鈴木しづ子 29歳 昭和23(1948)年から 24句
昭和23(1948)年の発表句は総数93句、そのうち句集『指環』に採録されたものが39句に及び、それを除くと53句となる。この年は「しづ子」伝説元年であると言える。
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婚約
婚約や白萩の花咲きつゞき
月光の濱に足跡つけずゆく
秋薔薇署名おこなふ布の端し
秋燈悲し愛情の片鱗さへみえず
秋蛾堕つ初戀の男慕はしからず
(「樹海」昭和23(1948)年1月号)
表記はすべてママ(「燈」「戀」)。川村蘭太「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の巻末略年譜にようれば、しづ子はこの年の12月に当時彼女が勤務していた東芝車輛の「関」姓の同僚男性と結納を交わしているが、早くも翌年にはこの男との結婚生活を解消、とある。しかし、この「婚約」を標題とする五句連作の「婚約」相手は「関」なる人物であるとは思われない。この「婚約」とは後掲する「雪崩」句群の冒頭の「この夜ひそかに結婚す」という謂いと同じく、愛する男に身を捧げたことを意味していよう。問題なのは、その愛情が早回しの映画のように、たった五句の中で急激な右肩下がりを示すということである。これらは前年の秋の一連の出来事と考えてよいようだが、不思議な転落の詩集ではないか。川村氏の探求によって、このしづ子の愛した人物は、池田政夫という「樹海」同人、しづ子より五歳年下の東京商科大学(現一橋大学)学生であったことが分かっている。
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欲るこころ手袋の指黑に觸るる
(「樹海」昭和23(1948)年3月号)
「黒」は「黑」としたが、「觸」はママ。かのスキャンダルを産んだ句は、その登場からして不幸であった。表記の通り、とんでもない誤植で始まった。勿論、これは
欲るこころ手袋の指器に觸るる
であるが、川村氏によれば、その正誤表示さえなされずに、突如、翌四月号「樹海」誌上で、主宰にして彼女の師である松村巨湫の選評の中で、誤植を言わずに「器に觸るる」として評されることとなる。「樹海」の主要同人の中では早期にその誤植が認知されていたもののようではあるが、一瞥の「黑」は強烈である。それが「器」と訂されたとしても、見てしまった人々にとって、その「器」はまがまがしい「黑い器」なのであった。僕はこの句について語ることを欲しない。いまわしいまでのこの句への波状的な誤解の洪水が、俳人鈴木しづ子の運命を否応なく数奇に向けて変質させてしまった。それは全く以て彼女の責任ではない。――後のしづ子がその張られたレッテルを、逆に強力な武器として使用したことは、完全な正当行為であり、それを本末転倒に指弾したり、阿呆臭い道徳的な説教でもって批判するなどということは許されないのだ。――涎を垂らした自称俳人ニンフォマニアどもの、見当違いの恣意的な曲解誤読の堆積の山が総ての元凶である。それは僕には、京大俳句事件で特高がやった、とんでもなく滑稽なイデオロギー的牽強付会誤釈なんぞより、遥かに致命的で罪深いものであったとさえ言えると考えている。
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對決
ダンサーになろか凍夜の驛間歩く
霙るる槇最後のおもひ逢ひにゆく
春近し親しくなりて名を呼び合ふ
春火桶甘へし聲に吾がおどろく
對決やじんじん昇る器の蒸氣
(「樹海」昭和23(1948)年4月号)
本「對決」句群全五句の内、「ダンサーになろか」「霙るる槇」「對決や」は『指環』に所収されるが、これは五枚の組み映像、急緩急、薬缶がじんじんと蒸気を噴き上げる「對決」のカタストロフへ至る一つのストーリーを形成していると言ってよい。これは五句セットで読まれるべきものである。初句がしづ子の著名句として知られるが、私は最終句がいっとう好きだ。「器」の用字は先の邪読スカベンジャーどもへ投げ与えた、しづ子の軽蔑に満ちた一擲の腐肉である。
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雪崩
山の殘雪この夜ひそかに結婚す
雪崩るるとくちづけのまなこしづかに閉づ
山はひそかに雪ふらせゐる懺悔かな
春雪の不貞の面て擲ち給へ
けんらんと燈しみだるる泪冷ゆ
(「樹海」昭和23(1948)年5月号)
これは、日野草城が昭和九(一九三四)年の『俳句研究』に発表した、自身の新婚初夜の連作「ミヤコホテル」のインスパイアであるが、雪山のロケーションが音を吸収し、静謐にして遥かに広がる純白の山小屋の窓外景、室内の映像はタルコフスキイの「鏡」のように素晴らしい。これも最後の三句が『指環』に採られているが、これもやはり五句セットで初めて真の心情が伝わる組句である。時期的に見ても前年冬か初春、愛人池田政夫との体験に基づくものであろう。しづ子がこの冒頭二句を『指環』から外したのは、『指環』刊行時には、既にこの時のリアルな映像を出来ることなら忘れたいと感じていたから、かも知れない。
