フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »

2011/11/30

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月二十四日附句稿二百十九句より(2) 十句

 目つむれば琴の六段指はじき

 琴憶ふ雪つむ宵に在りにけり

 花桃や琴絲支ふ指ぞ伸べ

 琴爪や彈きやみ温みかよひつつ

 琴千鳥彈きやみ明りせつなけれ

 歳月は還るよしなし琴の爪

 雪の日の琴絲支ふ指の先

 琴絲支ふ指ぞ切るほどむかし琴

 經だつれど身に添ふわざぞ琴六段

 琴句群二つを接合した。しづ子は若き日に琴を習い、得意としたことは先の昭和二十六(一九五一)年九月二十八日附句稿百五句の冒頭四句からも明らかである。箏曲にあって六段(伝八橋検校作)は、六段に始まり六段に終わると言われる基礎にして完成の域をも示す重要な曲である。二世吉沢検校作の千鳥の曲は六段に並ぶ古箏曲の名曲とされ、古雅と斬新な内容を併せ持つエポック・メーキングな名作である。尚且つ、通常は歌を歌い、尺八と合奏する曲である(妻に聞いた。私の妻は四歳から琴を弾くプロである)。ここでのしづ子の謂いには、ダンサーとなった今でも、琴を弾ける自分に対する強い矜持があることが窺がわれる。しかもこれは回想吟とは思われず、直近の何かの機会に琴を弾いているのである。この場が私には興味をそそるのである。因みにこの冒頭々の前には、

 早春の奈良線に人あふれけり

とある。これがこれらの琴の句と無縁ではないように私には思われる。「千鳥」は普通、独奏しないのである。しづ子と奈良と琴――そして尺八の伴奏者――ここに私はしづ子の失踪の謎を解く鍵が隠されているようにも思えるのである。

2011/11/29

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月二十四日附句稿二百十九句より(1) 六句

 昃ろへば蝶翔たしむる玻璃の柵

 いづれ指觸るるにあらず蝶は翔ち

 蝶の軀の入いるにやすく玻璃のひま

 玻璃透きて蝶は遠のくばかりなり

 蝶翔ちて指とどかするすべもなし

 ガラス窓にうっかり囚われた迷い来った蝶は、やさしいしづ子の手で自由を得て翔んでゆく――その自分のような蝶に、しづ子は、少しだけ触れてみたかった……でも……

 激つ浪憶ひは距つばかりなり

その魂のディスタンスは――恋の不在を――厭がおうにも、しづ子に思い出させるのであった――

古来、蝶は人の魂であった……

新編鎌倉志卷之六 満福寺 腰越状下書 完全テクスト化 附「腰越状」画像 + 秘やかな青春の日の告白

「新編鎌倉志卷之六」を満福寺まで更新した。三日かかった労作だ。特に「腰越状下書」の完全テクスト化はネット上では初と自負する。詳細な異同も示した。

――最後に

――僕の遠き日の青春の熱かった夏の日も

――忘れずに

――ね……

2011/11/28

大谷亘先生悼

大谷亘先生――先生は私が教師になって最初に尊敬し、かくありたいと羨んだ、初めての数少ない「先生」らしい「先生」でした――先生の死は、正に「師の死」の象徴ではありませんか――師なき教育も教師も――最早、「死」そのものなのです――先生の、豪快な笑いと終始愛妻家であったあなたに

“Here's looking at you, kid!”
――君の瞳に乾杯!

御冥福をお祈り致します。

かつての柏陽の教え子諸君へ。

たった今、大谷先生の訃報に接した。

どうか、心よりの哀悼を捧げられたい――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月二十四日附句稿百十句より 三句

 三月ある日句數二百と詠ひつつ

 川村氏も指摘されているが、しづ子は矢数俳諧を意識しているようには見える。見えるが――しかし、やっぱり、いいや、そうじゃない! 西鶴のやらかしたそれは愚劣な橋下と同じく俳諧の政治的独擅場へ躍り出るためでしかなかったが、しづ子のそれは、師松村巨湫への公案の機銃掃射としてであって、何らの名声が意識されていない点に於いて、矢数俳諧を超えて、我々を迎撃するのだ。尾崎放哉も井原西鶴も顔色無し、だ。何故なら、それは最早、消閑の具としての俳句を超越しているからである。西欧的近代的個人? 糞喰らえ! このしづ子の糞は、鋼鉄のカチ糞として我々の脳天を――確実に一気に――打ち破る!

   *

 囀りや床の面に撒く石鹼水

 私はフロイトを小学生の時から愛読したとんでもない汎性論の影響下にあった人間である。例えばこれを精神分析学的に解釈したい気持ちを抑えられないと同時に、しかし今、その分析をも総て私は無効にするであろうことも確実である。而してこの映像はタルコフスキイのワン・シークエンスである。タルコフスキイもフロイトを認めない。私もこの年になって、フロイトよりもユング、いや、ユングなんぞの怪しげな似非神秘主義も超えて芥川龍之介の「杜子春」の鐵冠子に惹かれていると言おう――「さえづりやゆかのもにまくせつけんすゐ」――これはもう、タルコフスキイの撮った神聖な映像――そのものではないか――

   *

 槻芽立つ師とかよはするふみぞもち

 「槻(つき)」は欅を指し、しづ子の大好きな詩語である。この句こそ、多量の修行の如き句稿の確信犯の真理を現前させている――と私は思う。

2011/11/27

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月二十日附句稿百十句より 六十三句

 ひしめくジヤズひしめく衣のおのがすそ

 嫉視中おのがたつきぞ保たしめ

 ひしめくジヤズ渦卷く嫉視花は紙

 痛きほどテケツにぎりし掌の裡ぞ

 ダンサーを生業とするしづ子のカット・バック。「テケツ」はチケットのこと。当時、しづ子が勤めていたダンス・ホールは戦前からのダンス一曲につき一チケットをダンサーに払うチケット制がまだ残っていたものらしい。詳しくは川村蘭太「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の二五四ページを参照されたい。この句稿、まずはダンサーの軽妙なステップやジャズやボレロやキャリオカで賑やかに幕開きする。そこで舞うしづ子は、中でも売れっ子だ。他のダンサーや慰安婦らの、カット・バックの中には、そうした女たちの独特の視線が配されている。

   *

 歸り耒つ三月さむき吾が居の燈

 そんな仕事から引けて帰った一人のしづ子は、理髪店に行き、春日中の野辺を歩く。ここまではこの句稿が投ぜられた三月の同時制であると私は詠む……ところが……その春風が……遠い若き日の春の風となって……しづ子に吹いてくるのだ……

   *

 固き餠黴の餠燒き神田つ子

 鈴木鎭子は大正八(一九一九)年六月九日、東京市神田區三河町二丁目二十三番地(現在の千代田区内神田一丁目と神田司町二丁目付近)に生まれた(川村蘭太「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」六二ページによる)。この句を初めとして、以下、句稿は走馬灯のようにしづ子の出生から現在までを総攬し始めるのである。

   *

 生まれにけり大正最後の雪の中

 震災を知らざる生まれ繪燈籠

 黑髮や雪の一月生れにけり

 しづ子が「しづ子」のために、数少ない積極的な共犯正犯となった事柄――それは年令詐称である。この最早、句として撰してもらうことなど微塵も考えていない大量投句――私はこれをしづ子の巨湫への壮大な叙事詩の外形をとったラブ・レターにして、同時に渾身の抒情的遺書と認識しているのだが――そこにあっても、これだけは巨湫個人に対してさえも、是が非でもなされなければならない「若さ」の絶対の演出であった。そこに私はしづ子の女としての弱さを感じるのであるが、それはまた私にはほっとするものでもあるのである。しづ子の年令詐称を鬼の首を取ったようにしづ子批評に持ち出す下劣漢どもに言いたいのは、だったら女性作家も女優も女は誰も彼も生年を必ず公表せよと訴えるがいい。こんなことは下らぬことだ。問題は、しづ子が実在する妹正子の年齢を美事に詐称している構造にあるのだ。川村氏はまさにそうした詐称の構造論から語って極めて有益な論を展開されておられる。「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」を是非、お読み頂きたい。ここでは事実のみを述べておく。先に示した通り、鈴木鎭子は大正八(一九一九)年六月九日生まれであり、「大正最後の雪の中」「の一月生れ」ではない、関東大「震災を知らざる生まれ」どころではなく、震災当時四歳で、明らかに震災の記憶をはっきりと保持している年齢に達していたと言ってよいのだ。「大正最後の雪の中」「の一月生れ」で関東大「震災を知らざる生まれ」であったのは、彼女の妹正子であった。正子は大正十四(一九二五)年一月二十日に東京市下谷區(現在の台東区)で出生しているのである。

   *

 震災や母は妻たり二十一

 ここには微妙な年令詐称をしても、愛する亡き母にだけは嘘をつけないしづ子が見える。鎭子の母綾子(明治三十(一八九七)年生まれ)は彼女を産んだ時が二十二歳、震災時では綾子は二十六歳、正子を産んだのは翌年であるから二十七歳である。いや、戦前は寧ろ数えで言うのが普通だから、綾子の年齢は「二十三」であろう。さすれば、しづ子は愛する母をも若く美しい「二十一」に詐称した、せずにはおられなかったのだ、とも言えまいか。

   *

 繪燈籠濱町育ちとませつつも

 深川にみとせの夏をおくりけり

 花美しき傳通院に母校をく

   *

 浜町――深川――大川――両国――芥川龍之介……伝通院――こゝろ――夏目漱石……しづ子は龍之介の例えば亡くなった父母と夭折の姉(しづ子には三つ違いの五歳で夭折した妹光子がいる)を描いた「點鬼簿」を――漱石の「こゝろ」の同名の「靜」の生き方を――どう読んだのであろう。とっても――とっても彼女に聞いてみたい願望に駆られるのである。

   *

 吾がすでに喫煙識りゐて花は八重

 エスケープ亦愉しくて花は八重

 不良性多分にもちて花は八重

 謹愼といふこと強ひられつつに花

 退校の極どさ保ちつつに花

 花は八重不良女學生とは異ふ

 學生として交るや一つ思想

 花は八重思想の危機を吾ももちし

 學園の思想の危機を吾ももちし

 春燈下をんな學生混へつつ

 高女卒とは名のみばかりに八重櫻

 淑徳高等女学校時代の十四歳(昭和八(一九三三)年)から十九歳(昭和十三(一九三八)年)の回想吟。「すでに喫煙識りゐ」、「エスケープ亦愉しく」、「不良性多分にも」った、「謹愼」処分も食らって、危うく「退校の極どさ」さえ実感したお墨付きの「不良女學生」――であったとしたら――私を例の「しづ子」として更に更に伝説化なさるに、巨湫先生、都合が大層宜しゅう御座いましょう? でもね、先生、そんな「不良女學生とは異」って御座いましたの、私は――と正座したしづ子がきっと前を向いて答えている――が見える。そして――軍靴の足音が響く中にあって、しづ子も危ぶまれる危険「思想」としての社会主義にシンパサイズされるしづ子――「春燈下」の細胞の学習会で目を輝かせているしづ子――が見える。そこに佇立しているのは、インテリゲンチアとしての凛々しい乙女である。しかし、父俊雄としづ子自身の強い希望であったにも拘わらず、しづ子は女子大への進学に失敗、昭和十三年の秋頃、製図学校に入学する。最後の句にはその、阻まれた進路への哀しさが現れた後ろ姿が見える。ただ――確実に言えることは、ここでしづ子が女子大に合格していたら――後の俳人鈴木しづ子は決して生れなかった、ということである。いや、当時も今もごろついている俳句を捻る誰彼と同じような才媛と評される作家の一人にはなっていたかも知れない。しかし、それは平均的な陳腐な才媛作家群の中に哀しくも埋没して、決して浮上するような句を残すことはなかった。我々はこの「高女卒とは名のみばかりに八重櫻」の淋しいうしろ姿にこそ、鎭子の、否、しづ子としての旅立ちを見なくてはならないのである。

   *

 以下、私のある思いから先の末尾の「高女卒とは名のみばかりに八重櫻」の次の句から句稿最後までの三十九句を残らず(一句も省略せず)順に掲げる。「*」を入れず、「――」「……」で私の勝手な解釈を附す。

 水の邊の墨田風起つ夜の櫻

 風起ちて花は夜を咲き向島

 ――ここにはマジックがある。昭和十三(一九三八)年春の十九歳のしづ子を点景とする「八重櫻」は「墨田」と「向島」の妖艶な夜桜に変容し、その梶井基次郎の「櫻の木の下には」のような屍の精力が――十九の処女を一瞬にして三十の女にするのである――

 東京の花を待たずに離り耒し

 早春の風吹く美濃に耒初めけり

 三月盡來初めし土地に家を探す

 職を得て土地に棲みつく櫻かな

 ――お分かりのようにこれは女学校時代から二十代をスポイルして昭和二十四(一九四九)年の春の、府中から岐阜への転居へとタイム・スリップしている。しづ子の事蹟を知らぬ者には、女学校生が一気に転落してゆくように読めるところがマジックである。私は「要注意」などと教師臭いことを言っているのでは、ない。再度申し上げるが、この句稿は最早、巨湫に「撰せられる」ことなど微塵も意識していないのだ――これらは総て、弟子しづ子の巨湫という野狐禪師への、命を懸けた公案の掛け合いなのだ――そもそもこの私の「しづ子琴線句」選を読まれる方は川村蘭太氏の「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」を読まずんばならず、読んでおられるとならば、私のこの分かり切った屋上屋の解説自体、不要なはずである。

 街娼とかよふ爲しごと花は夜を

 夜櫻や土地に耒初めて錢は無く

 夜櫻や救ひたまふか異邦人

 夜櫻や代償と得し錢一貨

 錢一貨握りにぎりて花は夜を

 い寐やらぬ一夜の花のホテルかな

 ホテルの夜十指の爪を燈に濡らす

 花の夜や爪は光りておのがいろ

 はからずも花ぞひらける一夜かな

 はじめての夜るの櫻とひらきけり

 はじめての人の背にある春燈かな

 おのおのの貌は忘れて花は夜々

 夜櫻やこころの鏡曇り次ぎ

 麻痺つづく一つこころと花は夜々

 ――私は如何にも無謀と言われるかもしれないが、以上の十四句を連合した『娼婦変身仮想句群』として読んだ。作句内時制はしづ子がダンサーとなった昭和二十五(一九五〇)年頃か。冒頭の句はれっきとした全うなダンサーであるしづ子が「街娼とかよふ」――街娼と変わりゃしない「爲しごと」じゃ、と後ろ指刺されることへの深い傷心の表現であり――だったら私、娼婦になったつもりで――あだ「花は夜を」生きる伝説の「しづ子」を、句の中で演じてみよう――それがこの、しづ子の魂胆ではなかったか?
 ……夜櫻の私…………
 ……「舞姫」のように……
 ……初めての土地に来て……一銭の錢もない……
 ……そんな私を救ってくれたのは……
 ……かのエリスと同じき……
 ……異国の肌え黒き人だった……
 ……代償として受けたのは錢一貨……
 ……その錢一貨……見つめる私……
 ……これが……私の価い……私の価値……
 ……それをギュツと握りに握って……
 ……あだ花は夜を生きるの……
 ……一夜の花のホテルの一室
 ……男に抱かれながら……
 ……十指の爪を燈に翳して……見る……
 ……その濡れたような十本の指……見つめる私……
 ……花の夜やうつりにけりな爪は光り……
……そはまごうなきおのがいろ……
 ……はからずも花ぞひらける一夜にて……
 ……はじめての夜の櫻とひらく……
 ……はじめて買われた人の……その黒い背(そびら)を手前に……
 ……春の夜の淋しい燈火が……見える……
 ……こと終えて……おのおのの貌は……もう忘れましょう……
 ……あだ花はまた別な夜々へ舞い散る……
 でも、そんなこと! とっても堪えられない! 私のこころの鏡は曇りに曇る! 麻痺、麻痺だわ! 私の一つのこころは、麻痺するの! そんなのはあり得ない! 私は娼婦じゃない! ダンサーよ! 舞姫なの!――私は「夜櫻やこころの鏡曇り次ぎ」「麻痺つづく一つこころと花は夜々」の二句をそう読む。一言だけ言っておくと、例えばしづ子は一文無しで岐阜に「落ちて」来たわけでは全くない。また、川村氏の現地調査でも、しづ子を知る人々の語る印象は、決して悪くない。寧ろ好感を以て語られていると言ってよい。彼女が、よもや、そうした『賤しき限りなる業に墮ち』(森鷗外「舞姫」)ていたなどという事実は――「しづ子」の匂わされた句以外には、実はどこにも存在しないというのが真実なのである。なお、私のこの仮想には当然、愛したケリー・クラッケの印象を入り込ませたことを断っておく。
 ――そしてこれらが夢想句群である証左が以下の句となる。ここでしづ子は現実に戻る。そうして『娼婦でないダンサーのしづ子』が、冷厳に辛辣に同僚の慰安婦たちを活写するのである。

 キヤバレーに得し一つ職花は夜々

 脚組むや紙のはなびらふらす花

 女たちうすぎたなくも脚を組み

 女たち顎突きだして煙草喫ひ

 女たち一つ煙草を喫ひおくり

 女たち自國語ならぬことば識り

 女たちくちびる厚く吻ふくみ

 女たち乳を隠して膚かくさず

 女たち燈明り蔭に吻をすひ

  女たちおほかたひまに酒を飲み

 女たち猜むおもひを露はにも

 花は夜々ジエーンと名づけられつつに

 賣れつ子といはるるほどに花は夜々

 一身に猜みあつめし胸の汗

 猜まるること極まりて職を抛つ

 ――「猜む」は「そねむ」と個人的には読みたいが、最後の句の「猜まるる」は明らかに「ねたまるる」であろう。しづ子はとあるダンス・ホールではジェーンという愛称で呼ばれていたか。最後の五句に現れるダンサーとしての自信と矜持は一抹の卑下も感じられない。しづ子は堂々と挑戦的に「女たち」の前で美事にステップを踏んでいるではないか。

 退(ひ)きし身の籠りつづくや愛ぞ得て

 戰ひは吾らに嚴し愛ぞ斷つ

 距つなばそれもよかりし海の霧

 海の霧戰死ならざる死と知りて

 ――ケリー・クラッケとの同棲――ケリーの朝鮮出兵――ヒロポン中毒者としての日本への帰還と、慌ただしい帰国――そして故郷テキサスからのケリーの訃報――

 ――以上、珍しく多量の句を選んだ本句群は、私にはその全体が一読忘れ難い有機的な融合体として意識されるのである。

2011/11/26

新編鎌倉志卷之六 音無瀧 金洗沢

「新編鎌倉志卷之六」を音無しの瀧から金洗沢まで更新。影印本「新編鎌倉志」のとんでもないミスを発見した。「鼬川」(いたちがわ)を「柚河」と記し、わざわざご丁寧に「ゆのかは」とルビを振っているのである。これはちょっと恥かしいですぞ、黄門さま!

