鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年一月二十八日附句稿百句より (1) 二十句
雪の上雜魚を洗ひし水抛る
腥い水が、それも雑魚を洗った水が、バッと撒かれ、ヴァージン・スノーを瀆す――
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こんこんと救はれ難き雪ふれり
常人にはカタルシス(浄化)であり、禊である、時空の経過と忘却のはずの、こんこんと降る雪も――今や、しづ子にとっては「救はれ難き」もの降れり――なのであった――
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雪解けの書きてきたりし詐稱の名
詐称してきた名は何か? それは句集『指環』という「鈴木しづ子」という「女」の詐称ではなかったか? 「書きてきたりし」の「きたりし」は――もうそろそろやめにしよう、という感慨であり、「雪解けの」はダイレクトに下五「詐稱の名」を修飾する。――冷たい雪でデコラティヴしてきた詐称の名は、もうお仕舞いにしよう――ものとしづ子に戻るの――雪解けだわ……もし、そうだとすれば――しづ子は我々の前から永遠にその姿を消し去る凡そ九ヶ月も前に――私には、その「覚悟」が出来ていたものと見える――
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この一夜遠謀失せし北斗凍つ
私はこの句を前の「雪解けの」句の同詩想のものと読む。実際に前句の三句後にある。「この一夜」自ら望んだ訳ではなく、しかし拒みもしなかった――『指環』の――娼婦の――転落の――エロティカルな―俳人「しづ子」――その「遠謀」に対して求心的にも遠心的にも――全天回転軸たる冷然とした北斗の如く、きっぱりと――冷徹にして厳然たる「ケリ」をつけるのよ、今夜――という覚悟として、である――
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澄む穹や意氣地なき子も凧あげて
私は凧を揚げたことがない。揚がった凧を見上げた至福の思い出がない。ただ唯一の記憶がある。幼稚園の頃だ。新聞紙の長い脚を附けた奴凧をずるずると地面に牽きながら泣いている私の記憶――
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生物の如く枯枝の日すさる
一方の井桁に置きし凍瓶
夏雲や以南の航路ゆるされず
風の中爪立ちて見るしんめかな
國若し寒さ中なる新芽吹く
冴返る唇紅がつく紙の面
小返る剃りて變へたる眉の形り
掌の上や悲喜失せしめし椿の葩
星とぶやいつさい棄ててはばかるなし
頭あぐれば星は星の光りもつ
屋の上を戀猫通る鏡中
大寒の甍の面や雨の跡
命沙汰持ちしことあり露けき手
われと吾が鼾おぼえし餘寒かな
蕗の薹吾ら一族失せにけり
私には――今の、ある心的状況下にある私には、というのが正しい文法だ――この句稿群に激しく共感するし、やはり、まさにここで、しづ子には大きな心理的な変化が起こっているとしか思われない。それ程に、使用語彙や詩想に、本来のしづ子のキレが鮮やかに戻ってきているのだ。
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