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2011/10/31

鈴木しづ子 三十二歳 昭和26(1951)年9月28日附句稿105句から28句及び「樹海」昭和26(1951)年12月号の発表句全7句

105句の大量句稿から見る。これは青春の回想吟であり、それはあたかも時系列に沿って創られ、並べられたかのようにシークエンスが編集されている。最初の11句は纏めて採る。

彈き初めの翏を競へり戀きそふ
獲し戀ぞ花の鷄頭艶然と
翏と戀競ひしことぞ掌の胡桃
野分の葉うばひし戀のつまらなく

この「翏」は不審。これは「琴」ではあるまいか? 「獲し戀ぞ」の「鷄」は川村氏によって補われたもの。原句は「獲し戀ぞ花の頭艶然と」であるらしい。

情識りぬ旅の山肌明け易く
蹤きゆきし十九の夏の旅初め
蟬はげし馴初めの得ざりし男の手
蟬はげし夫ならぬ手を識りゐしこと
祕めごとや額の汗の美しく
祕めごとの知る人ぞなし葉鷄頭
蟬は樹に吾が手與へし人ぞ亡し
稻田燈蒼し人亡しと思へばなほ

「祕めごとの知る人ぞなし葉鷄頭」も原句は「祕めごとの知る人ぞなし葉頭」であるらしい。川村氏の補った「葉鷄頭」で採った。ここまでの句群を一連のものとすれば、彼を奪い得た数え「十九の夏」というは、しづ子が後に戦死する許嫁と出逢った頃に同定されているのに一致する。最後の句では既に彼は死んでいる。やはりこの「男」は彼であろう。この後には黒人の恋人との海水浴の4句がある。

木枯や胸乳隆くして獨り

この前にも自分の豊かな胸を謳う三句あるが、その
乳ゆたかなれど孤獨や木枯しに
の推敲稿である。

ちちははの戀の生れ處や曼珠沙華

しづ子の父俊雄と母綾子は従妹同士であった。因みに僕の両親も従妹同士である。

いなづまに長女と生まれてまづはよし
いなづまに早世の次女の貌忘る
いなづまにもつともすこやかなる三女
天の河つねに悲戀は姉娘
學びけり少女の心いつぱいに

しづ子、本名鈴木鎭子は大正8(1919)年6月9日東京市神田区三河町で父鈴木俊雄・母綾子の長女として生まれた。彼女の誕生からのコマ落としの5句連作。初句の「いなづまに」と「まづは」の言辞の持つ意味は、川村蘭太「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の64ページに明晰に語られている。「もつとも」は底本「もっとも」、同じく「いつぱい」も「いっぱい」。

稻妻に父憶ふとき汚れけり
つねの世も女人は哀し曼珠沙華
稻妻や母のわだちぞ踏むまじく

以前に記したが、さんざん綾子を苦しめた父俊雄は昭和23(1948)年11月に母綾子の生前から関係があった女性と再婚した。第一句のような強烈な抵抗感に基づく呪詛句がこの前に6句ほどある。この昭和26(1951)年の冬には、しづ子は昭和21(1946)年5月に亡くなっている母綾子の墓を愛知県犬山市の寺に、新たに建立している。

蟬のこゑもつとも高し滅びる前

「もつとも」「滅びる」はママ。

降る雪やわがをとこ名のむかしの詩

川村氏の「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の『幻の詩句集「小径」』で推理のキーとなった句。

雜草に紙片吹き寄る空工場

しづ子の、プロレタリア俳句への答えという感じがする。

稻妻に希ひし破婚爲しにけり

僕は以前、関との離婚は昭和24(1949)年3月とした。この句は「稻妻」で秋である。しかし、矛盾しない。「稻妻に希ひし」で過去形であってそれは寒雷でも春雷でもよいのであり、そもそも先行句を見れば一目瞭然、「稻妻」は彼女にとって季語である以上に、彼女の人生の時空間を支配する哲学的な詩語なのである。しづ子は季語に縛られていないのである。

逝く夏の葉分けの風のゆくえかな

巧まぬ佳品である。風の囁きが聴こえる――

うつせみや吾が手與へし人失せて  ×   ①
大阪へ五時間で着く晩夏かな      〇5指⑥
新涼の喫泉小さくあふるる驛       ×
木枯や胸乳隆くして獨り           〇1  ②
雪こんこん死びとの如き男の手     〇2指③
そだちつつ颱風ちかよりつつあると  〇3  ④
刻すでに颱風圏内花黄なり        〇4  ⑤

以上が「樹海」昭和26(1951)年12月号の発表句全7句である。下に附した記号は、「〇」が昭和26(1951)年9月28日附句稿105句に所収する句、「×」は所収しない句である。「〇」の下の番号は句稿の方で、早く現れる順に番号を振った(今までの句稿は順序に狂いがないが、ここでは大きく食い違うのが気になる)。この内、『指環』に採られた句にはその下に「指」を附した。「うつせみや吾が手與へし人失せて」は明らかに「蟬は樹に吾が手與へし人ぞ亡し」の句の別稿である。巨湫の朱が入ったものとも思われるし、「新涼の」の明らかな句稿喪失からも、例によって句稿の複数脱落の可能性も疑われる。但し、感触的にはここは巨湫の朱という感じが強い。だとすればと仮定した上で一番下に句稿の方で早く現れる順に〇付の番号を振った(やっぱりこの句順は不思議である)。なお、この「木枯や」の句の左には、川村氏の『※巨湫の句か?』という注が附されているが、不審。上で見た通り、句稿にもこの句は入っている。また、この掲載句に言及した「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」306ページでも、この不思議な注について言及されていない。

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