新編鎌倉志卷之六 稲村ヶ崎 七里ヶ浜

「新編鎌倉志卷之六」は稲村ヶ崎から七里ヶ浜まで辿り着いた。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月十二日附句稿百十句より 四句

 髮編みて三月ある日家を出づ

 しづ子は二十一歳の昭和十五(一九四〇)年、深川の家を出、家族と離れて蒲田の矢口にあった岡本工作機械製作所設計課トレース工として入社、その武蔵新田にあった社員寮に入っている(川村氏の調査による)。恐らくこの句はその折りの回想句であろう。また、川村氏はこの前年に後に戦死する許嫁と出逢ったものと推定されている。しづ子の、ノラのような果断な性格を髣髴とさせる句である。

    *

 外す歩や土の面のいぬふぐり

 本句稿では、全体に亙っていぬふぐりを詠んだ句が多い。その中で、私の琴線に触れたのは、この一句。

    *

 白梅や衣觸れの鋭き乳の先

 「鋭き」は「とき」と読ませているのであろう。私ならしづ子の代表句に採りたくなる句である。

    *

 春日中牛にしたはれゐたりけり

 しづ子の句には、かなり頻繁に旅中吟が現れる。「しづ子」を伝説化させる人々は、そうしたこのスナップのような、どこかほっとして、笑顔で佇んでいるしづ子を決して欲しないのだ。それは師巨湫を含めてである。彼らは総てが現実のしづ子を抹殺した共犯者である。伝説の「しづ子」像をひたすら堅固にするためにのみ句を選び、そうして堕天使のモチーフに更なる虚構の絵具を塗りたくってゆくのだ。それが、しづ子の不幸であった。

2011/11/25

僕は君が好き だけど

君は僕を鮮やかに忘れる それでいい

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月十一日附句稿百六句より(6) 蝶翔ちて日はななめ射す羽目の面

 蝶翔ちて日はななめ射す羽目の面

 この句は直前の三句から、引っ越した後のがらんとした板敷の間がイメージされるようになっている。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月十一日附句稿百六句より(5) 四句

 月光げの紙をつらねし玻璃の疵

 玻璃の面の月光げの疵びびと伸び

 指細くなりしおもひの指環かな

 その疵の因をおもふや月の玻璃

 「月光げ」は「つきかげ」で、しづ子の好きな表記。この硝子の罅に張った紙の連なりと月影の映像が、私の偏愛を唆るが、この三句目に出現する「指環」四句目の「その疵の因をおもふや」が直結すると(この四句は体裁から連作である)、この「指環」はケリーからプレゼントされたものであり、ケリーとの愛の巣であったここで、とあるトラブルからどちらかが何かを投げ、それが窓硝子に罅を入れた。それを、指環とともに思い出しているとしか読めない。因みにしづ子の第二句集の題名にもなった『指環』について、川村氏はケリーから贈られた指環と思っていたが、研究される中で、戦死した青年から贈られたものであろうという最終的推論に至っておられる。私もそれを肯んずるものではあるが、ここでの指環は、これが密接な意味連関を持った連句である以上、ケリーの贈ったものとしか読めない。私はしづ子は二つの指環をしていたのではないかと思われる。戦死した青年の形見の男物のごっつい指環と――やはり亡きケリーの形見の指環と――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月十一日附句稿百六句より(4) 梅一枝不連續線海より耒

 梅一枝不連續線海より耒

 「不連續線」は前線のことであるが、湿気を含んだ海風に揺れる梅の枝に、不連続という語感が心理的傾きを添え、更に「來」の俗字「耒」の一画目の物理的傾斜がダメ押しする。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月十一日附句稿百六句より(4) 三句

 それのみの鷄頭起つや茜中

 鷄頭花憎しみさへも失せゆけり

 鷄頭花父を一人の男とも

 父へのアンビバレントな感覚が変容してゆく。川村蘭太氏の「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」によれば、しづ子は父俊雄にとって自慢の娘であり、顔つきや性格的にもしづ子は父と似ていると言う。青春期のしづ子は、そうした父を寧ろ自慢にしていたらしい。また、その理想に応えるべく、父の命に従って進路を選んでもいる。しかし、先に述べた通り、その後、ワンマンでさんざん母綾子を苦しめた父俊雄が、昭和二十三(一九四八)年に母綾子の生前から関係があった女性と再婚したことに対して激しい嫌悪感情を持つようになった。それがここに至って、何を理由とするか不明であるが(もしかするとそれはしづ子にも不明であったのかも知れない。この「鶏頭」の実景にこそ、その隠された深層心理が潜んでいるとも言える)、大きな変化を示している。この三連句の鶏頭の句を並べた時、父への「憎しみさへも失せゆけ」る感覚を経て、『所詮、父の性格は変わらない、私と同じだもの』といった諦めの感情と、幾多のすれ違ってきた愛憎の異性らをそこに並べた時、しづ子は「父を一人の男とも」捉えることが出来るようになったのである。そこでしづ子は、この父との関係に、毅然とした決断力に富んだ父と同様、きっぱりと敢然と一つのケリをつけているのである。

2011/11/24

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月十一日附句稿百六句より(3) 虫二句

 この星の浮塵子の如く家郷なし

 「浮塵子」は「うんか」と読む。カメムシ目ヨコバイ亜目Homopteraに属するセジロウンカSogatella furcifera、トビイロウンカNilaparvata lugens、ヒメトビウンカ Laodelphax stratellaなどの総称。稲の害虫とされ、時に大繁殖し、それが大群を成すことから「雲霞の如き」という語が生まれ、通称名となった。但し、「ウンカ」という和名の種はいない。なお、あまり認識されていないが、彼らはヒトを刺す。吸血するわけではないが、人によっては激しい炎症を起こす。侮らない方がよい。

   *

 吾が指のてんたう蟲の越えし節

 しづ子には昆虫や蛛形類の句が多いが、その接し方は鬼城より遙かに西欧近代的個人としてクールである。それが一種の気障な作為性を感じさせることもあれば、逆に斬新な心象として読む者をして激しく共感させることもある。因みに私はこのイメージ・フィルムのような一句が好きだ。

2011/11/23

喪中葉書を印刷しながら

喪中葉書を印刷しながら――プリンターがだだをこねて一枚ずつ止まるのだが、そのつどに感じるのだ――この人に喪中葉書はいるのか? 喪中葉書なんて誰も欲しくないだろう?――さすれば馬鹿げた仕儀ではないか? 母の死など誰も感じてはいないだろう! こんな馬鹿げた葉書一枚、誰も読みはしない一枚など、誰にもいらないだろうに――だからこそ僕は年賀状が大嫌い――だって何年も逢っていないのに、親しみを込めたクソ文句なんていらないじゃないか!――そうさ、僕は年賀状が大嫌いなんだ――だから来年の正月、僕はほっとする――いや、これから先もほっとするだろう――そうだ、僕はもう、やっと一人になれるんだ――

明日は母さんの誕生日だったのに――

君たちを愛する

あの時――君らと逢えなかったら――僕はいない――だから――僕は君らによって存在するのだ――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月十一日附句稿百六句より(2) 亡き母へのレクイエム句群より十五句

 終焉や地に影おく林檎の木

 花林檎かつては疎開つづかしめ

 花林檎双親つとに失せにけり

 銀漢や失せて總ては戰爭中

 母死なせし林檎花もつ北の方

 花林檎咄嗟の泪もたざりけり

 雪解けの続く限りや明里町

 冬苔やおのが識りゐし一つの死

 踏切や母には難き炎天下

 出生を忌むがばかりに寒牡丹

 夏蟬やむかし母には冷たかり

 濡れ初めの石の面てや冬の苔

 春雨にひとしく濡るる石の面

 母死なせし靑き冬苔濡るる中

 枯れの面や綾子之墓と母に書けり

 「終焉や」に始まる三十数句に及ぶ亡き母へのレクイエム連作から。これらから、しづ子は母の逝去の地をこの句稿直近に訪ねていることは確実であると思われる。
 「花林檎かつては疎開つづかしめ」はしづ子の「しづ子」のための句。年齢詐称のためには、「しづ子」は戦中に疎開をしていなくてはならない年齢であった。但し、「疎開」という言辞そのものが更に虚構であって、川村蘭太氏の「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」によれば、昭和十六(一九四二)年の夏に母綾子が病に倒れ、その転地療養のために一家で福井県福井市に転居している。そして更に虚偽があって、この時、しづ子は一人、東京に残ったのである。
 「花林檎双親つとに失せにけり」も事実ではない。しづ子の母綾子は昭和二十一(一九四六)年五月十五日に亡くなっているが、父俊雄は、この時、未だ健在である。以前にも記した通り、さんざん綾子を苦しめた父俊雄が、昭和二十三(一九四八)年に、母綾子の生前から関係があった女性と再婚したことに対して激しい嫌悪感情を持っており、しづ子にとってかつて尊敬した父は、今や完全に死んだ存在であったのである。
 「雪解けの続く限りや明里町」川村氏の略年譜では綾子の逝去の地を「福井県福井市明王町」と記すが、この句の「明里町」が正しいものと思われる。現在の北陸本線福井駅の西方二キロ弱の現在の福井競輪場近くに位置する小さな町である。
 「出生を忌むがばかりに寒牡丹」の主語はしづ子自身であろうか。とすれば、愛する母と同じように、愛に恵まれなかった自分の出生への呪詛となる。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月十一日附句稿百六句より(1) 五句

 母の日の甘藍の皮剝がし次ぎ

 「甘藍」は恐らく韻律からいって「かんらん」と読ませている。キャベツのこと。中国語名由来。

   *

 寐る四肢のうづきは悲し毛布觸れ

 いのちよし薰風の竹立つかぎり

 これは何らかの高熱を発する病床での吟と、その回復期の一句ではあるまいか。私は若き日に山水を飲んでA型肝炎に感染し、高熱とγGTP二〇〇〇という肝機能振り切れ状態を体験したが、その時、横臥している敷布団に触れている部分と、毛布の掛布団が触れている四肢が、千山を押し付けられたかのようにうづいたのを忘れられない。

   *

 花を見るそれでも夢をもつてゐる

 「しづ子」伝説には、こんな素直な句はあってはならないのに違いない。巨湫は遂にこの句は採っていない。しかし、彼が真にしづ子を語らんと欲せば、失踪後も、急句稿からあたかも投句され続けているかのように『樹海』に句を掲載し続けた巨湫にして、私は最後にはこの句を採らぬのはおかしい思う。いや、葬られずに残っていたことだけでも巨湫に感謝すべきか。

   *

 水仙やあかつき點す雨の音

 水仙は室内の生け花一輪がいい。でなくては「雨の音」が生きない。「あかつき點す」は、暁の真っ暗な室内に白く浮かんだ水仙の花を、燈火に喩えて点(とも)しているのである。

鈴木しづ子 三十二歳 『樹海』昭和二十七(一九五二)年五月号掲載句全十二句

 ことごとく人失せしめし霜の石(三月八日附)

 地に置くも置かぬも古葉としての形り(三月八日附)

 地の薪のいぶるかぎりをいぶらしむ(三月八日附)

 春の日の草履袋を振りつつ振りつつ(三月八日附)

 ランドセルがたごと櫻とつても綺麗(三月八日附)

 驅けて驅けて下校の櫻吹雪かしむ(三月八日附)

 いさぎよく切られてしまふ寒の竹(三月五日附)

 寒過ぎの氷が混じる落し水(三月五日附)

 この菊は半ばひらきてやみたるなり(三月一日附)

 埋火のいまもひたひた燃えてあらむ(三月一日附)

 疑へば疑はしくも簷氷柱(三月一日附)

 あるだけの卵をゆでる春の晝(三月一日附)

 各句の後に示したのが、採られた句稿の日附である(総て昭和二十七(一九五二)年)。前の私の撰した子らの句群と、そこから抽出してしまったここでの三句の印象の違いは明らかであろう。組写真のスラーな連続が断ち切られ、最早、モンタージュでさえなくなった、ばらばらの痩せた句になってしまっている。

東京スカパラの名アコーディオン名口笛 君と僕

昔から好きだった――永遠に――生まれる前から――死んだ後も――

東京スカパラダイスオーケストラ 君と僕

2011/11/22

くちばしにチェリー だべさ!

「くちばしにチェリー」は憎いゴロだぜ! キッチュチェリーな映像もクサヤぐらいに臭って美味だゼい! ついでに言おか?

このドラムスは――ローチに

このギターは――ウェスに

ペット・パートは――リトルに

フルート・パートは――勿論、ドルフィーに是が非でもやって貰いたく、なるね!

いや、これ、皮肉じゃない、演奏してる連中以上に上手くやれるのは、彼らだけだ、ってこと、でんがな!――

――君らのアブナイ瞳に「縛り首」で乾杯、だ!

――言っとくが、僕はこの手の曲には、まんず、そう簡単にはエキサイトしねえんだ――

――その僕が体を揺らして――コノ醜イ中年ガダ! オゾマシイ!――シビレタということで、わいの!――

――敢えて瑕疵を述べさせてもらうと、さっきから20回以上聴いてみると、エンディング部分のアンサンブル全体が微妙に最後に弛んできていて、もう零コンマ全体が早ければ、コーダはドビュっと大団円だったな、って感じはするな。でも、まあ、いいさ、これがキッチュさ加減なんだ。「二重マル」! 悪い子なのに、実に、「いい子だ」(仲代達矢風に)!

数年振りに――俺の下半身が――ウズく感じだぜイ! ♪フフフ♪

EGO-WRAPPIN'! 色彩のブルース!

下劣で退屈な今日、久々にネット・サーフィンで音楽動画をハシゴしているうちに出逢った――

――こりゃ! クソ! クソみたいに、イケテるじゃあ、ねえか!――

吐き出す……言葉に熱いメロディ……

切なく甦る デジャ・ヴの香り……

心を溶かす色彩のブルース……

優しく泣いてる吐息が 眠るまで……

――サックスも、電子ピアノも、ガッツリ、だ――

中納良恵へ――“Here's looking at you, kid!”

