僕の夢
骨髄カリエスを幼少の頃患った僕は、長く
医者
になりたかった。しかし、数学がからっきしだめな僕は中学二年頃に、それを捨てた。その頃、国語の授業で尾崎放哉に出逢った。俳句に惹かれたが、それで身を立てるのは愚劣だと思った。当時の僕には、画家になりたくてなれなかった父を見ていたから、芸術は押しなべて非生産的なものであった(正直言えば、だから惹かれた)。それでもシュールレアリストの父の書棚からフロイトの「夢判断」を盗み読んで、医者がだめなら
心理学者
だと思った。その危ない世界の繋がりで、高校時代、人の心を詮索するのが好きになった危うい僕は、演劇部に入り、そこで
役者
になろうかと本気で思った。高校二年の時の地区大会で審査員の演劇人に「藪野君、君はいい!」と言われたのも手伝った。だが、役者は体力勝負だと知った。僕はカリエスの前歴もあって、運動神経0、如何なるスポーツも楽しいと思ったことはない。役者はあきらめざるを得なかった。かけもちの生物部では、小学生の頃からの海洋生物を扱う学問にも惹かれた。
水族館館員
は憧れだった(今もそれは変わらない)。しかし数学がネックだった。理系は諦めざるを得なかった。だからやっぱり心理学でいこうと思った。大学は殆ど心理学科を選んだ。美事にすべて落ちた。滑り止めの、好きな「文学」で引っかかっただけだった。浪人せずに國學院大學に進んだ。そこでお笑い草にも
小説家
になろうかという夢想を持ったこともあった。しかし大学二年の時、応募した「すばる文学賞」に予選落ちし(いや、今考えれば如何にもな糞下劣な小説であった)、自分が波乱万丈のプロットを形成出来るような才能に乏しいことを自覚した。残ったのは、
国語教師
だった。そうしてそれになった。以後、三十数年間それを続けている。
向後に、改行をするような新しい自己実現も夢も、最早、ない。職業としての新たな展望など、僕には、ない。しかし僕は
野人
になる夢が残されていることを自覚した。「在野人」ではない。真の「野人」――イエティだ――僕はそこで何が出来るか――僕にしか出来ないことはありそうだ――僕は、金にならないことなら、やりたいことがゴマンとあるんだ――それは確かだ――だから――さようなら――と決めた……これが僕の……人生の最後の我儘、なのである……
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