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好きなものは玻璃薔薇雨驛指春雷
(「樹海」昭和23(1948)年6月号)
標題「好きなものは」の五句の掉尾。「驛」はママ。しづ子の句としては最も人口に膾炙しているものの一つ。尾崎放哉の「咳をしても一人」と同じで、後にも先にもやった者ののみが正当な唯一の「作家」であり、唯一の「作品」で有り続ける見本である。玻璃――薔薇――雨――驛――指――春雷――その個別な象徴関係を精神分析することも、有機的綜合解釈をすることも――総てはしづ子から皮肉な笑みを返されるだけである。なお、この号にはもう一つ「道程」という十句句群があるが、この句群は「懷疑」「戀の淸算」「戀夫」「浮氣男」「死の肯定」「肉感」「情痴」といった伝統的俳句用語から大胆に外れた語句を意識的に散りばめた野心作乍ら、十句全部を総覧すると明白な作為が見え透いてしまい、その結果、一句の重みが不可避的に著しく減じられ、いずれにも等価な瑕疵が感じられてしまう(逆に言えばそれぞれを単独で鑑賞した際には違った印象を与えるかも知れないということではある)。
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ほろろ山吹婚約者を持ちながらひとを愛してしまつた
(「樹海」昭和23(1948)年7月号)
この号の発表句は「意識」という標題の十一句であるが、内、八句を『指環』に採っている。採られなかった一句がこれで、しづ子にしては珍しい自由律であるから当然の落選である。直前が、
紫雲英(げんげ)摘みたりあなたの胸に投げようか
であるが、それでも初句字余りの範囲内であり、本句は句群にあって形式も詩想も極端に外れている感じがする。しかし、だからこそここで採りたくもなるのである。僕はもともと自由律から俳句に入ったから、こうした句形に全く抵抗感がないのである。
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薔薇の夜や深く剪りたる指の爪
(「樹海」昭和23(1948)年7月号)
前句と同じく『指環』に採られなかった、もう一句なのであるが、これをしづ子が採らなかったことが意外である。僕にはこれは如何にもしづ子らしい句であり、如何にも『指環』の世界に相応しい句であると思うのだが。……いや、余りにも隙がないほどにぴったりし過ぎた、あたかも予定調和のようなものを感じさせるところこそが、しづ子の癇に障ったのかも、知れないな……
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まぐはひのしづかなるあめ居とりまく
(「樹海」昭和23(1948)年8月号)
遂に確信犯の、勝手に造られた「しづ子」像を逆手にした、しづ子の俳壇への復讐が始まる。総表題は「過程」で十句。『指環』に採録。しかし、何と美しい句であろう。そもそも「まぐはふ」という古語自体、愛する者同士が「目交はふ」で、目を見つめ合うことを語源とする。単漢字の「居」が――あたかもイサナキとイサナミが廻った「天の御柱」のように句を求心的に「とりまく」――そしてしづ子は男と「しづかなる」「目交はひ」の中にいる――この歌、僕にとっては永遠に神聖で美しい――
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裸か身や股の血脈あをく引き
(「樹海」昭和23(1948)年8月号)
前句と同じ「過程」の一句。『指環』に採録。誘惑的な確信犯にも見えるが(「引き」という能動態がそれを更に刺激する)、僕には、エロス以前に、大腿部内股のクロース・アップと浮いた真っ蒼な静脈の、マッド・サイエンティストの手術のような(と言ってしまえば実はサディズムのエロスのシンボルとなってしまうのだが)慄っとする青ざめたモノクロームの美を見る。――しづ子版「アンダルシアの犬」――主演もしづ子自身――なお、「過程」句群の他の句は(底本を読んで頂きたいが)、
山吹散る二度目の女ではわたしは厭だ
という直情径行以外は比較的抑制された句柄であって、この二句から敷衍想像されるような強烈なものではないことを附言しておく。
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花柘榴左肋膜病にけり
(「樹海」昭和23(1948)年9月号)
しづ子に肺結核の兆候があった可能性を示唆する一句である。
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風鈴や果してわれは父の子か
(「樹海」昭和23(1948)年11月号)
しづ子が深く思慕した母綾子は昭和21(1946)年5月15日に亡くなっているが、この句は、さんざん綾子を苦しめた父俊雄が正にこの昭和23(1948)年11月に、母綾子の生前から関係があった女性と再婚することへの、強烈な抵抗感に基づく呪詛の句である。
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