EGO-WRAPPIN'色彩のブルース

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月八日附句稿二百十六句より(5) 十句

 春の日の草履袋を振りつつ振りつつ

 ランドセルがたごと櫻とつても綺麗

 下校時櫻折つてはいけません

 先生に言ひつけよつと晝櫻

 先生と踏切りを越え晝櫻

 驅けて驅けて下校の櫻吹雪かしむ

 晝櫻町角に言ふさようなら

 簷に葉に春日さんさん坊やはいくつ

 復習はもう済みました晝櫻

 お八つ頂戴さくらが散つて散つてきて

 新春の陽射し、桜並木の中を駆けてゆく子ら、しづ子の優しい視線に満ちた句群である。これは連作として読むとき初めて、彼女の限りない慈悲の眼が、分かってくる。これは単独句では決して伝わらない。今、私は、しづ子の俳句は独自の連作句法の観点から、再評価されなければならないとしみじみ思う。ここは総て表記をママでとった。「復習は」の「済みました」は当時の小学生の気持ちになり(新字体表記を公用とする「当用漢字表」の公示は昭和二十一(一九四六)年十一月十六日)、正字にしなかった。以下、百三十六を残すが、私の琴線に触れるものは、残念ながら、ない。

2011/11/20

マキの僕にとっての絶唱

よく、聞かれるんだけど――浅川マキの僕の一番好きなもの?――一杯あるけど――やっぱり南里さんの美事なペットとの、あれしかないな――これ以外には考えられない、な――南里さんのペットとのマキのインプロビゼーションが――誰も到達し得ない垂直の氷壁を攀じ登るのだ――

浅川マキ セント・ジェームス医院 St. James Infirmary

マキの口笛

あの娘がくれたブルース 浅川マキ

少年 浅川マキ

マキ……僕は何にも楽器が演奏できないから、さ……口笛でやとって、ね……あの日の夢のように……

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月八日附句稿二百十六句より(4) 三句

 雪の夜の更けゆくばかり女人の居

 居めぐりの昏れゆくほどの雪の増え

 欝々と穹は在りけり雪怺へ

 実はこの句は数句の前がある連作句で、その前の句群では、しづ子の家にある人物が訪れ、しづ子が聞きたくもない愚痴や嫌味を言い放題にして、雪の中をその人物が帰ってゆくまでが描かれている。その後の、一人になった後の三句(最後の句は翌朝か。若しくは全く異なる詩想に基づくものかも知れないが「欝々と」が明らかに前の連作を引きづって読めるところから敢えて採った)。「怺へ」は「こらへ」で、堪えるの意。煩瑣な下劣な日常の、如何にも愚劣極まりない事柄が、しづ子の孤独をいやにも掻き立てるさまが、如実に伝わってくる。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月八日附句稿二百十六句より(3) 四句

 手にとればなにもなかりし熱砂かな

 掌の熱砂砂漠もたざる國に生れ

 思を凝らし熱砂の砂漠描かしむ

 熱砂敷く沙漠ありせばありとせば

 句稿の中に突如現れる沙漠の砂の句四句である。最初の三句は連続で現れ、二句挟んで最後の句が出る。私はこれをケリー・クラッケ追悼句群の一つと見る。この頃、ケリーの母からケリーを埋葬した地の砂がしづ子に送られて来たのではなかったか?(川村氏らの著作によって、この前後にケリーの遺品がケリーの母から送られてきたことは確かである) また、昭和二十七(一九五二)年一月二十三日附句稿百四句にあるケリー・クラッケ・メモリアム・テキサス句群から、ケリーの故郷はテキサス州にあったことは確実である。ところがテキサスというと、たいして西部劇の洗礼を受けていない私などでも「パリ、テキサス」などで今も砂漠のイメージが強いのだが(脱線だが――私がかつて勤務したとある学校では「学校内の僻地」という意味で、平然と教員さえ校内で最も離れた特別教室を「テキサス」と呼称していた。私はそれに強い違和感を覚えた。生徒に、「それじゃあそこをネパール、東北、と呼ぶことにしたらどうだい?」、「うちの姉妹校で訪問して来たアメリカの高校生にテキサス出身の学生がいて、何故、テキサスなのかと質問されたら、あそこはカントリーだからさ、と言えるわけだ?」と挑発もした。教員がその呼称を用いるのはやめるべきだと職員会議で意見も述べたが、同僚からは鼻でせせら笑われただけだった。多分、今も相変わらず用いられていることであろう。それが我々日本人の人権感覚のお粗末な正体なのである――)、実は沙漠地帯はテキサス州の十%足らずしかなく、かなり地域が限定されるのである。チワワ砂漠と称するこのテキサス州南西部国境域周辺の――メキシコや南部のデキシーと西部開拓時代の人種混合した文化の、不法入国者が絶えず、現在でもアメリカでは極めて経済的に厳しいこの地域の――どこかに、ケリーの故里はあったのではあるまいか? ケリーがどんな人物であったか、僕らは最早、追跡できそうもない。しかし、私は、私なりにケリー・クラッケを私の中にブロマイドを創る。そうして、しづ子が愛したケリーを、私も愛する。――でなければ、しづ子のケリー・クラッケ句群を語る権利はない――いや、そもそも、しづ子の句を語る資格はない、と、私は本気で思うからである。

義母(かあ)さんは元気 ♡

20111119150720 義母(かあ)さんはとっても元気だった。アルツハイマーで、時々、妻を妹に間違えるのに、一年以上逢っていない僕を見たとたんに、「たーちゃんだ」と笑顔で迎えてくれた。かあさん――長生きしょ♡ チュ♡

20111119150800

2011/11/19

名古屋行

義母は心機能が30%以下に下がっていながら、ここのところ元気を取り戻している。誤飲の虞れからもう三ヶ月以上、点滴のみで栄養を摂取しており、口から物を食べていなかったのが、最近はゼリーを口にすることが出来るようになったという。奇跡的な回復である。今から、その義母に逢いに行く。では暫く、御機嫌よう。

2011/11/18

新編鎌倉志卷之六 忍性菩薩行状畧頌 テクスト注 完遂

「新編鎌倉志卷之六」の「忍性菩薩行状畧頌」のテクスト注を名古屋に行く前に辛くも完遂出来た。ガツンと来る作業であったが、久々に楽しかった。それでも数箇所の不詳点がある。識者の御教授を乞う。

ブログ330000アクセス記念 芥川龍之介 素描三題 附草稿(「仙人」)

19:09:44 Blog鬼火~日々の迷走: トップページに「玄能 柄 牛殺し」の検索ワードで来訪されたユニーク・アクセスのあなたが2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、330000アクセスでした。

ありがとう。

では、芥川龍之介「素描三題 附草稿(「仙人」)」を公開します。

既にネット上にあるテクストとは――多分、「三味」ぐらいは、違いますよ。――ふふふ♪――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月八日附句稿二百十六句より(2) 耳覆うすべもなかりし霧笛引く

 耳覆うすべもなかりし霧笛引く

 回想のケリー・クラッケ訣別句であろう。これはもう、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の「ペペ・ル・モコ(望郷)」(一九三七年フランス)のエンディング――しかし、しづ子の神話では人物が交換する――しづ子はギャビーじゃない――しづ子は――ジャン・ギャバン演じるペペなのだ――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月八日附句稿二百十六句より(1) 四句

 忌むかぎり狂ふ燈蛾と人の貌

 凄絶な語彙選択の勝利だ。

   *

 吹かれつつ春日の中のひとりかな

 春冷えの吾が室ならぬ中にゐる

 春林の徑たゆるまで行くべしと

 杉田久女の、「蝶追うて春山深く迷ひけり」がオーバ・ラップする。だが、もうこれは、インスパイアではない。――久女のそれは、私にとっては、句よりも後年の映画、ロバート・アルドリッチ監督の「何がジェーンに起こったか?」(一九六二年アメリカ)のベティ・デイヴィス演じるジェーン・ハドスンが、ラスト・シーンで海岸で踊る姿を髣髴とさせる。久女が後年、精神を病んだように。――しかし、しづ子の春日の中の姿は、毅然としているのだ。彼女は春の林の中にいる。そこは「吾が室ならぬ中」でありながら、しかもしづ子が「ひとり」屹立する地平である。しかししづ子はその春林の「徑たゆる」地平の果てを目指す覚悟なのだ。則ち、しづ子は「迷」ってはいないのだ。しづ子はきっぱりとした明晰にして冷徹な覚悟の中で、春の林を突き抜けて「ひとり」「行くべし」と言い切る。――私はこれらの句に恐ろしいまでのしづこの覚悟を見る――それはKの破滅への、死(タナトス)の「覚悟」を、では、ない――しづ子の生(エロス)の、強靭な激り、のそれを、である――

現在329920アクセス

現在329920アクセス。本日中に330000アクセス突破。今日は中間考査最終日で、明日からの名古屋の義母の見舞いのために休暇をとった。これより、記念テクスト作成に入る。

新編鎌倉志卷之六 忍性菩薩行状畧頌 忍性極楽寺に来る

「新編鎌倉志卷之六」の「忍性菩薩行状畧頌」のテクスト注、今朝、やっと忍性51歳、極楽寺入山まで辿り着いた。しかし! 忍性は長生きなんだな、これが! 87歳で逝去、まだまだなんだ! 本文分量にして丁度真ん中である。

2011/11/16

新編鎌倉志卷之六 極樂寺 忍性菩薩行状畧頌 テクスト化突入

「新編鎌倉志卷之六」の「極樂寺」の「忍性菩薩行状畧頌」のテクスト化に入ったが、ネット上では、これ、恐らく僕の試みが初であろう。またこれ、ご覧頂けば分かる通り、久々の、ローチェの南壁並みの強者だ。やってやろうやないけ! やり甲斐充分!

【21:28】書き下しを辛うじて完了した。この書き下しだけで、十分に忍性のとんでもない生涯が浮き彫りになる。日蓮は「律国賊」と指弾しながらも、忍性の強烈な慈悲実践を認めざるを得なかったし、師叡尊は誰より慈悲を標榜しながら弟子忍性の行為を思わず「慈悲に過ぎた」と苦言(?)してしまった。――忍性――これはやっぱり凄い奴だぜ――明日以降、注作業に入る。 

2011/11/15

鈴木しづ子 三十二歳  『樹海』昭和二十七(一九五二)年四月号掲載句全十一句

 昭和二十七(一九五二)年三月四日附句稿及び三月五日附句稿を元にして選句された『樹海』昭和二十七(一九五二)年四月号掲載句全十一句を掲げておく。珍しく私の撰とかなりダブった(参考までに私の選んだ句の下に〇を附した)。

〇春愁の紙風船に息を詰め 

〇火めぐりの灰を馴らしてたゞそれのみ 

〇日永さの目立つばかりのなんてん葉 

〇空箱に絲など容れて春めくか 

 啓蟄の藪を透して見るひかり

〇くりかへす子をとろ遊び夏はじめ 

 やすかれと希ふばかりの霧笛かな

 踏めば消ゆむかしの都の奈良の雪

〇仲良しになつて夕燒け濃かりけり 

 手をのべてスタンド燈す黄水仙

〇蟬しぐれ人を追ひ死すこともある 

 「踏めば消ゆ」と「仲良しに」の句は三月五日附句稿から。それ以外はその前の三月四日附句稿に基づく。なお、これ以降の『樹海』の掲載句には、これ以前の句稿からの採録がしばしば見られる。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月五日附句稿二百十六句より七句

 前句稿の翌日附のものであるから、やはり雰囲気は変わらない。しかし、東大寺二月堂の修二会のお水取り前の雰囲気、岐阜県羽島郡笠松町の笠松競馬場の三月競馬、美濃・木曾路・中仙道の春景色といった羈旅吟行を並べ、寒竹を切る十六句などをひたすら詠じたりして、詩想の停滞を必死に打開しようとしている感じがする。一茶は嫌いと言っていたしづ子だが、子らを詠んだ一茶風の句群が私には光って見えた。因みに、原本のものとも判読の誤りとも区別し難いが、「みふそこ」×→「みなそこ」〇、「かふ」×→「かな」〇、「糖」×→「糠」〇など、底本のこの部分、かなり誤字と思われる箇所が多い。

   *

 仲良しになつて夕燒け濃かりけり

 蟬生れてこころの平和放すまじ

 花桃やよくぞさへづる子らのくち

 それし手の毬がころがるたんぽぽ黄

 春晝のいつかやみたる手毬唄

 冷やし水喇叭飲みして遊びに去る

 斜め日や詠ふに難き梅の花

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月四日附句稿三百五句より十二句

 春愁の紙風船に息を詰め

 春の夜の紙風船を疊めば反る

 春の夜の天井觸るる紙風船

 ぼんぼりに燈が入るころの双つ雛

 火めぐりの灰を馴らしてただそれのみ

 日永さの目立つばかりのなんてん葉

 春燈下肉商人の指を缺く

 空箱に絲など容れて春めくか

 くりかへす子をとろ遊び夏はじめ

 玻璃の面の蜘蛛は平たき餘寒かな

 蟬しぐれ人を追ひ死すこともある

 喪の家の沈丁匂ふ柵のうち

 膨大な句稿であるが、アンビバレンツがなく、力の抜けた平板な句が多い。そうしたダルな雰囲気の中の垣間見た視線の、私の琴線が以上の十二句。最後の「喪の家の」は、句稿の掉尾で、柵の中に沈丁花を植えた或る棲み古した家を舞台に、家人が病いとなり、医師が向かい、死の家となる、アッシャー家の没落風の十七句連作の終曲句。連作としては興味をそそるが、一個の句としてはどれも今一つ。

2011/11/14

累計アクセス数 329,221

今日はまた、とんでもないことになっていた。現在まで本日中のアクセス数が858、今日一日の訪問者数が783、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来の累計アクセス数が329,221。

近日中に330000アクセス――辛くも記念テクストは用意出来た。

例によって、芥川龍之介――勿論、オリジナリティは忘れてないよ――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年二月二十六日附句稿百九十七句より 三句

 吾が忌みしよべの秋蛾のあほむき死す

 私は如何なる海産無脊椎動物をも忌まわしく思わない代わりに、殆どの陸生昆虫類を忌避する。しかし、しづ子と同じ程度には、彼らの死に哀れを感じる点に於いて、しづ子と感応するものである。

   *

 いまぞ識る歳時記による虎※笛

 底本では「※」=「木」+「尤」であるが、このような漢字はない。これは「虎落笛」の誤字であろう。この句は「虎落笛」を結局、使わないしづ子がいて、それ故に「歳時記による」詩語が無効であることを、しづ子は言っているのである。歳時記を『俳句の病い』として一番忌まわしく思う人間である私が、如何にもな歳時記風に「虎落笛」を書いてみようと思う。私は歳時記なるものがあるとすれば、それぞれの個人の歳時記を、自分自身のみが納得する歳時記を創るべきだと思っている。以下の説明の後半部は、そんな「虎落笛」の歳時記を目指してみた。にしても――虎落笛の名句は少ないね――
〇虎落笛 〔読み〕もがりぶえ 〔季節〕仲冬を主に三冬(十二月を主に十一月から一月の期間)
冬の寒風が竹の切り株・柵・竹垣及び建物や戸板・窓、現代なら電柱・電線・看板などに激しく吹き当たって時に高く時に低くヒューヒュー、蕭々と鳴ることを言う。物理学的にはエオルス音《Aeolian Tone》と呼び、主に柱状物体の風下左右両側に、カルマン渦という逆向きの渦風がつぎつぎと発生しては離れていく、その際の円柱表面での振動が空気中を伝わって音となったものを言う。鞭の音もこれである。「エオルス」はギリシャ神話の風の神の名。「もがる」の語源は不詳。一説に「刺(とげ)」を意味する「棘(いが)」の動詞化した「いがる」が「んがる」「むがる」「もがる」と転訛したとする説や、幼児が欲しいものをねだって駄々を捏ねて泣き叫ぶ様子を形容したものに由来という説があるようである。私はてっきり貴人の遺体を一定期間保存して再生を図る「殯(もがり)」を語源とするのかと思いきや、無縁であるようだ(こちらは「喪上がり」が語源に仮定されている)。「もがり」「もがる」という古語の動詞は「虎落る」以外に「強請る」などとも書き、①異議申し立てをする、逆らう。②言い掛かりをつけて金品を巻き上げる、所謂、ゆすりたかりの行為を言うが、丁度、唇を尖らして笛を鳴らすようにする嘯く動作が、不平・不満を述べることに通ずることによるものであろう。さすれば「もがりぶえ」という自然現象への呼称はそれよりも後の成立であると考えられる。「虎落」は、本来は軍営にあって竹を組んで柵とした矢来としたものを言い、中国で、通常の木ではなく竹で組んだそれは虎もよじ登れないことに基づく虎避けの柵、従って当て字である。後には竹を立て並べた紺屋などの物干しをも指すようになった。小学校五年生の頃、TBSで昭和四十二(一九六七)年十月十七日~翌一九六八年一月九日の火曜夜九時から九時三十分に放映されていた「木下恵介アワー」の江原真二郎のドラマ「もがり笛」は、もうすっかりストーリーを忘れたものの、各回の最後にもがり笛を読み込んだ俳句か和歌がテロップとともに示されていたのを覚えている。それが僕の「虎落笛」の初見だった。僕の年齢では早い方だろう。亡き母も私も好きなドラマだった。ドラマ様々だ。その後のこと、時代劇の「子連れ狼」で、名人が相手の首筋の動脈を上手く斬った際、血を吹き出しながら音が鳴る、それを虎落笛と呼ぶ、という話柄があった。果してその呼称が江戸期の事実であったかどうかは知らない。知らないが、私は授業でしばしばそれを語った程には、危ない気に入った話ではあった。音韻のおどろおどろしさでは、いい詩語ではあるが、私は使ったことはない。

  虎落笛眠に落ちる子供かな      高浜虚子
  虎落笛子供遊べる声消えて      高浜虚子
  一汁一菜垣根が奏づ虎落笛     中村草田男
  夕づつの光りぬ呆きぬ虎落笛    阿波野青畝
  モガリ笛いく夜もがらせ花ニ逢はん   檀一雄
  いじわるな叔母逝き母に虎落笛    金子兜太
  ふたたびを俺達は死ぬ虎落笛    鈴木六林男
  もがり笛よがりのこゑもまぎれけり  加藤郁乎
  もがり笛風の又三郎やあーい    上田五千石
  樹には樹の哀しみのありもがり笛   木下夕爾

   *

 その一つややこしくして冬の季語

 しづ子には歳時記がいらない。ということは季語がいらないということである。しづ子は季語とされる詩語を季語として用いていない。しづ子の季語はしづ子の感性が独自に、その句の中でのみ規定される。そもそも、いみじくもこの世に存在するあらゆる言葉は季詞ならざるはなし、と言ったのは芭蕉である。因みに私も、季語を意識したことはない。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年二月二十六日附句稿百七十三句より 十二句

