だが、男尊女卑の傾向が著しかった時代で』あったため、明治41・42(1908・1909)年頃に至って『かるたが世間に認知されるようになると、男女が交わって競技を行なう点が非難の的となる。「若い男女が入り乱れになつて、手と手を重ねたり、引手繰事(ひったくりっこ)をしたり、口の利き様もお互ひに慣れ慣れしくなり作法も乱れて居る」(*2)と、山脇房子は明治42(1909)年1月に指摘している。「今の若い男女は平常は隔てられて居て、いざかるたとでもなると、又極端に走りますからいけない」と、山脇は「風俗上衛生上の害を避ける為め」にテーブルの上での競技をも提案している。またその一方で、「相手が女では、バカバカしくて本気になって取れン」(*3)であるとか、「荒くれ男を向ふに廻して戦を挑むような女は嫌ひだ」「婦人は須らく男子に柔順で、繊弱優雅なるを愛する」(*4)などといった男性選手の言い分もあった。その結果、黒岩涙香としては当初の「平等意思」(*5)に反するとしながらも、東京かるた会は明治41(1908)年2月、傘下の各会と同盟規約を結ぶこととなる。その内容は「同盟各会の会員は勿論東京かるた会の出席者は素行不良ならざる男子たること」「同盟各会其他競技席上には婦人及素行不良と認めらるる男子の入場を拒絶すること」(*6)といったもので、これにより明治42(1909)年2月の5周年大会以降女流選手の大会参加は認められなくなる』。『しかし、完全に女性が閉め出されていたかというと、そうではなく、仙台では女流大会が開催されており、昭和2(1927)年の第1回大会では藤原勝子が優勝している。東京や山梨、筑波などでも同様の大会が開かれている(*7)』とある。因みに『かるた会が再び女流選手に門戸を開いたのは昭和9(1934)年1月5日の第22回全国大会からであった』(以下略。以上の引用部の注記は以下の通り。『*1 「萬朝報」明治37年2月11日』・『*2 山脇房子「風紀上より見たる歌留多遊び」(明治42年1月「婦人画報」)以下引用は同記事』・『*3 「朝日新聞」昭和30年1月5日「女のはな息」』・『*4*8 「かるた界 第8巻第2号」昭和9年12月 東京かるた会』・『*5*6 東京かるた会編「かるたの話(かるた大観)」(大正14年12月 東京図案印刷)』・『*7 「かるたチャンピオン 95年のあゆみ」平成11年1月 全日本かるた協会』。以上は同HP内の「5.かるた黄金時代」の「女流選手のあゆみ」より引用)。ここで明治四十年代初頭に公的なかるた会が『男女が交わって競技を行なう点が非難の的とな』ったこと自体が、実はそれ以前、男女の手が触れあたりする私的な男女の正月のかるた取りが、密やかにそうした男女の交感の場でもあったことを図らずも物語っていると言えよう。