鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十六(一九五一)年十二月十一日附句稿九十二句から九句
この句稿の冒頭四句は川村氏によって改作の旨の注記が附されている。しづ子には改作を示すだけの思いがこれらの句にはあったと思われる。尚且つ内三句は直前の、結果的に選句されなかった大量句群の中の句である。――もしかすると、ここにこそ先の句稿が選句対象とならなかった理由を探ることが出来るのかもしれない。先の十一月二十九日附句稿群がしづ子自身にとって不満足であったか若しくは投句後、何らかの事態の変化や再考によって選句されてはまずいと彼女が判断するに至った句が混じっていたために、その投句原稿総てを次号の選句対象から外してくれるように、この十二月十一日附句稿の添え書きか何かで巨湫に依頼した可能性である。でなければ、たった十二日後に送られてきた大量句稿の冒頭に、先の句稿の四句の改作をして配するということは普通ならしないように思われるからである。――たとえばそれは、彼女の肉親に関わる句なのではなかったろうか? 実際に句稿の中には先に引いた例の歌人の叔母の句が二句及び再婚で嫌悪するに至った父の句が三句存在する。また、先に掲げた「此の金や不淨ならざる枯れ簫々」も伝説を信ずる読者には弁解染みた浅いものを感じさせ、句柄も真実のしづ子自身を語るに汲々としている印象が強く、しづ子が愛した母への追悼句としては不敬とも言える。私が感じるのはその程度であるが、その他にも公開をされたくないと感じた句があるのかも知れない。――勿論、選句対象からそれらを指示して外してもらうことも可能であるが、しづ子の性格からして、それはあり得ない気がする。そもそもそんな仕儀は選句する師に対する礼を失することになるからである。以上、私の全くの推理であるが――彼女はそのために十一月二十九日附句稿総てを諦め、纏めて葬ったのではなかったか?――但し、この仮定には難点がある。それは、これ以降の公開されている投句稿は最早、『樹海』掲載句と連動しなくなってゆくからである。恐ろしいまでの大量句稿群が波状的神経症的に巨湫のもとに送られてくることになるからである。――それは『樹海』の採句限界を無視した、しづ子の確信犯のように私には見える。――彼女は次第に『樹海』という世界から幽体離脱してゆき、師巨湫個人へ深々と礼をしながらも、絞り出した全句を素手で力任せに師の顔面に擲っているように感じられるのである。――
取り敢えず、以下にその改作句四句を掲げておく。
冬の燈に自信なくして坐しにけり
雪粉粉わつと叫びて狂ひたし
誘はれて否と言へざり蒲は穗に
竹吹けり伊吹颪をはばむなく
それぞれの原句と所在を示す。「誘はれて」の下五の「■」は川村氏の判読不能の字を示すものである。
冬燈下自信失くして坐しにけり
(昭和二十六(一九五一)年十一月二十九日附句稿)
雪粉粉わつと叫びて狂ひたく
(昭和二十六(一九五一)年十一月二十三日附句稿)
誘はれて否と言へざる蒲は穗■
(昭和二十六(一九五一)年十一月二十九日附句稿)
竹吹かる伊吹颪をはばむなく
(昭和二十六(一九五一)年十一月二十九日附句稿)
この内、私が先に選んだのは「雪粉粉わつと叫びて狂ひたく」であるが、私の好みから言えば改作の「狂ひたし」がいい。にしても――この改作は、内的欲求からの改作という感じはまるでない。やはりおかしい。
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色ならば母を譬へて寒き紫
枯れの月いづれ此の土地離かるべし
人の子の手を引き戻る枯野かな
雷去りておのが髮膚にほひけり
風邪癒えて妙に空きある木木のひま
句稿には「母の墓たつ」と「昭和十八年六月、はじめて樹海句會に出席して」の標題を持つ句群を含むが、私には妙にリズムがぎこちなく、普段のしづ子らしい語彙のひらめきも感じられない。心づくのは以上の三句のみである。『樹海』昭和二十七(一九五二)年三月号には、この十二月十一日附句稿九十二句から十一句が採られている。私の採った「色ならば」「枯れの月」「雷去りて」の三句はその中にある。なお、そこには(以下、表記は二句ともママ)、
きっぱりと冬の木が立つ風茜
が載るが、句稿では
さつぱりと冬の木が立つ風茜
である。
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