 のこぎりの刃形りのふちをもつ冬葉

 「刃形り」は「はなり」と読ませるのであろう。ハ行音を効果的に用いて、一見した際の視覚的な印象の韻律の悪さが、詠むことで美事な定型句に変貌する。しづ子の句にはこうした仕掛けもある。

   *

 見えぬ浪のおとのひねもす菊咲けり

 本句群に多数見られる知多での羈旅吟の一句。浪を直接見せずに、時空に日がな一日充満するSEとし、菊をアップにする。

   *

 鳰を見るひとにをしふることもなく

 芭蕉の「五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん」をインスパイアするに、鳰(歴史的仮名遣では「にほ」)の音に「にを」を掛けた諧謔性の割には、元の句の浮き立つような風狂のときめきの諧謔が、「をしふることもなく」の言辞によって急速に醒めてゆく。そこを狙った部分を買いたい。私は好きな句である。

   *

 博徒らし日向まぶしく人待つか

 ハレーション気味の映像と、「博徒」のイメージの反社会性・孤立性が句全体の渇きや埃っぽさを強化しつつ、それを見るしづ子の「らし」と「待つか」という推測と疑問文が、逆に博徒としづ子の遠心的紐帯となって立ち現れる。

   *

 吾が簷に月のひかりの氷柱もち

 「簷」はしづ子の好んで用いる字で、私は一貫して「のき」と読むことにしている。「月光」もしづ子偏愛の詩句で、「吾が」が既にして現実のしづ子の住む家のそれにあらざる――しづ子の孤独な心の軒下に冷厳ときっぱりと垂れ下る月光自体が凍てた哀しき氷柱が――私には――見える。

   *

 蝶よかのたむろなす花まで行け

 「蝶よ」は萩原朔太郎のように「てふてふよ」と読みたい。「たむろなす花」の語の選びが美事な俳諧となっている。「てふてふよ/かのたむろなす/はなまでゆけ」の方が、「てふよかの/たむろなすはな/までゆけ」の下五の腰砕けの字足らずよりも遙かに至上の厳命として強靭に響くからである。

   *

 冬がきて必殺の獨樂放ちけり

 子らの遊びを見るしづ子の眼はいつも母性に満ちた優しさに溢れている。少年の「必殺」の声が、独楽のブン! と飛ぶ音とともに聴こえてくる――

   *

 器中一夜浸せし春の貝

 これも漢字マジックである。――「うつはなかひとよひたせしはるのかひ」――総ての詰屈な感じが和訓となる時、えも言われぬ快いハ行音を意識した調べとなって伝わってくる。デッサン画のそれに淡い貝の色を水彩で少し色を塗ったところだ――。ところが……しづ子を鵜の目鷹の目で垂涎して舌なめずりするエロ俳爺いにとっては「器」「中」「夜」「侵」「春」「貝」の文字の色が猥雑に反転する。そもそもが、しづ子でない女流俳人の句であれば、これをそのようなあぶな絵として誰一人見ないはずである。これが「しづ子」の「不幸」である。しかし伝説の「しづ子」の内には「幸」は不要なのである。――「しづ子」の不幸は「しづ子」の「功」――「しづ子」の不幸は「しづ子」の子――「しづ子」としづ子は似て非なり――「しづ子」はしづ子ぢやありません――

   *

 笑ひたき夢の記憶よ白木蓮

 「しづ子」は笑うことも許されない。余りにも「しづ子」は深刻過ぎる。本当のしづ子の笑顔は、あの昭和二十三(一九三八)年の木曾川犬山橋河原で撮った叔母と妹夫婦との写真のように、健康で美しいのに――

   *

 ふつと氣が變りしときの鵙高音

 これは鵙の地鳴きを詠んで素晴らしい。私なら一番に歳時記に採る。私は歳時記を認めないがね。

   *

 寒浪の去にし陸をば哀しめり

 上句に「寒浪」を被せる十九句の掉尾。「陸」は「くが」と読みたい。如何にもな垂直的語句交換で苦吟しているが、響きといい、力といい、詩想といい、最後に至って美事にアウフヘーベンしていると私は思う。

   *

 吾がものとおもひこそすれ紙の雛

 失礼――私は雛人形が好きなのである。私には子はないが、御殿附きの七段飾りを

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年二月二十一日附句稿九十四句より 五句

 濃しといふ女帝いたゞく國の霧

 葉の上に春の露をく貴族の死

 句稿巻頭句二句。この投句の十五日前の二月六日、イギリスでエリザベス二世がイギリス連邦(イギリス王国十六箇国)女王元首にしてイギリス国教会首長に就任している。彼女はしづ子より七歳年下で、満二十七歳での即位であるが、これはしづ子が詐称した年齢にほぼ等しい。後の句は一句目とは無縁な本邦の貴族の死かも知れないが、組句ととるなら、同じく二月六日の夜、冠状動脈血栓症で急逝したエリザベス二世の父イギリス王ジョージ六世ととることも可能である。五十六歳であった。

   *

 露けさの吾が室が待つすべての夜

 本句群の前半は、既句の改案がひどく目立つ。孤独な自室に戻るというシチュエーションも既出モチーフであるが、これは一読、下五が鋭い。

   *

 リトマス紙はさむ餘寒の指のひま

 雪の日のリトマス試驗のこと憶ふ

 この二句、聊か気になる句ではある。現在でも妊娠検査にリトマス試験が有効がどうかを問う質問がネット上に散在する。勿論、リトマス試験紙では分からないのだが、今でさえ、そのような認識があるとすれば、しづ子の持つリトマス紙は、そのようなものとして示されているととられても致し方あるまい。但し、二句目では、この「リトマス試驗」が過去の事実として扱われており、これが女学校当時の雪の白き景色の中の化学の実験での、鮮やかに色の赤く、青く変わる様の不思議を追懐して素朴に詠んだとしても決して可笑しくはない。しかし、例えば、仮に前の一句のみが撰されれば、これはもう、私の言う『俳句の病い』を逆手にとったとも、しづ子「伝説」への確信犯の思わせ振りの句とも言えよう。

   *

 寒き夜の卵割らしむものの角

 下五「ものの角」の喝破にしづ子らしさがある。いい句だ。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年二月十六日附句稿八十七句より 十九句

 もう居ない此の世の人へ柘榴咲く

 先の謎めいた意味深き再会を受けるなら、「もう居ない此の世の人」とは師巨湫その人であろう。

   *

 湯上りの冷ゆることなき十指かな

 温かき十指伸ばせば揃ひけり

 放哉の「爪切つたゆびが十本ある」を想起させる句である。しづ子は恐らく放哉を、俳句を始めた早い時期からディグしていたと考えている。

   *

 月光らふいのち曝して惜しむなし

 しづ子はしばしば「光げ」で「かげ」と読ませており、これは「影ろふ」の「かげ」で、「かげろふ」は光がちらつく、ひらめくの意である。ここでも「つき/かげらふ」と読んでいる可能性が高いのであるが、私は敢えて「つき/きらふ」という読みの可能性を感じる。同じく「きらめく」の意としてではあるが、但し、そのような動詞はないから造語ではある。しかし、音数律は保てる。本句の覚悟には、私は字余りが似合わない気がするのである。た句群の後半にも、

 死してもよき常のおもひや月光らふ

とあり、上五は字余りである。しかしこれも「つき/かげらふ」と読むとなると、初句と下五で字余りとなり、如何にもリズムが悪い。私はやはり「つき/きらふ」と読みたい。

   *

 好き人でありしとおもふ時鳥

 先の「もう居ない此の世の人」の句から六句目にあり、私はこの「好き人でありし」人も巨湫を指すと読む。さすれば、これは「よきひと」と「すきびと」の掛詞として機能するように私には読めるのである。

   *

 片親の憶ひは深し星祭り

 七夕のメリンス帶をしめてもらふ

 親憶ふ梅雨の簾を垂れしめぬ

 とどむるは涼しき髮の母姿

 これは明らかな追想吟であり、しづ子は傍観者ではなく、画題の七夕の少女はしづ子自身であり、「涼しき髮の母姿」はしづ子の母綾子としか私には読めぬ。「片親」とは、土木業者で留守がちであった父俊雄、母綾子を裏切り続けた(としづ子が感じ続けた)父俊雄を拒絶した成人のしづ子の感懐から仮想された思いととる。しかし同時にその少女の頃、実は大好きだった不在がちな父を、しづ子は愛していた。そのアンビバレントな表現が「親憶ふ」ではないか。しかもなお、今のしづ子の追想には母の孤独な「母姿」が浮かび上がるしかなかったのである。

   *

 酒嘔きて戀情も嘔く月凍る

 宿酔句群九句の掉尾。

   *

 ひとつづつ節分の豆嚙みて碎く

 ゆゑあるが如く節分待ちきしなり

 節分句群の内の二句。節分の習慣からこの句は大きな意味を持つ。昭和二十七(一九五二)年の節分を、しづ子は「ゆゑある」が故に待っていたのである。――それは自身の半生を「ひとつづつ」一歳ずつ、覚悟を以て「嚙みて碎く」覚悟ではなかったか。――

   *

 雛の夜のたがひ引き合ふ喧嘩の髮

 泣きじやくる負かされし手の雛あられ

 混血の幼きものよ桃の花

 連続する雛祭り三句。二月五日附句稿でも同じ句群を揚げたが、これも同じ場面を詠んだものである可能性が高い。しかし私は、しづ子は頻繁にこうした混血の児童や孤児を保護した施設を訪ねていたのではなかろうかという気がしている。そこには亡き黒人兵ケリーへの思いが裏打ちされていたには違いないが、私はしづ子の失踪の彼方の一つに(若しくはしづ子のこの後の将来設計の一つの選択肢にと言ってもよい)、こうしたかの「サンダース・ホーム」のような児童養護施設を想定し得るような気がしてならないのである。

   *

 雪ちらつく水のほとりのアースの線

 吹雪かれて切れしを繼なぐアースの線

 これはもしかすると直前にソリッドにある飛騨の温泉での嘱目吟であるのかも知れない。温泉の電気器具のアース線が、しづ子の眼に止まった。私の深読みであろうが、しづ子のこのアース線への視線がひどく気になる。地に総てを流して、総ての電気を流して感電することを避けるためのアース線――あらゆるリスクを回避する地にむすぼれた線――これはしづ子の決意と同じではなかったのか?!

   *

 ひとあらぬ體ぬちめぐる霧笛かな

 ナ行音を配した空疎な殺伐とした本句を以て、本句稿の抄出の最後とする。

2011/11/13

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年二月十六日附句稿八十七句より 十九句

 もう居ない此の世の人へ柘榴咲く

 先の謎めいた意味深き再会を受けるなら、「もう居ない此の世の人」とは師巨湫その人であろう。

   *

 湯上りの冷ゆることなき十指かな

 温かき十指伸ばせば揃ひけり

 放哉の「爪切つたゆびが十本ある」を想起させる句である。しづ子は恐らく放哉を、俳句を始めた早い時期からディグしていたと考えている。

   *

 月光らふいのち曝して惜しむなし

 しづ子はしばしば「光げ」で「かげ」と読ませており、これは「影ろふ」の「かげ」で、「かげろふ」は光がちらつく、ひらめくの意である。ここでも「つき/かげらふ」と読んでいる可能性が高いのであるが、私は敢えて「つき/きらふ」という読みの可能性を感じる。同じく「きらめく」の意としてではあるが、但し、そのような動詞はないから造語ではある。しかし、音数律は保てる。本句の覚悟には、私は字余りが似合わない気がするのである。た句群の後半にも、

 死してもよき常のおもひや月光らふ

とあり、上五は字余りである。しかしこれも「つき/かげらふ」と読むとなると、初句と下五で字余りとなり、如何にもリズムが悪い。私はやはり「つき/きらふ」と読みたい。

   *

 好き人でありしとおもふ時鳥

 先の「もう居ない此の世の人」の句から六句目にあり、私はこの「好き人でありし」人も巨湫を指すと読む。さすれば、これは「よきひと」と「すきびと」の掛詞として機能するように私には読めるのである。

   *

 片親の憶ひは深し星祭り

 七夕のメリンス帶をしめてもらふ

 親憶ふ梅雨の簾を垂れしめぬ

 とどむるは涼しき髮の母姿

 これは明らかな追想吟であり、しづ子は傍観者ではなく、画題の七夕の少女はしづ子自身であり、「涼しき髮の母姿」はしづ子の母綾子としか私には読めぬ。「片親」とは、土木業者で留守がちであった父俊雄、母綾子を裏切り続けた(としづ子が感じ続けた)父俊雄を拒絶した成人のしづ子の感懐から仮想された思いととる。しかし同時にその少女の頃、実は大好きだった不在がちな父を、しづ子は愛していた。そのアンビバレントな表現が「親憶ふ」ではないか。しかもなお、今のしづ子の追想には母の孤独な「母姿」が浮かび上がるしかなかったのである。

   *

 酒嘔きて戀情も嘔く月凍る

 宿酔句群九句の掉尾。

   *

 ひとつづつ節分の豆嚙みて碎く

 ゆゑあるが如く節分待ちきしなり

 節分句群の内の二句。節分の習慣からこの句は大きな意味を持つ。昭和二十七(一九五二)年の節分を、しづ子は「ゆゑある」が故に待っていたのである。――それは自身の半生を「ひとつづつ」一歳ずつ、覚悟を以て「嚙みて碎く」覚悟ではなかったか。――

   *

 雛の夜のたがひ引き合ふ喧嘩の髮

 泣きじやくる負かされし手の雛あられ

 混血の幼きものよ桃の花

 連続する雛祭り三句。二月五日附句稿でも同じ句群を揚げたが、これも同じ場面を詠んだものである可能性が高い。しかし私は、しづ子は頻繁にこうした混血の児童や孤児を保護した施設を訪ねていたのではなかろうかという気がしている。そこには亡き黒人兵ケリーへの思いが裏打ちされていたには違いないが、私はしづ子の失踪の彼方の一つに(若しくはしづ子のこの後の将来設計の一つの選択肢にと言ってもよい)、こうしたかの「サンダース・ホーム」のような児童養護施設を想定し得るような気がしてならないのである。

   *

 雪ちらつく水のほとりのアースの線

 吹雪かれて切れしを繼なぐアースの線

 これはもしかすると直前にソリッドにある飛騨の温泉での嘱目吟であるのかも知れない。温泉の電気器具のアース線が、しづ子の眼に止まった。私の深読みであろうが、しづ子のこのアース線への視線がひどく気になる。地に総てを流して、総ての電気を流して感電することを避けるためのアース線――あらゆるリスクを回避する地にむすぼれた線――これはしづ子の決意と同じではなかったのか?!

   *

 ひとあらぬ體ぬちめぐる霧笛かな

 ナ行音を配した空疎な殺伐とした本句を以て、本句稿の抄出の最後とする。

秋の夕陽の匂いがした

アリスと散歩した夕刻――

山の辺の路に斜めに指す夕陽に――秋の匂いがした――

母の死以来――ほっとする一瞬を――久しぶりに味わった気がした――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年二月十二日附句稿九十九句より (2) 師巨湫刹那邂逅句群 二十一句

 先に述べたが繰り返す。昭和二十七(一九五二)年二月四日午前零時、しづ子は岐阜駅で師巨湫と数分間の再会を果たしている。それは句集『指環』出版記念会出席の確認を巨湫がしづ子からとりつけるためのものだったとされている。しかし川村氏はこの束の間の邂逅にこそ、しづ子と巨湫の秘密が隠れており、しづ子の永遠の失踪の序曲の開始を意味する調弦があると推理されている。その文章の緻密さと冴えは、是非とも原書をお読みあれ。以下、その謎の師との刹那の邂逅を詠じたと私が判断する句稿末尾の句群、二十一句を総て掲げる。なお、しづ子と巨湫のこの再会は、巨湫の『樹海』昭和二十七年三月号の「内外抄」に載せた行動記録によれば『見違へる程きれいになつたしづ子と一分間ばかり逢った』とあり、川村氏は当時の時刻表を精査し、巨湫の乗った「銀河」の岐阜駅着が〇時十五分、〇時十七発で、正味二分間であったことを示しておられる。

 通りまする師にまみゆべし驛霙る

 如月の終車で着きし星きらめく

 待つひまのをりをり雪を散らす穹

 しろじろとミルクとかれし雪夜なり

 みじろがず寒さ耐えしむ瞼うち

 胸ぬちの貨車が過ぎゆく寒さかな

 三たびほど雪夜の汽車を見過せり

 星霽れの列車到りて止まりけり

 雪が散るむかふの穹に星在りぬ

 如月の星のきらめきまみえけり

 窓に倚り星の明りに人さがす

 雪つけど觸るるべからず御師の眉

 再會を約す二月の星なりけり

 雪の夜の御手に觸れたる握手かな

 御手はづす如月の星きらめけり

 距てゆく雪の明り貌とみし

 如月を夜更けて歸る星在らぬ

 間道を車驅けしむ霜夜の燈

 い寐やらぬ一夜あかつき寒みけり

 い寐やらぬ一夜霜の曉けにけり

 俤は霜と白みて曉けにけり

 ――冒頭、師を待つしづ子、七句――国鉄岐阜駅。――「水色の外套を着てホームの中程に」師を待つしづ子。――霙が雪に変わる。――
 ――刹那の師との再会そして慌ただしい別れ、七句……一時、雪がやんだ……空の一角に星が見える――列車がゆっくりと入ってきて止まる……もう一度、見上げよう……雪が散る……でも……そう、確かに……私にはあの星が見える……あの「むかふの穹に」あの星は……在る……その「如月の星のきらめき」の中……私はこれから愛する、あの師と「まみえ」る……「窓に倚」って……あの「星の明りに」あの「人さがす」……先生……先生の眉に雪がついてる……でも「觸」れてはいけないの……そして……私は私の……秘密の覚悟を先生に告げた……そうして……そうして句集『指環』出版記念会の「再會を約」して……二月の私と先生……二人だけの秘密のあの星の下で……雪の夜……最後の握手だ……先生の暖かい手……いつまでも握っていたい手……でも、これが最後……握った手を「はづ」した……これもあの宿命の「如月の星」の「きらめ」く下のこと……
 ――別れての余韻、六句……暗闇へ消えてゆく汽車のテール・ランプ……その「雪の明り」の中に……先生の「貌」が「俤」となって浮かんだ……「如月を夜更けて歸る」私には、もうさっきの……あの「星」は……ない……もう、すっかり終わってしまった……それは……私が望んだ終わりの曲……「間道を車驅け」らせる……「霜夜の燈」が走馬灯のように背後へと消え去ってゆく……以前の私に私がさよならするように……帰宅して……「寐」むれぬ「一夜」「あかつき」が来た……とても……とても寒い……私の新しい夜「曉け」が……それは先生の「俤」をホワイト・アウトする……びっしりと強く真っ白に降り敷いた「霜の曉け」だった……
私はこの句群に現れる星を実際の星として見ていない。私はこの星を、『樹海』昭和二十五(一九五〇)年十一月号に載った、
 明星に思ひ返せどまがふなし
の星であり、この星は、先に示した師巨湫との秘密の換喩であると感じている。
しかし、実際にしづ子は一瞬の雲間に実際の星の輝きを見、それをあの「秘密の星」と見たのかも知れない。さればこそやはり、その星は「そこに在る」のだ。最後に株式会社アストロアーツHP「AstroArts 星空ガイド」で再現された当日の午前零時の星座表を示しておきたいと思う。――ここにしづ子と巨湫の秘密の星は確かに「そこに在る」――

195202040000

新編鎌倉志卷之六 テクスト化開始

 「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」で「新編鎌倉志卷之六」テクスト化、開始した。まずは冒頭「星月夜の井」から。膨大な注を附した。

2011/11/12

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年二月十二日附句稿九十九句より (1) 五句

 炎日はかなしからずや飛機の影

 「飛機」はぎりぎりの用法であるが「機影」という語がある以上、無理とは言えない。これと「炎日」「影」の三つのエレメントに、「かなしからずや」という強烈な感性をぶつけてつげ義春の「ねじ式」の一コマであっておかしくない句である。

   *

 經だたればいっさい喜劇柘榴咲く

 人間一人死して喜劇の柘榴咲く

 地の上半ば食みたる柘榴打つ

 小氣味よく刳りて棄てし柘榴の實

 「いっさい」はママとした。この句群に放哉の「柘榴が口あけたたはけた戀だ」と三鬼の「露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す」を紛れ混ませたい欲求に駆られる。それでしづ子の憂鬱は完成する――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年二月七日附句稿百六句より 七句

 本句稿には豊川稲荷・豊橋・富士(愛知県側からの眺望)・知多の羈旅吟を多く含むが、残念ながらそれらに佳句は少ない。

   *

 みづ色の春の雪舞ふ衣なりき

 句稿巻頭。昭和二七一月二十六日松村巨湫宛鈴木しづ子葉書。『お葉書有難うございました。お目にかかるのを楽しみにしてをります。水色の外套を着てホームの中程にをりますからさがして下さい。お氣をつけて行ってらしゃいませ。 二十六日 巨湫先生 しづ子』(川村蘭太「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」三百三十七ページ所収)。先に記した昭和二十七(一九五二)年二月四日の岐阜駅での師巨湫との再会の句である。

   *

 春冷えの影長くして壺円し

 水仙ひらくひたすら円き壺の中

 銅版画のような印象を与える、清冽な陰影と質感である。

   *

 莫迦莫迦し蟬放たしむ指のひま

 理屈には倦みし蟬ごゑじつと聽く

 うち伏せばみなそこ浸る蟬のこゑ

 蟬のこゑ木曾のみなそこ透りけり

 蟬のこゑおのがいやはて想ひけり

 私は蟬の句が好きなのである。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年二月五日附句稿百五句より (3) 四句

 戀果てやさくら吹雪を羨しとも

 思ひここに在らず櫻は花のまま落ちて

 俤や浮きて流るる櫻の葩

 ケリー・クラツケ亡し淀む水面に浮く櫻

 時折り、しづ子に去来するケリー・クラッケ追懐句群の一つ。

新編鎌倉志卷之五 全テクスト化・注釈完了

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「新編鎌倉志卷之五」、全テクスト化と注釈を完了した。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年二月五日附句稿百五句より (3) 二句

 もつとも奥營倉置くや冬めく葉

 衛兵のマフラの白さ距て見る

 これは昔、同棲していたケリーとの追想吟か。ケリーの朝鮮からの帰還後では季節が合わないし、こうしたことを体験する時間的余裕はなかったものと思われる。昔、何かの重い規律違反で営倉入りの懲罰を受けた彼に会いにゆき、基地でMPに拒絶された一コマか。若しくは、たまたま親しくなった当時のGIのエピソードででもあったのかも知れない。たった二句で物語を語る、しづ子の稀有の天分である。仮想の組み写真としても私は、書斎に飾りたいぐらい好きだ。

2011/11/11

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年二月五日附句稿百五句より (2) さくら散る幼きときの羽化の夢

 さくら散る幼きときの羽化の夢

 これはもう――私好みの句――

2011/11/10

別れのみ、にがかった。

別れのみ、にがかった。

坂口安吾「ふるさとに寄する讃歌」終章)

僕は鮮やかに断罪されなければならない

僕は芥川龍之介や鈴木しづ子の作品――言説(ディスクール)を僕なりに解析しながら「僕の芥川龍之介」「僕の鈴木しづ子」の真実を探し求めながら――

――その実、僕は「僕が愛した母」の一言一句を――

――何一つ――

――受けとめることも、共有することも出来なかったのではないか?!――

――確実に死に赴こうとする、一瞬一瞬の「僕の母」を――

――僕は全身で受けとめるべきであったのに――

――僕は僕の「飴のように伸びた蒼ざめた現実」の中に浸かったままに、何一つ受けとめてやることが出来なかったのではないか?!……

……僕は鮮やかに断罪されなければならない……

今、確かに、そう思うのである――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年二月五日附句稿百五句より (1) 五句

 ケリー・クラツケ亡し葡萄の種を地に吐く

 「葡萄の種を地に吐く」のはしづ子なのだが、私にはそれがケリーに変貌する。その地に吐かれた葡萄の種は、みるみる蔓を延ばし、実をたわわにつける――私はこのしづ子=ケリーに、キリストを見る――

   *

 米人を父にもつ子ら雛まつり

 雛の燈や黑人の子らよく育ち

 雛まつるおほかたは父わからぬ子

 このしづ子が訪ねている場所は、児童養護施設かそれに準じた宗教的な保護施設ではないか。米黒人兵と邦人女性との間に出来た私生児の子らを見つめるしづ子の眼。私は六年後昭和三十四(一九五九)年に創られる今井正監督の「キクとイサム」(大東映画)を思い出さずにはおれない。そのしづ子の限りなく優しい視線を、ここに読まずにはおれない。ここにはまた――遂にこうした子らの母になれなかったしづ子――いや、この子たちみんなの母にならんとするしづ子の――思いが裏打ちされているのではあるまいか。
 因みに、この句稿投稿の前日、しづ子は岐阜駅で師巨湫と数分間の再会を果たしている。それは句集『指環』出版記念会出席の確認を巨湫がしづ子からとりつけるためのものだったとされている。しかし川村氏はこの束の間の邂逅にこそ、しづ子と巨湫の秘密が隠れており、しづ子の永遠の失踪の序曲の開始を意味する調弦があると推理されている。その文章の緻密さと冴えは、是非とも原書をお読みあれ。

2011/11/09

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年一月二十八日附句稿百句より (2) 十三句

 倶樂部在り春の雪ふる水ほとり

 ひとごゑやストーブ燃えし四つの隅

 品定めはじまるらしき雪ちらつく

 品定めさるるに狎れし雪ちらつく

 雪ちらつくみだらに了る品定め

 倶樂部の奥寐室在るや雪ちらつく

 ことさらに寒き寐室人を招ず

 踊り場に靴がころがる雪夜なり

 玻璃透りて雪がちらつく脱げし靴

 靴脱げしジルバ続くや雪ちらつく

 うす絹やハバネラ踊る雪ちらつく

 連続する十一句を採った。今後、当たり前のことを二度とは言わぬ――
――「鈴木しづ子は娼婦ではない。ダンサーである。」――
 しづ子の勤めるダンス・ホール――だから四隅にストーブ――しかし、今日の客の米兵はあたしとダンスを踊る奴は、いそうもないわ、あの眼――早くも接待婦の品定めが始まった――生と性に疲れて、ホステスの女たちは、もうすっかりその忌まわしい獣の視線に狎れきってる――みんなペアで奥へ行っちゃった――さて! じゃあ、雪のちらつく今夜は――しづ子の、誰もいないオン・ステージ――たった一人のジルバとハバネラ――

   *

 天暗く若死に以て星流る

 春めく夜回想の星失せしめぬ

 ……詮索はやめよう……しづ子だけの回想を……そっとしておこう……

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年一月二十八日附句稿百句より (1) 二十句

 雪の上雜魚を洗ひし水抛る

 腥い水が、それも雑魚を洗った水が、バッと撒かれ、ヴァージン・スノーを瀆す――

   *

 こんこんと救はれ難き雪ふれり

 常人にはカタルシス(浄化)であり、禊である、時空の経過と忘却のはずの、こんこんと降る雪も――今や、しづ子にとっては「救はれ難き」もの降れり――なのであった――

   *

 雪解けの書きてきたりし詐稱の名

 詐称してきた名は何か? それは句集『指環』という「鈴木しづ子」という「女」の詐称ではなかったか? 「書きてきたりし」の「きたりし」は――もうそろそろやめにしよう、という感慨であり、「雪解けの」はダイレクトに下五「詐稱の名」を修飾する。――冷たい雪でデコラティヴしてきた詐称の名は、もうお仕舞いにしよう――ものとしづ子に戻るの――雪解けだわ……もし、そうだとすれば――しづ子は我々の前から永遠にその姿を消し去る凡そ九ヶ月も前に――私には、その「覚悟」が出来ていたものと見える――

   *

 この一夜遠謀失せし北斗凍つ

 私はこの句を前の「雪解けの」句の同詩想のものと読む。実際に前句の三句後にある。「この一夜」自ら望んだ訳ではなく、しかし拒みもしなかった――『指環』の――娼婦の――転落の――エロティカルな―俳人「しづ子」――その「遠謀」に対して求心的にも遠心的にも――全天回転軸たる冷然とした北斗の如く、きっぱりと――冷徹にして厳然たる「ケリ」をつけるのよ、今夜――という覚悟として、である――

   *

 澄む穹や意氣地なき子も凧あげて

 私は凧を揚げたことがない。揚がった凧を見上げた至福の思い出がない。ただ唯一の記憶がある。幼稚園の頃だ。新聞紙の長い脚を附けた奴凧をずるずると地面に牽きながら泣いている私の記憶――

   *

 生物の如く枯枝の日すさる

 一方の井桁に置きし凍瓶

 夏雲や以南の航路ゆるされず

 風の中爪立ちて見るしんめかな

 國若し寒さ中なる新芽吹く

 冴返る唇紅がつく紙の面

 小返る剃りて變へたる眉の形り

 掌の上や悲喜失せしめし椿の葩

 星とぶやいつさい棄ててはばかるなし

 頭あぐれば星は星の光りもつ

 屋の上を戀猫通る鏡中

 大寒の甍の面や雨の跡

 命沙汰持ちしことあり露けき手

 われと吾が鼾おぼえし餘寒かな

 蕗の薹吾ら一族失せにけり

 私には――今の、ある心的状況下にある私には、というのが正しい文法だ――この句稿群に激しく共感するし、やはり、まさにここで、しづ子には大きな心理的な変化が起こっているとしか思われない。それ程に、使用語彙や詩想に、本来のしづ子のキレが鮮やかに戻ってきているのだ。

2011/11/08

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年一月二十三日附句稿百四句より (3) 十句 又は しづ子は娼婦ではない

 霙るる葉此の國厭ふやむかたなし

 ここまで読み進めてきた私には、やはり、その切実さの重量に於いてしづ子は寺山修司を遙かに凌駕していると思う。

   *

 射たれて死すといふマタ・ハリを讀む白薔薇に

 上海へこころはしるや槻芽立つ

 東洋といふ語の魅力槻芽立つ

 讀む雪の十九世紀の血を憶ふ

 「マタ・ハリ」芸名《 Mata Hari 》は本名《 Margaretha Geertruida Zelle 》マルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ(一八七六年~一九一七年)。パリのムーラン‐ルージュの人気ダンサー(高級娼婦の肩書を記すものもある)。マレー系オランダ人(「マタ・ハリ」はマレー語で「太陽」の意)。第一次世界大戦中、ドイツのスパイの嫌疑をかけられてフランス軍に捕縛、一九一七年十月十五日、バンセンヌの要塞で銃殺刑に処せれた。以後、女スパイの代名詞となるが、現在は冤罪に近いと考えられている。

Matahari

 「槻」は「つき」で欅の別名。私の想像であるが、しづ子は読むマタ・ハリの評伝から、東洋のマタ・ハリ川島芳子を連想しているのではあるまいか。そこで彼女は「美的装束をして街を闊歩した詩人」(梶井基次郎「檸檬」)になった――続く幾つかの句では、この今の状況下にあって、日本人として生まれたことへの嫌悪と忌避を露わにしている――

   *

 あらためて指紋とらるる霙るる燈

 あはれ指紋すべての娼婦とられたり

 ダンサーも娼婦のうちか雪解の葉

 警察より戻る雪解の徑と橋

 紙貼りて休業つづく一月盡

 正月明け、何らかの違法営業行為や事件によって、しづ子が専属ダンサーとして勤めていたダンス・ホールが検挙されたのであろう。確かに彼女の勤めていたのは実質的にはダンス・ホールを表看板とした、半ば公然たる売春営業も行う店であったのであろう。但し、川村氏も子細に調査されておられるが、そうした慰安婦と、客を呼び込むためのホール・ダンサーは求人に於いても職務に於いても、厳密に分けられていた。何より、これらの句群を素直に読むなら、この事件を冷徹にドキュメントしているカメラマンしづ子が、娼婦でないことは一目瞭然である。手入れによって警察に一斉検挙されて、十把一絡げで否応なく連行されてしまったしづ子――指紋を採られる接待婦(売春婦)たちを見ているしづ子――そこで一律娼婦扱いで犯罪者の如くしづ子の指紋をも採ろうとする警官に対し、抗議するしづ子――しかし、所詮同じ穴の貉どもと罵倒され「ダンサーも娼婦のうちか」と溜息をつき、接待婦たちと一緒に釈放され、雪解の道を帰ってゆくしづ子……営業停止を受けた、人気のない、寒々としたダンス・ホール、その入り口の、休業の張り紙(ズーム・イン)……一月晦日の寒風が、剥がれかけた、それをパタパタと煽る……

はっきりさせておく。

しづ子は娼婦では、ない。

言っておくが、私はただ、事実を述べているのだ。

問「しづ子は事実、娼婦であったか、なかったか?」

答「娼婦ではなかった。」

という、ことである。僕の言説(ディスクール)はそれ以上でも、それ以下でもない。

――しづ子は娼婦ではない――

2011/11/07

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年一月二十三日附句稿百四句より (2) 音楽句二句(音源リンク附)

 雪深しラ・モローチヤを聽く眠りしな

 この夜の爐火アンネンポルカ愉しく聽く

 「ラ・モローチヤ」スペイン語《La morocha》は「小麦色の娘」の意。1905年に発表されたエンリケ・サボリド作曲アンヘル・ビジョルド作詞になる著名なタンゴ。――ここで実際に聴きながら――しづ子の句を味わっては――いかがです?
 「アンネンポルカ」《Annen-Polka》はヨハン・シュトラウス二世、一八五二年の作品。曲名は一般にはオーストリア皇帝フェルディナント一世の皇后マリア・アンナ《Maria Anna von Savoyen》に捧げられたことによるとされるが、一説には彼が音楽家を志すことに反対した父シュトラウス一世に隠れて、こっそりと音楽修行をさせてくれた母アンナ・シュトライム《Anna Streim》に感謝と愛情を込めて捧げられたとする説もある。――これは彼女を強引に支配した父俊雄と正反対であり、そんなワンマンな男の妻として苦労の中で死んでいった、しづ子の最愛の母綾子のことをも連想させる。尚且つ、この母アンナについてはその出自に諸説があり、宿屋の娘・料理店の娘・居酒屋の娘とも、先祖はスペインのジプシー(ロマ族)であるとか、いや、スペイン王国の貴族の末裔等々、様々に取りざたされている、まさにしづ子好みの女性であるとも言える。――ここで実際に聴きながら――しづ子の句を味わっては――いかがです?

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年一月二十三日附句稿百四句より (1) ケリー・クラッケ・メモリアム・テキサス句群

 ケリー・クラッケ・メモリアム・テキサス句群とは私のつけたもの。句稿の冒頭七句。総て採る。

 テキサスの雪を言ひしが逝きしなり

 テキサスの雪に埋もれし生家ときく

 テキサスの雪に母をき逝きしなり

 テキサスの雪に還りてより死せり

 雪ふれりテキサスに置く一人の墓

 魂還れテキサス想ひ哀しめり

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年一月二十日附句稿二百十二句より (3) 伊勢参宮志摩鳥羽遊覧句群後から三句

 炭火はぜはつと思ふや指纎う

 菊さむしなきがらを見ぬ人の死へ

 貌そむけ笑ひこらへし雪の松

 伊勢志摩から戻った彼女は風邪を惹いて寝込んだ。勿論、そこにはケリーの死という衝撃も作用している。この部分の句は勿論、全体にトーンが低く、しづ子独特の生=性のエネルギが感じられない。それでも生きねばらぬ……笑わなければ……

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年一月二十日附句稿二百十二句より (2) 伊勢参宮志摩鳥羽遊覧句群七十数句から十句

 この句稿中には七十数句に及ぶ、直近の伊勢参宮と伊勢志摩鳥羽遊覧の羈旅嘱目吟が並ぶ。しづ子にしては珍しく歌枕を散りばめ、ほとんどが素朴な写生句である。おそらく吟行帳にリアル・タイムに記したものをそのまま引き写したもののように見える。私がその句群の最初と最後(岐阜着)と考える句と他数句を示す(「御酒享けし」の「双」は正字にしなかった)。

 初詣での人の中なる伊勢路かな

 二つの宮へだて在すや白椿

 御酒享けし双手冷え冷え裹みけり

 冬の苑のみなそこ深く鯉呼べり

 暴れあとの波立ち寒し夫婦岩

 初日の出待つ掌の中の石一つ

 鳥去りにし霧のふなばた冷えにけり

 冬晴れやかちどきに似し波がしら

 立てばここ驛は月下の陸の果

 正月の旅をへにけり手の疲れ

 「立てばここ」の「驛」は鳥羽駅、「陸」の読みは「くが」であろう。これだけの句を吟じて夜行で来て夜行で帰る二日の旅でこの膨大な句を記せば――これは確かに「手の疲れ」が目から鱗――しかし――久々の旅情を得て帰宅したしづ子を待っていたのは――愛するケリーの訃報であった――

2011/11/06

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年一月二十日附句稿二百十二句より (1) 二十一句

 生理期の吾が頤を寒しと見る

 炭つぐや吾が生理期の指纎う

 生理期の吾が手冷やこき限りなり

 「生理期」句全三句。こうした表明が文学的に忌避されることが当然の社会は未成熟というべきである。ホモ・サピエンスにとって、
 生=性
であり、
 性=生理
であり、
 生理=生の実在
の認識であると言ってよい。そもそも、その最初期に女性のメンスを「生理」と日本語で表現した人間は、実にそうした真理を押さえていたとも言えないだろうか?――「纎う」は「しなう」(歴史的仮名遣では「しなふ」)で、個人的にはこの句がいっとう上手いと思う。

   *

 示されし盲腸すでに一個のもの

 ついさっきまで肉体の一部であったものを厳粛に見つめるしづ子である。私の共感する一句である。

   *

 靑春は女人に短し寒菊黄

 しづ子の著名な「たんぽぽ黄」でもそうだが、しづ子の句は、シナリオに於けるある技法と同じ効果を狙っている。一般に脚本家はカメラの指示をしてはいけないというのがカメラマンに対する一種の礼儀である。しかし、やはり作家の中にここはアップで撮って欲しい場面は必ずある。その場合の一つの「合法的な」手法に、対象を格助詞の「の」で繋げながらアップにしたい対象物を最後に持ってきて体言止めにするというのがある。しづ子はそうした技を生得的に身につけていると言える。読む者は「寒菊黄」は「寒菊」の黄色い花びら接写せずにはいられないからだ。

 東京の雪か雪つけ本きたる

 受取りし吾が手冷やこし詩の本

 送られきし雪にしめりし句集の本

 紙の上吾が詩ならぶ雪明かり

 二句目の「詩」は「うた」と読ませるか。しづ子が自身の第二句集『指環』を手にした際の句であるが、そこには何らの浮き立つ思いは感じられない。寧ろ、総てが雪の冷気の中にある――しづ子の『指環』は既にして――雪の上に書かれた儚い絵文字なのであった――

   *

 霧の燈よおほかたの過去忘れたり

 菊の雨むかしはむかしの詩もてり

 先の「紙の上」の後、二句を挟んである句。これがわずか三十二歳にして第二句集を手にしたしづ子の正直な冷めた感懐であった。それはケリーの死が共時的なかったとしても――私は余り変わらぬしづ子の思いであったと思う。

   *

 冬芽立つ吾が戰前の戀憶ふ

 かの雪の深き記憶や子どもごころにも

 いまは昔雪に死したる人あまた

 たしか吾が幼稚園の頃かの大雪

 先の「菊の雨」に続く一句。『指環』という余所行きになって派手な衣装を纏わされた句集から、しづ子は『春雷』以前の、純情な乙女の時分に、少女の頃へと意識を遡る。それは伝説の「しづ子」の句集『指環』へのかすかな――自嘲――ででもあったかも知れない。この句の雪は「あの日」の雪である。次の句。

 二・二六事件の雪と較ぶる癖雪積れば

――しかし、我々は気づいてしまう――しづ子は「しづ子」を最早、演じ続けねばならぬ宿命を背負ってしまったのだ……昭和十一(一九三六)年二月二十六日……この時、事実は彼女は幼稚園児ではなかった……淑徳高等女学校に通う十七の乙女であった……それにしても、この句の十三句後にしづ子は「この雪やかの大雪の日につづく」と詠んでいる……しづ子の戦後は戦前と直結していた……しづ子の戦後は永遠に終わらなかった……いや……今も……終わってはいない……

   *

 雪積むや東京を戀ふこころ持つ

 追憶がしづ子を刺激した……しづ子の懐かしい東京への憧れが少し首をもたげた……

   *

 氣の強さ丑年生れ柚子は黄に

 一葉の死せし歳過ぐ冷やこき手

 誕生日東京に雪在る無しや

 脈寒く二十七年經てきし手

 「氣の強さ」の句は「丑年生まれ」が必ずしも作者と限定して読めないような流れでは作られている。因みに、しづ子は大正八(一九一九)年六月九日生まれで、生年の干支は己未である。しかし続く「一葉の死せし」でそれが限定される。樋口一葉は満二十四歳で亡くなっているから、この時、満で三十二歳のしづ子とは八歳違う。三十二歳で「一葉の死」んだ二十四歳を「過ぐ」とは、恥ずかしくて逆立ちしても言わないであろう。大正の丑年生まれは、乙丑の大正十四(一九二五)年である。――そしてしづ子の妹正子は大正十四年一月二〇日に生まれている。――正子は、この昭和二十七(一九五二)年一月二十日で満「二十七」歳、「一葉の死せし歳過ぐ」歳であったと言ってよい。――しづ子は妹の年齢を詐称していたのである。――それも「誕生日東京に雪在る無しや」と言い得る――一月二十日という誕生日――さえも――まるで――しづ子はマルセル・デュシャン!――

母聖子テレジア連禱

句集「鬼火」に4月以降、ブログに書き散らした句屑を「母聖子テレジア連禱」として追加した。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年一月十一日附句稿百五句より八句

 これだけの句数ながら、やはり全体に著しく力がない。拍子もぎこちなく、語彙の輝きも著しく減衰している。ケリーの死の心痛が伝わってくる。

   *

 迎年の死戰に生きし生命かな

 「逝きし人に、かつては」という標題の冒頭句。ケリーへのレクイエムとして重厚できりっとした名句である。

   *

 暴れしあと月の有明死の如し

 髮なびくここ月明の有明海

 珍しい羈旅回想吟が現れる。有明海を詠み込んだ四句の内の二句。しづ子は過去に台風の直後の有明海を訪れている。

   *

 上流へ約八町の枯日かな

 冬映えの木曾のみなそこ透る石

 これも小さな旅。十数句続く木曽川での吟。何度も訪れているようで、句群の中には初夏の景を回想して詠じている。しづ子の好きな場所であったことが分かる。昭和二十六(一九五一)年十一月二十九日附句稿で採った「みなそこは冬のはじめの草と石」も木曽川と思われる。

   *

 ことし青葉の頃こそ行かむ桃太郎の出生地

 ……しづさん、愛知県犬山市栗栖(くりす)の桃太郎神社のことでしょう?!……僕も行きたいんです……今度、一緒に行きましょう!……キッチュな人形を二人で眺めましょう、しづさん……

   *

 頸根つく伊勢のかがり火凍てにけり

 離るればあかつき闇のかがり火凍つ

 川村氏略年譜にある、この元日の三重の伊勢神宮参拝を裏付ける句である。川村氏ははっきりと二年参りとしているから、しづ子は大晦日から出掛けていることになる。そして――この帰宅した元日に、すづ子はケリーの訃報を手にした――。「離るれば」は句稿の掉尾である。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年一月二日附句稿百五句の内 前掲ケリー・クラッケ悼亡悲傷句群全二十一句を除く残り八十四句より十一句

 この頃や人の死つづく黄水仙

 この句は先のケリー・クラッケ悼亡悲傷句群の最後と私がとった「一つの屍茫々霧をへだてけり」から三句目にあるが、この静寂と弛緩はケリー・クラッケ悼亡悲傷句群以前の句と私はとる。

   *

 人の子のお手玉縫ふて大晦日

 私が冒頭のケリー・クラッケ悼亡悲傷句群を除く本句稿の下限を昭和二十六(一九五一)年十二月三十一日とする根拠の句である。

   *

 霧もむら立つ人死なしめしこころの裡

 これが私にとって戸惑う句である。ケリー・クラッケ悼亡悲傷句群の「こころの墓霧立ちのぼる人の死へ■」の類型句であることは間違いなく、ケリーの死を、愛する者を守るべきであった自分を「死なしめし」と表現したものであろう。本句はしかし突如、日常の句家柄の間に挟まって登場する。言い訳がましいが私は、しづ子が投句句稿を清書する内に、「こころの墓霧立ちのぼる人の死へ■」の句を推敲し、ここに改稿を挿入したものという如何にも苦しい仮説でも立てるしかあるまいか。――しかし実際には私は、強引に見えるかも知れないが、「この頃や人の死つづく」と感じていたしづ子の、本句はケリーの死以前に死にかけたケリーやあらゆるしづ子の愛した死者たちに対するレクイエムとして詠んだ句だ、とおめでたくも信じているということを告白しておく。そしてこの句の十句後に続く三句を見てほしい。

 霧もむら立つ麻藥求めてやまざりし

 霧もむら立つ生きる屍とはうべなるかな

 霧もむら立つ人と契らば末遂ぐべし

これは、「死んだケリーの回想」ではない――「霧もむら立つ」中から浮かび上がってくるあの人、「麻藥求めてやま」なかった、さもありなん、伝え聞けば今や祖国アメリカで「生きる屍と」なってしまったというケリー、でもそのケリーと私は契ったのだ! 「契らば末遂ぐべし」! 「ケリーとなら死ねる」! ――という一連の句群である。最後の句は文字通り、この前の句稿の「傲然と雪墜りケリーとなら死ねる」にジョイントする。則ち、「霧もむら立つ」という詩語はしづ子の中で、ケリーの訃報を受ける以前に、醸成し使用していた語彙なのである。さすれば、「霧もむら立つ人死なしめしこころの裡」がケリー訃報以前の句であったとしてもなんらおかしくない、というのが私の見解である。

   *

 寒雲に忌むや啄木と一茶殊のほか

 寒雲に忌むやたつき貧しきことの詩

 二人の詩人を詠み込んだ贅沢と、しづ子の句想を考える上で面白い句である。彼女は経済的貧困を訴えることを主眼とした詩を、それが期待する憐みや同情を忌み嫌い、生理的に嫌悪したということである。確かに、その反転画像にこそしづ子のポーズがあることに我々は気づく。

   *

 小説より詩へ俳句へわが三轉のひやこき手

 ……しづさん……あなたの詩は読みました……小説、読みたかったな……

   *

 吹雪く夜や裏返しをく壞れし時計

 雪の中犬が動かす箱の蓋

 なんだかヒッチコックのワン・シーンのようだ。こうしたモンタージュや編集は、まさにしづ子の真骨頂である。映像処理の観点からしづ子の俳句をヴィジュアル化してみる人は出てこないかな、きっと面白いと思うのだけれど。

新編鎌倉志卷之五 大仏

「新編鎌倉志卷之五」を「大仏」まで更新。注に書いたが、電車賃を捻出するために、昼飯を駅前の林檎一顆にして、それを齧りながら鎌倉の山中を彷徨った。三十年前の鎌倉はこんなに混んでいなかった。ちょっと谷(やと)に入ればひっそり閑として、田圃に蓮華が咲いていた。今や、紅葉も踏みしだかれて粉になっている。田を探すことも至難の技だ。経済効果を狙う前に、自然と環境をもっと保全する策を立てなければ、「世界遺産」となった途端に、僅かな鎌倉らしささえも、完膚なきまでに消え去ってしまうであろう。そしてただ「新編鎌倉志」や「鎌倉攬勝考」の中にのみ、往時の土の匂いを夢想するだけ――これは如何にも淋しいことだ――

2011/11/05

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年一月二日附句稿百五句より ケリー・クラッケ悼亡悲傷句群全二十一句

 同句稿の巻頭二十一句を漏れなく採った。後半の数句は必ずしも亡きケリー・クラッケへの追悼哀傷に留まらないものを――しづ子が最も愛した第二次世界大戦で戦死した日本人の恋人への感傷の遡及を――感じるけれども、それはしづ子の愛の喪失という中で心傷(トラウマ)としての聖痕(スティグマ)として渾然一体のものであるから、私は敢えてそこまで採ることにした。「ケリー・クラッケ悼亡悲傷句群」とは私が仮に附した標題である。「■」は川村氏の判読不能の字を示す。

 霧の洋渡り渡りきし訃報手に

 霧五千海里ケリー・クラツケへだたり死す

 訃報掌に霧もむら立つ體のほとり

 こころの墓霧立ちのぼる人の死へ■

 霧濃き中哀感そそる死びとの眼

 地の果や霧に隠れし七つ星

 嚙めば血潮は熱くとどろくかひなかな

 かばね置く霧をへだてし東のかた

 霧うすうす立ちてとどかぬものは距離

 すべて總てがみをさめなりし霧月夜

 霧月夜髮ふれしめし記憶もつ

 黑人の哀しさ言ひし霧葉かな

 圍ひなす霧中叫び得ざりしか

 霧立てばこころしづかに狂ふ日つづく

 葉の上に滴りしも愛の終止符

 霧徐々に人の體とらへけり

 屍すでに抵抗はなし霧濃き中

 悲劇はこの世だけでいいスクリーンの白雪

 まぼろしの霧の手袋片手に持つ

 霧去りしこころの裡の水漬く屍

 一つの屍茫々霧をへだてけり

 次の一月十一日附大量句稿には「押繪羽子板」や「元旦の燈」が詠み込まれているが、新年の句はこの句稿にはない。総て「年の内」の句であり、「大晦日」を詠み込んだ句一句、末に並ぶのは「年越」句群五句である。恐らく、一月一日にケリー・クラッケの訃報を受け取ったしづ子は既に準備していたもっと後に送るつもりだった年内の投句稿の頭に、これらのケリー・クラッケ悼亡悲傷句群の衝撃を詠んだ句を急遽追加して、衝動的に巨湫に送ったものであろう(但し、一句だけこの後に追悼句と思われる「霧もむら立つ人死なしめしこころの裡」が混入している)。これを松の内に受け取る巨湫の気持ちなんぞを考えるゆとりなど、しづ子にはなかった――だからこそしづ子らしい――いや、巨湫にだけは――この慟哭のシャウトを聴かせたかった――聴くべき義務がある――としづ子は思ったのかも、知れない。

 ――この元日はしづ子にとってアンビバレントな日でもあった。――
 この日、しづ子の真の意志とは無関係に、鳴り物入りで予告されていた第二句集『指環』が、随筆社から刊行されているのである。

 ともかくも彼女にとって第二の人生を選択出来た、かも知れない、この句集出版の喜びも――このケリーの死によって、舞台の模造の雪片のように、儚く吹き散ってしまったかのように私には思われる――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十六(一九五一)年十二月二十四日附句稿九十六句から二十三句

 現存する昭和二十六(一九五一)年最後の句稿である。

   *

 人の子の雪の日曜吾も遊ぶ

 雪合戰に額打たれし顰むるなく

 好きな子を敵に取られし雪合戰

 この體在學最後の年や雪合戰

 雪合戰の雪つけてきし幼な髮

 しばし待て雪にしめりし髮乾す間

 句稿の冒頭から「雪」「積雪」の語句が示され、「雪の縣道事故」「ラツセル車」が詠まれ、雪の詠まれぬ句は一句もない。その十六句目が「人の子の」の句であり、次の句から雪合戦連作が実に十五句、掲げた「雪合戰の」句まで続く。これは、ご覧の通り、岐阜のある大雪の日の知り合いの子らの雪合戦の嘱目吟に始まるのだが、その中間部、子らの雪合戦のフラッシュ・バックの映像が、何としづ子自身の少女期へと変容し始めるという不思議な連作である。子らの歓声のSEと雪玉のアップの句が続いて「好きな子を」の句の辺りから時間が巻き戻されている。次の「この體」は既に雪合戦をしている少女しづ子自身の映像である。「幼な髮」とあるが、これは「雪合戰」と「髮」のみが「幼な」い、しかし「體」は女である高等女学校「在學最後の年」の「雪合戰」の追憶である。休み時間の雪合戦から教室に戻った女子生徒は次の時間の、若き国語教師に目線で――「雪合戰の雪」に濡れてしまった「幼な髮」の「しめ」ってしまったこの黒「髮」を「乾す」少しの「間」だけ「しばし待」って――と媚を送っているのではあるまいか? 私の雪合戦句群の解釈は牽強付会か? そうかな? この「しばし待て」に続く以下の六句をご覧あれ。

 師を好きて好きて卒業したりしこと

 戀初めの國文の師よ雪は葉に

 雪は葉に高師卒へたる師の講義

 雪の椿折りて靑年少女の戀

 戀初めの戀失せしめし卒業せり

 雪は佳し宗教教育享けしき體

 「雪は佳し」の次からは現在時制に戻っている――その二句目には「年了るナイトクラブは雪の中」とある――しづ子は昭和十三(一九三八)年十九歳で私立淑徳高等女学校を卒業している――三十二歳の「雪の中」の「ナイトクラブ」の、ダンサーを身過ぎとする疲れた面持ちの女が回想する――十九の蒼き春の雪の思い出――

   *

 吹雪く玻璃たがひ背ける黑人白人

 雪を來し色魔の如き唇のうるみ

 米兵たちを冷徹に観察するしづ子の眼である。

   *

 明日の體はあるひは轟く雪崩の下

 聞きしこと屍美しき雪の中

 死果たさず見返りみかへり雪を來しこと

 現は死ねない記憶の雪崩背に轟き

 こころの體失せしのちにも雪かがよふ

 以上は連続する五句。しづ子と「雪崩」は『樹海』昭和二十三(一九四八)年五月号に載る「雪崩」句群以来、しづ子の好きな詩語であり、そこには秘めたエロス(生=性)のエクスタシーの「記憶」が内包されているものだが、それをここではタナトス(死)のそれに変換して、雪崩自殺願望とその未遂という稀有のエピソードに物語化してゆく。……因みに、雪崩自殺なぞはそう簡単に出来るものではないのです……雪山の遭難でも雪解け頃に見つかればいいですがね……そうでなければ動物に腐肉を裂かれ……そりゃあ見るも無残な……断裂した遺体を晒すことになりますよ、おやめなさい、しづさん……

   *

 傲然と雪墜りケリーとなら死ねる

 この句は「こころの體」の次の句であるが、「ケリー」の名を掲げていることと、前のシークエンスの自殺願望のエピソードに一区切りがついての「となら死ねる」と口をついて出た感懐と捉え、一句独立させた。この句稿では「ケリー」の名を詠み込んだものはこの一句だけである。そうして――そうして彼女がここでケリーを詠み込んだのには――ダンサー――舞姫――踊り巫女としてのしづ子の超自然的な予感が働いたのではなかったかと私は思うのだ――彼女は――この昭和二十六(一九五一)年十二月二十四日から昭和二十七(一九五二)年一月二日(次の大量句稿の日附)までの十日間の間に――ケリー・クラッケの訃報を受け取ったのではなかったろうか?――次の大量句稿の冒頭は彼の訃報から始まるからである――

   *

 そは抗ひ共産ごころすこし湧く

 最後の方から三句。「共産ごころ」とは面白い語彙だ。しづ子の型に囚われない句屑蒐集は健在である。因みに、昭和二十六(一九五一)年十月に日本共産党は第五回全国協議会に於いて「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成し得ると考えるのは間違いである」との「五十一年綱領」を採択し、軍事闘争路線に基づく組織整備を進めた年である。しづ子の言う「共産ごころ」は、そのようなものとして解釈した時、俄然、しづ子にふさわしい句となるのである。

   *

 雪の昏れ燈さずにをく好みけり

 「雪の昏れ」も一句を映像に撮りたい願望を刺激する言いっぱなしの主観句で、しづ子らしい。しづ子の句はしづ子というピアノ線の上で危うい琴線を奏でるものである。彼女の真似をしても、下手なヴァイオリンの耐え切れぬ騒音になるばかりである。

   *

 胸張ればいつさいは空(くう)雪霽るる

 「胸張れば」の句は句稿の最終句である。もし、ケリーの訃報がこの句稿やその前の十二月十九日附句稿以前に齎されていたとしたら――私はしづ子にこれだけ膨大な句稿を巨湫に送るエネルギーはなかったと思う。私はしづ子は優れたステップをドゥエンデによって生み出す霊力は持っていても、感情を抑制して巧妙な自己韜晦を演ずることなどは、いっかな出来ない人間だと思う。ケリーの死を慟哭一声も挙げずに、翌年の新年の句稿でそれを溜めておいて「演ずる」ことが出来るような卑劣な女ではない。だから私はケリー・クラッケの訃報をしづ子が受け取ったのは、この昭和二十六(一九五一)年十二月二十四日から元日までの九日間(訃報の当日に句稿を書く余裕は私ならないから日附である二日は外す)でなくてはならないと考えるのである(但し、この句稿最後に脱落があり、そこにケリー訃報の句があった可能性を排除は出来ない。しかし、新年の句稿冒頭の慟哭句は二番煎じとは私には思われないのである)。以前の鈴木しづ子に関わる記載ではこのケリーの訃報の報知やその遺品のしづ子への送付を昭和二十六年中としているものが多く、それに対する私の以前からの疑義にこだわって延々と述べてきた。――しかし実は、今気がついたのだが、既にそれには片がついているようである。最新のしづ子の年譜である川村蘭太氏「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の巻末の略年譜では、はっきりと年譜最後の昭和二十七(一九五二)年の欄の最初に、『元日、三重の伊勢神宮へ二年参り。帰宅し恋人のGIの訃報を受け取る。』と記されていたからである。これに気付かずに無駄なお喋りをしてきた私自身の愚かさを嘆くと同時に――いや、しづ子に「演技」など、やっぱりなかったのだ――という深い安堵が落ちた――私はそれだけで無性に嬉しかった――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十六(一九五一)年十二月十九日附句稿百五句から二十一句

 幸福な子の手の中の凧の糸

 人の子のそれぞれ在るや柿赤く

 人の子のことばきたなく柿熟れたり

 最初の句は「幸福な子」が説明的で陳腐であると酷評されるところであろうが、この句の眼目は「子の手の中の凧の糸」をマイクロ・カメラで捉える、そばの「それぞれ在る」ところの凧を持てぬ「ことばきたな」い「人の子の」「貧しい子」、そして「不幸な子」であった、「不幸な子」あり続けているしづ子自身にある。則ち、「幸福な子」ならざる己に繋がる外延の「不幸な子」にこそ、この「凧の糸」は遠心的に結びついているのである。

   *

 雪踏むや師い在す限りの體と識るべく

 これが最早この大量句稿が「投句稿」ではなく、巨湫へ向けての――おかしな言い方ながら、一方通行の交換日記――であることをこの句が証明しているように思われる。

   *

 春寒くリボン吹かるる不幸な子

 最初に掲げた「幸福な」をこの句に並べれば、それで憂鬱は完成する――

   *

 そは見果てぬ夢か煖爐にくべる薪

 タルコフスキイの「鏡」の、あのシーンではないか!――しづ子に「鏡」を見せたかった!――

   *

 堕胎兒が三歳となるああ四月の■の箸

 下五の「■」は川村氏の判読不能の字を示す。しかし、二〇〇九年八月河出書房新社刊の『KAWADE道の手帖』の「鈴木しづ子」に所収する底本の作者川村蘭太氏の「鈴木しづ子追跡」では、氏はこの句を、

 堕胎児が三歳となるああ正月の繕の箸

と完全表記されている(底本表記に従った)。「繕の箸」というのは如何にもおかしいから、これは「膳の箸」で、そうなると「三歳となる」と「ああ」という感慨からは特別な料理の「膳」、数え年で年をとる「正月」のお節料理の「膳」が如何にも相応しくなる。従って私は、この句は、

 堕胎兒が三歳となるああ正月の膳の箸

がしづ子の決定稿であったのではないかと推測する。昭和二十六(一九五一)年八月二十四日附句稿に現れる秘かなしづ子の堕胎連作の注で私は、「関」姓の夫との離婚が(但し、少なくともこの堕胎事件はしづ子一人の秘密であって、少なくとも夫側からの離婚の直接理由であるようには読めない)、昭和二十四(一九四九)年三月であったと考えた。堕胎がそれよりもやや遡るとして、出産予定が昭和二十五年の初春と仮定すれば、この句が書かれたのが投句と変わらぬ実際の昭和二十六年の十二月であったなら(句稿冒頭から冬の句が続くのでそれで間違いないと思う)、翌昭和二十七年の正月には、この子は産まれていれば確かに数えで三歳となっていたことになる。この句によってしづ子の秘かな悲しい、あの堕胎の連句は事実を詠んだものであったと考えてよいと思う。

   *

   ケリーを憶ふ二句

 一瞬や麻藥に狎れし眼と認む

 霧深き中すでに汝は病者の眼

 横濱に人と訣れし濃霧かな

 離るるや港よこはま濃霧き街

 さよならケリーそして近づく降誕祭

   +

 火絶え絶えやるせなきものケリーの眼

 頭振りて記憶の眼をば消さんずる

 爐火さむざむ變らぬなさけつづくべし

   ++

 見えざれど濃霧たちたる洋中とぞ

 濃霧き中見返ることぞ忘るるな

 吾が名呼はば洋上の霧うすらぐべし

「ケリーを憶ふ二句」という標題句群から。この年の八月に帰国した米黒人兵の恋人の名が初めて句に読み込まれる。次々回の句稿では「ケリー・クラツケ」というフル・ネームで登場する(但し、彼の訃報で)のであるが、川村氏は、この名は本名とは考えにくいという結論を示されている。ネイティヴの方も加わった考証で、川村氏はこれによって他の本文箇所ではしづ子の恋人を単にGIと呼称されている。詳細は川村氏の本文二百六十八ページをお読み戴きたい。「二句」というのは「ケリー」の名を詠み込んだ句が二句ということを意味しており、実際には私の判断で以上の十一句を「ケリーを憶ふ」と詠んですべて採録した(「+」の間に五句、「++」の間に一句あるが私にはケリーの映像が見えないので排除した)。「離るるや」と「濃霧き中」の「濃霧き」は、二箇所で錯字をすることは考えにくいから、これで「きりこき」と読ませているものと考えられる。「吾が名呼はば」の「呼はば」はママ。

   *

 おさげ髮の鏡の吾や寂しき貌

 これは風邪を引いたしづ子が、病床で五月蠅い髪を久しぶりにお下げに結った折りの句であるが、私などは三十二歳の「おさげ髮」のしづ子が「鏡の」中に立って、そこに写る「おさげ髮の」「寂しき貌」の十代の「吾」が姿が映っているという映像を思わずしてしまう――逆転したドリアン・グレイ――この後の句稿末尾の方に配された鏡二句(「破れ鏡とぞ」は句稿最終句)を示して、この句稿の採録を終わる。

 秋風や破片の鏡棄てがたく

 破れ鏡とぞ人の言もて譬ふれば

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十六(一九五一)年十二月十一日附句稿九十二句から九句

 この句稿の冒頭四句は川村氏によって改作の旨の注記が附されている。しづ子には改作を示すだけの思いがこれらの句にはあったと思われる。尚且つ内三句は直前の、結果的に選句されなかった大量句群の中の句である。――もしかすると、ここにこそ先の句稿が選句対象とならなかった理由を探ることが出来るのかもしれない。先の十一月二十九日附句稿群がしづ子自身にとって不満足であったか若しくは投句後、何らかの事態の変化や再考によって選句されてはまずいと彼女が判断するに至った句が混じっていたために、その投句原稿総てを次号の選句対象から外してくれるように、この十二月十一日附句稿の添え書きか何かで巨湫に依頼した可能性である。でなければ、たった十二日後に送られてきた大量句稿の冒頭に、先の句稿の四句の改作をして配するということは普通ならしないように思われるからである。――たとえばそれは、彼女の肉親に関わる句なのではなかったろうか? 実際に句稿の中には先に引いた例の歌人の叔母の句が二句及び再婚で嫌悪するに至った父の句が三句存在する。また、先に掲げた「此の金や不淨ならざる枯れ簫々」も伝説を信ずる読者には弁解染みた浅いものを感じさせ、句柄も真実のしづ子自身を語るに汲々としている印象が強く、しづ子が愛した母への追悼句としては不敬とも言える。私が感じるのはその程度であるが、その他にも公開をされたくないと感じた句があるのかも知れない。――勿論、選句対象からそれらを指示して外してもらうことも可能であるが、しづ子の性格からして、それはあり得ない気がする。そもそもそんな仕儀は選句する師に対する礼を失することになるからである。以上、私の全くの推理であるが――彼女はそのために十一月二十九日附句稿総てを諦め、纏めて葬ったのではなかったか?――但し、この仮定には難点がある。それは、これ以降の公開されている投句稿は最早、『樹海』掲載句と連動しなくなってゆくからである。恐ろしいまでの大量句稿群が波状的神経症的に巨湫のもとに送られてくることになるからである。――それは『樹海』の採句限界を無視した、しづ子の確信犯のように私には見える。――彼女は次第に『樹海』という世界から幽体離脱してゆき、師巨湫個人へ深々と礼をしながらも、絞り出した全句を素手で力任せに師の顔面に擲っているように感じられるのである。――
 取り敢えず、以下にその改作句四句を掲げておく。

 冬の燈に自信なくして坐しにけり

 雪粉粉わつと叫びて狂ひたし

 誘はれて否と言へざり蒲は穗に

 竹吹けり伊吹颪をはばむなく

それぞれの原句と所在を示す。「誘はれて」の下五の「■」は川村氏の判読不能の字を示すものである。

 冬燈下自信失くして坐しにけり
(昭和二十六(一九五一)年十一月二十九日附句稿)

 雪粉粉わつと叫びて狂ひたく
(昭和二十六(一九五一)年十一月二十三日附句稿)

 誘はれて否と言へざる蒲は穗■
(昭和二十六(一九五一)年十一月二十九日附句稿)

 竹吹かる伊吹颪をはばむなく
(昭和二十六(一九五一)年十一月二十九日附句稿)

この内、私が先に選んだのは「雪粉粉わつと叫びて狂ひたく」であるが、私の好みから言えば改作の「狂ひたし」がいい。にしても――この改作は、内的欲求からの改作という感じはまるでない。やはりおかしい。

   *

 色ならば母を譬へて寒き紫

 枯れの月いづれ此の土地離かるべし

 人の子の手を引き戻る枯野かな

 雷去りておのが髮膚にほひけり

 風邪癒えて妙に空きある木木のひま

句稿には「母の墓たつ」と「昭和十八年六月、はじめて樹海句會に出席して」の標題を持つ句群を含むが、私には妙にリズムがぎこちなく、普段のしづ子らしい語彙のひらめきも感じられない。心づくのは以上の三句のみである。『樹海』昭和二十七(一九五二)年三月号には、この十二月十一日附句稿九十二句から十一句が採られている。私の採った「色ならば」「枯れの月」「雷去りて」の三句はその中にある。なお、そこには(以下、表記は二句ともママ)、
 きっぱりと冬の木が立つ風茜
が載るが、句稿では
 さつぱりと冬の木が立つ風茜
である。

2011/11/04

新編鎌倉志卷之五 稲瀬河

「新編鎌倉志卷之五」を「稲瀬河」まで更新。僕の大好きな弁天小僧菊之助の名台詞を注に掲げた。いつ聞いても、いいんだな、これが!

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十六(一九五一)年十一月二十九日附句稿百三句から二十一句

 この大量句稿も不思議な現象を見せている。ここから『樹海』二月号には全く採られていないということは前に述べたが、実は、それどころではなく、この句稿からは『樹海』の如何なる号にも一句も採られていないのである。これはどういうことか? 私はこの百三句を総てボツとした巨湫を想定出来ないわけではない。しかし――総ては謎である――まずは「母の墓建てむと」の標題の手前までの句から七句採る。

 みなそこは冬のはじめの草と石

 冬枯れの崖くだりゆく足場かな

 冬雲や自惚れとそをいふべきか

 花槐歌人なれども嫌ふ叔母

 醉漢や雪の片々眼にとらへ

 雪粉粉麻藥に狂ふ漢の眼

 一瞬や殺意めきたる薔薇紅し

 雪はげし汝れに言ふべきことは死ね

 最初の二句は写生句であるが、しかし、やはりしず子の心象風景が、そこにオーバー・ラップする。水底には草と石が溺死している。水底ははしづ子の冥府である。冬枯れの崖の下降の足場のぐらつきは、そのまましづ子人生の転落の危うさを象徴する。その心象風景が次の「冬雲」に投影され、そこでは既に写生を失って「露悪的な自惚れ」のしづ子の内的な虚空を描き出している。
 「花槐」に登場する叔母はアララギ派の歌人であった鈴木朝子である。川村蘭太氏の「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」のしづ子の評伝部分は、このしづ子の父敏雄の妹の歌集や叙述を主軸にして展開している。特にしづ子の少女期から青年期にかけては、この朝子との関係が謎めいた鈴木しづ子の心理を推定し得る唯一の第一級資料となっている。詳しくは当該書をお読みあれ。
 「雪粉粉」直前の「酔漢や」に「雪の片々眼にとらへ」の描写が、この酔漢が黒人であることを暗に示しているように思われる。米兵相手のダンス・ホールのダンサーだった彼女のリアル・タイムの実景であろうが、それはアメリカへ帰ってしまった薬に冒された黒人兵の恋人の回想へと直結している。
 「一瞬」「殺意」「めきたる」「薔薇」の語の選びと、自動描法(オートマチスム)めいた接合がいい。
 「雪はげし」またしても橋本多佳子への確信犯句である。伊東静雄の「水中花」(昭和十二(一九三七)年作)のインスパイアでもある。しづさん、美味しいところばかり、ちょっと贅沢ですぞ――

   *

 以下、「母の墓建てむと」の標題以降、句稿最後までから十四句。

 此の金や不淨ならざる枯れ簫々

 犬の眼に唯一瞬の野火映る

 ここは死の斷崖という冬の月

 秋の蛾の人の如くに玻璃を打つ

 どこからか昨夜の秋蛾のきたりけり

 二夜來ていのちをはりし秋蛾かな

 秋の蛾に玻璃は閉ぢられゐたるまま

 蘆は枯れ言はずに濟ます事と事

 冬田中二三樹が立つ墓どころ

 慾情すればもつそり起きる阿片患者のぎらつく汗

 木の芽たくまし國際結婚興味なく

 雪崩の記憶戀變へるたび好き詩生れ

 狂戀の琴の師匠や花ひひらぎ

 ひひらぎや戀に狂へど巧む藝

 渦なせど冬のみなそこ何も無し

 「此の金や」には、伝説の「しづ子」を否定するしづ子の姿がある。彼女はあくまでダンサーであり、娼婦ではない、矜持を我々はこの句に見なくてはならない。
 「犬の眼に」森山大道の画質の荒く、それでいてエッジの鋭いモノクロ写真を見るようである。しづ子は接写の妙を弁えた鬼才である。
 「死の斷崖という」場所は随所にあろう。しかしこのしづ子が立つのは何処でもない彼女心象の中の「死の斷崖」である。そこに心の臓を貫くような尖った凍てた「冬の月」が永遠に掛かっている――。
 「秋蛾」の連句はうまい、これは橋本多佳子の例の『紅絲』の中にある「秋蛾」という標題句群を意識しているのかも知れないが、多佳子の「秋蛾」が「沼水に捨てし秋蛾のそれぞれ浮く」というクールな突き離し一句にのみ現れるのに対して、ホラー映画のように霊的な秋蛾を四カットで撮りきったしづ子の手腕は尋常な技ではない――この蛾は蛇笏が芥川龍之介の魂を「秋の螢」になぞらえたように、しづ子の愛する死者たちの魂である――
 「冬田中」は単なる嘱目吟にも見えるが、遠く標題「母の墓建てむと」の句と読む。
 「慾情すれば」の「阿片患者」は実景ではなく、大陸の清末の歴史的夢想句のように私には読める。勿論、そこには、この八月に朝鮮戦争から戻った薬中となり果てた恋人をダブらせて、ではあるが。いずれにせよ、どぎつい「しづ子」の伝説の強化剤の一句ではある。
 「木の芽たくまし」を読むと、後日、しづ子がアメリカに亡き恋人の面影を追って行き、そのまま失踪したという伝説は信じ難いという気が私にはしている。現実のしづ子は完全な自暴自棄に投身するような弱い女ではない。打ち砕かれ切り倒され焼かれても「たくまし」く「木の芽」を吹く女である。
  「雪崩の記憶」は前掲した『樹海』昭和二十三(一九四八)年五月号の「雪崩」句群に響き合う句である。
 「狂戀の琴の師匠や花ひひらぎ」と「ひひらぎや戀に狂へど巧む藝」によって、先に掲げた昭和二十六(一九五一)年九月二十八日附句稿百五句の中の、「彈き初めの翏を競へり戀きそふ」と「翏と戀競ひしことぞ掌の胡桃」が、

彈き初めの琴を競へり戀きそふ

琴と戀競ひしことぞ掌の胡桃

であるという確信を私は強く持つ。
 私はこの句稿の抄出で第一句に、「みなそこは冬のはじめの草と石」を採った。それにこの、句稿の最後から三番目にある句を並べて見よう。

 みなそこは冬のはじめの草と石

 渦なせど冬のみなそこ何も無し

――初冬の遺骸の草と石の映像は――タルコフスキイの「ストーカー」の水底の移動撮影のように動きながら――真冬には何もかもがなくなってゆくのである――

本記載より、将来のHP版への一括記載を想定して「僕」を「私」にし、標記の細部(縦書に対応させるための年号の漢数字化)などで今までとは記載方法を変えることとした。統一が崩れるのは悪しからず御了承頂きたい。

2011/11/03

自発核分裂とはまた勉強させてもらったがね

アカデミズムが軽蔑するウィキの「自発核分裂」で勉強させてもらった。聞いたことないもんな。そこには『自発核分裂はその名の通り原子核分裂反応と全く同じ物理過程であるが、中性子やその他の粒子による衝撃を受けることなく分裂が始まる点が通常の核分裂と異なっている。陽子が多く中性子があまり多くない核種では陽子同士に働くクーロン力の影響で原子核全体が不安定な状態にある。このような原子核が量子力学的な揺らぎによって自発的に核分裂を引き起こす過程が自発核分裂である。自発核分裂では他の全ての核分裂反応と同様に中性子が放出される。そのため、臨界量以上の核分裂性物質が存在する場合には自発核分裂が核分裂の連鎖反応を引き起こしうる』と書いてあるぜ。まあ、ね、冒頭に『この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です』とあるから、笑い飛ばして無視するのも――お前らの勝手だがね――♪ふふふ♪

義母のこと

昨日、妻が名古屋から戻ってきた。義母は驚異的に好転している。と言っても、もう二ヶ月以上、口からは食物を摂取していない(下腿血管からのカテーテルによる栄養摂取である)。心筋梗塞で、心臓の働きも正常人の30%以下であることに変わりはない。

しかし――妻が、妻の妹の娘の来年の結婚の話を義母にしたそうだ――

看護師の彼女は「松原」という姓で、フィアンセは「林」という――

妻が妹の娘の姓が

「松原が林になるんだよ」

と言うと、義母はすかさず

「地所が増えるの」

と言ったそうだ。

素晴らしいジョーク! これは如何にも高度な洒落ではないか!

義母のアルツハイマーは進行していない、と僕は思った。

二日前には僕と携帯電話で話した。

一番、接触時間の短い僕を義母は何故か覚えていてくれていて、僕が

「逢いに行けなくてごめんなさいね」

と言うと

「たーちゃん、忙しいもんで」

と答えた。

彼女のアルツハイマーは全く進行していない。

母さん――もう一人の母さんを――今少し、守ってあげて下さい――

鈴木しづ子 三十二歳 「樹海」昭和27(1952)年2月号の発表句全7句

雪粉粉いのち粗末に醉ひにけり
粉雪舞ふ晝の褥を延べにけり
寒の夜やくれないうすき造花の葩
ほつそりと佇つや野分の草の中
山の子が山駈けめぐる秋は好し
佇つ前を貨車が過ぎゆく鰯雲
雪のあとすこし雪つく木木の膚

 今までにない不思議な現象がここにある。それはこれが前の『樹海』一月号に続いて昭和二十六(一九五一)年十一月二十三日附句稿四十五句から再び採句されたものだからである。実は次の句稿は六日後の十一月二十九日附句稿が現存するが、ここからこの二月号には全く採られていない。勿論、これは『樹海』の編集が二箇月前の十五日に締切を迎えるものであるために(「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」二五八ページにある川村氏の調査によるが、実際には十六日以降の句稿でも二箇月後の号に載っているものもあり、その辺は臨機応変であったようである)、後者の句稿が間に合わなかったという物理的理由によるものであることは容易に想定出来るのであるが、大量投句を始めた几帳面なしづ子がこの編集のリミットを知らなかったはずはなく、このような遅れた投句をせざるを得なかったしづ子側の状況を推し量るべきではなかろうか。それは母綾子の新たな墓の建立ではなかったか。実際、十一月二十三日附句稿の一部には「母の墓建てむと」という句稿では例外的に標題が附く。

――にしても――僕は不思議な静謐感をこの7句に感じる。「造花の葩」(「葩」は「花」である)のキッチュな原色だけを着色したモノクロ画面が前後左右にマルチで映し出される。僕はこの七句の一句さえも昭和26(1951)年11月23日附句稿45句からは琴線句として選ばなかったのに――しかし、巨湫によって再度選ばれたこの七句は――撰せられてソリッドに並べられた途端に――不思議な輝きを発しているではないか。これも『俳句の病い』、否、『俳句の魔法』であろう――僕はこれらの句をタイピングしながら、本当に不思議の感に打たれているのである――

僕はこの「鈴木しづ子」の琴線句をすべて手打ちしている。今やOCRで読み取って自動で正字変換することも出来るが、底本の川村氏に、何より作者しづ子自身に敬意を表して、すべてタイピングして、一字一字正字にする可否を僕なりに検証していることをお断りしておく。悲しいかな、世の中にはそうした見当違いの批判をしてくる自称「廃人」(おっと失礼)俳人がいるからである。

2011/11/02

酔っても言わなきゃならないことはある

黒澤の「虎の尾を踏む男達」はやっぱり――黒澤の最高傑作だね!

因みに、僕が今こだわっている鈴木しづ子の評論を書いた川村蘭太氏は、黒澤明に極めて近しい人なんだな、これが(但し、僕は彼の黒澤関連の著作は読んでいない)。やっぱり不思議な感じがする。

言っちまったらおしまいだ

言っちまったらおしまいなんだ

そこに僕は確かな「覚悟」を持たねばならぬ

僕はそれに「覚悟」しよう

僕の覚悟はKのように――確かになったのだ――

放射性キセノン133とキセノン135……そして……あと3ヶ月以内にM9のカタストロフが来るかもしれない

もう御存知だろう。僕がずっと不審に思っている福島第二原発二号機から放射性キセノン133とキセノン135が検出された。その記事で『東電は同日の会見で「一時的、局所的に燃料が核分裂し、臨界状態になった可能性がある」との見解を明らかにした』。ここで「核分裂」という言葉を使用していることを重く見よ。ネット上の楽観派(いやさ隠れ御用民間人)の叙述には再臨界も暴走も起こりようがないなどと書かれていた。しかし、この報道は図らずも当の東電が公的に「原子炉の中で何が起こっているかは実は全く分かりません」ということを認めたのも同じことだ。それを深刻に僕らは受けとめるべきである。孫子の代まで、いや永遠に続く、シジフォスのおぞましき神話が始まっている……

そうして……ここを見よ。北海道大学地震火山研究観測センターの森谷武男氏は強烈な覚悟を以て自らの智を総動員し僕らに警告しているのだ!

『VHF電磁波の地震エコー観測からふたたびM9地震が発生する可能性が高まっていることをお知らせします.2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震の前に8か月ほどさかのぼる2010年6月27日からえりも観測点において89.9MHzのチャンネルに地震エコーが観測され始めました.この周波数は北海道東部中標津局の周波数ですが他の複数の観測点における監視から中標津局からの地震エコーではないことが確認されました.同じ周波数の局は葛巻,種市,輪島,神戸などにありますが地震エコーの振幅が小さく(-100~-110dBから3-4dB上昇する)音声信号にならないのでどの局からかは不明ですが,おそらく東北地方の葛巻と種市の可能性が強いと考えられます.この地震エコーは8ヶ月続き,2011年1月には弱くなりついに3月09日のM7.3の前震が発生後M9.0が発生しました.M7.3が前震であることは,これに続く余震群のb値が0.5程度で極端に小さいことで判りました.しかし確認作業中にM9は発生しました.地震エコーの総継続時間は20万分を越えてM8以上の可能性がありました.図は2010年01月01日からの地震エコーの日別継続時間です.横軸は2010年01月01日からの月日,縦軸は1日毎の地震エコーの継続時間(分)です. M9.0の発生後,地震エコーの活動は弱かったのですが,いわきの地震M7.0が発生したころから再び活性化し始めました.そして現在まで昨年後半に観測された状況と良く似た経過をたどっています.地震エコーの総継続時間は16万分に到達しました.もしもこのまま3月11日の地震の前と同じ経過をたどるとすれば,再びM9クラスの地震が発生すると推定されます.震央は東北地方南部沖から関東地方沖の日本海溝南部付近であろうと考えられます.震源メカニズムが正断層である場合には海底地殻上下変動が大きいので津波の振幅が大きく巨大津波になる可能性も考えられます.発生時期は12月から2012年01月にかけてと考えられますが,地震エコーの衰弱からだけではピンポイントでの予想は難しいと思われます』

これを煽動などと言っている糞ブロガーどもに言おう。科学者森谷氏は正しく自ら「社会のカナリア」になる覚悟なのだ。起こらなければ、それに越したことはあるまい。しかし、だからと言って、お前ら糞ブロガーの正当性は少しも証明されないことを知るがいい! 起きてからでは「すべてが遅過ぎる」のだ! 森谷氏の警鐘をせせら笑うのなら、「せせら笑う反証」を示せ! それが礼儀というもんだ。それが出来ないなら、お前らは黙っていろ! そうして何も起こらなかった時に「ざまはねえ!」と言えばよい。ただ、俺はそれでもお前を軽蔑する。反証なきお前にゲロを吐きかけてやる。ゲロは、厭か? じゃあ、殺してやる。殺人方法をメールで寄こせ。美事に実行して、やるぜ!

お前らは、今日のように明日があると思っている!

お前らこそが断罪されねばならないのだ!

……いや……断罪される前に……ケンシロウではないが……お前はもう死んでいる……かも知れないのに、だ……

……まあ、いいさ……だって、そん時は……俺もきっと死んでいるから、ね……そうさ、こんな風に思える俺は、何でも出来るんだぜ……だから……お前を殺すのも……どうってことは……ない……

鈴木しづ子 三十二歳 昭和26(1951)年11月23日附句稿45句から13句及び「樹海」昭和27(1952)年1月号の発表句全5句

この昭和27(1952)年1月1日、随筆社より第二句集『指環』が刊行される。句稿から見る。

東京に來てすぐ歸り九月盡
秋の雨ふた日ひと夜の朝霧町
出京や秋の外套片手に持ち
玻璃むかふ秋の雨降る迷ひごと
竝び立つ霧の埠頭の人の中
霧曉けの人去らしむる埠頭かな
共に往き一人復りぬ秋海棠
右頰に秋の日享くる離京かな

薬に侵された恋人の黒人兵がアメリカへ帰ってゆくのを見送る、そのスカルプティング・イン・タイムの八つのシークエンス。僕はこの組句を――哀しくも美しいと思う――

秋櫻うつすら想ふ死のてだて

四ヶ月前の「コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ」を自解する句である。

山の子がはにかみて出す掌の木の實

しづ子の女らしい優しさが珍しく素直に示された美句である。

雪粉粉わつと叫びて狂ひたく
鐡路凍つ體投ぐること有り得べく

発狂願望と自殺願望とが――ルナティクに舞う粉雪と――触れなばびっと張り付いて皮膚がべろりと剥けそうな凍ったレールに――オーバー・ラップする――

責むるには哀しかりけり鰯雲

これは無論、加藤楸邨の主観俳句の名句「鰯雲人に告ぐべきことならず」のインスパイアなのであるが、如何にもますらをぶりの男系句である楸邨に、相聞でしづ子は美しく返したのだ。

   鰯雲人に告ぐべきことならず
   責むるには哀しかりけり鰯雲

この美事な鏡像構造を見よ。この句は決して句屑の中に埋もらせるべきものでもなく、また軽々に扱うべきものでもないと僕は思う。

右頰に秋の日享くる離京かな
山の湯に肩まで浸る十月盡
右の上秋の水きて流れけり
ひややかにうなじの黑子吹かれけり
木に倚れば頰に擦れ合ふ黄ばみし葉
(「樹海」昭和27(1952)年1月号)

以上、発表句全5句。冒頭の句は単独で切り離された時、しづ子の思いは全く読者に伝わらないことがお分かり頂けるはずである。三句目は句稿から、「石」の誤植。「樹海」の誤植か底本の誤植かは不明だが、「樹海」の誤植とすれば、句誌としては話にならない致命的な酷い誤植である。「器」を「黑」として訂正もせず、その「器」を勝手に「磁器」から「男性生殖器」に読み替える愚劣なスカベンジャーどもの姿が垣間見える――

« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »