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2011/11/27

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月二十日附句稿百十句より 六十三句

 ひしめくジヤズひしめく衣のおのがすそ

 嫉視中おのがたつきぞ保たしめ

 ひしめくジヤズ渦卷く嫉視花は紙

 痛きほどテケツにぎりし掌の裡ぞ

 ダンサーを生業とするしづ子のカット・バック。「テケツ」はチケットのこと。当時、しづ子が勤めていたダンス・ホールは戦前からのダンス一曲につき一チケットをダンサーに払うチケット制がまだ残っていたものらしい。詳しくは川村蘭太「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の二五四ページを参照されたい。この句稿、まずはダンサーの軽妙なステップやジャズやボレロやキャリオカで賑やかに幕開きする。そこで舞うしづ子は、中でも売れっ子だ。他のダンサーや慰安婦らの、カット・バックの中には、そうした女たちの独特の視線が配されている。

   *

 歸り耒つ三月さむき吾が居の燈

 そんな仕事から引けて帰った一人のしづ子は、理髪店に行き、春日中の野辺を歩く。ここまではこの句稿が投ぜられた三月の同時制であると私は詠む……ところが……その春風が……遠い若き日の春の風となって……しづ子に吹いてくるのだ……

   *

 固き餠黴の餠燒き神田つ子

 鈴木鎭子は大正八(一九一九)年六月九日、東京市神田區三河町二丁目二十三番地(現在の千代田区内神田一丁目と神田司町二丁目付近)に生まれた(川村蘭太「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」六二ページによる)。この句を初めとして、以下、句稿は走馬灯のようにしづ子の出生から現在までを総攬し始めるのである。

   *

 生まれにけり大正最後の雪の中

 震災を知らざる生まれ繪燈籠

 黑髮や雪の一月生れにけり

 しづ子が「しづ子」のために、数少ない積極的な共犯正犯となった事柄――それは年令詐称である。この最早、句として撰してもらうことなど微塵も考えていない大量投句――私はこれをしづ子の巨湫への壮大な叙事詩の外形をとったラブ・レターにして、同時に渾身の抒情的遺書と認識しているのだが――そこにあっても、これだけは巨湫個人に対してさえも、是が非でもなされなければならない「若さ」の絶対の演出であった。そこに私はしづ子の女としての弱さを感じるのであるが、それはまた私にはほっとするものでもあるのである。しづ子の年令詐称を鬼の首を取ったようにしづ子批評に持ち出す下劣漢どもに言いたいのは、だったら女性作家も女優も女は誰も彼も生年を必ず公表せよと訴えるがいい。こんなことは下らぬことだ。問題は、しづ子が実在する妹正子の年齢を美事に詐称している構造にあるのだ。川村氏はまさにそうした詐称の構造論から語って極めて有益な論を展開されておられる。「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」を是非、お読み頂きたい。ここでは事実のみを述べておく。先に示した通り、鈴木鎭子は大正八(一九一九)年六月九日生まれであり、「大正最後の雪の中」「の一月生れ」ではない、関東大「震災を知らざる生まれ」どころではなく、震災当時四歳で、明らかに震災の記憶をはっきりと保持している年齢に達していたと言ってよいのだ。「大正最後の雪の中」「の一月生れ」で関東大「震災を知らざる生まれ」であったのは、彼女の妹正子であった。正子は大正十四(一九二五)年一月二十日に東京市下谷區(現在の台東区)で出生しているのである。

   *

 震災や母は妻たり二十一

 ここには微妙な年令詐称をしても、愛する亡き母にだけは嘘をつけないしづ子が見える。鎭子の母綾子(明治三十(一八九七)年生まれ)は彼女を産んだ時が二十二歳、震災時では綾子は二十六歳、正子を産んだのは翌年であるから二十七歳である。いや、戦前は寧ろ数えで言うのが普通だから、綾子の年齢は「二十三」であろう。さすれば、しづ子は愛する母をも若く美しい「二十一」に詐称した、せずにはおられなかったのだ、とも言えまいか。

   *

 繪燈籠濱町育ちとませつつも

 深川にみとせの夏をおくりけり

 花美しき傳通院に母校をく

   *

 浜町――深川――大川――両国――芥川龍之介……伝通院――こゝろ――夏目漱石……しづ子は龍之介の例えば亡くなった父母と夭折の姉(しづ子には三つ違いの五歳で夭折した妹光子がいる)を描いた「點鬼簿」を――漱石の「こゝろ」の同名の「靜」の生き方を――どう読んだのであろう。とっても――とっても彼女に聞いてみたい願望に駆られるのである。

   *

 吾がすでに喫煙識りゐて花は八重

 エスケープ亦愉しくて花は八重

 不良性多分にもちて花は八重

 謹愼といふこと強ひられつつに花

 退校の極どさ保ちつつに花

 花は八重不良女學生とは異ふ

 學生として交るや一つ思想

 花は八重思想の危機を吾ももちし

 學園の思想の危機を吾ももちし

 春燈下をんな學生混へつつ

 高女卒とは名のみばかりに八重櫻

 淑徳高等女学校時代の十四歳(昭和八(一九三三)年)から十九歳(昭和十三(一九三八)年)の回想吟。「すでに喫煙識りゐ」、「エスケープ亦愉しく」、「不良性多分にも」った、「謹愼」処分も食らって、危うく「退校の極どさ」さえ実感したお墨付きの「不良女學生」――であったとしたら――私を例の「しづ子」として更に更に伝説化なさるに、巨湫先生、都合が大層宜しゅう御座いましょう? でもね、先生、そんな「不良女學生とは異」って御座いましたの、私は――と正座したしづ子がきっと前を向いて答えている――が見える。そして――軍靴の足音が響く中にあって、しづ子も危ぶまれる危険「思想」としての社会主義にシンパサイズされるしづ子――「春燈下」の細胞の学習会で目を輝かせているしづ子――が見える。そこに佇立しているのは、インテリゲンチアとしての凛々しい乙女である。しかし、父俊雄としづ子自身の強い希望であったにも拘わらず、しづ子は女子大への進学に失敗、昭和十三年の秋頃、製図学校に入学する。最後の句にはその、阻まれた進路への哀しさが現れた後ろ姿が見える。ただ――確実に言えることは、ここでしづ子が女子大に合格していたら――後の俳人鈴木しづ子は決して生れなかった、ということである。いや、当時も今もごろついている俳句を捻る誰彼と同じような才媛と評される作家の一人にはなっていたかも知れない。しかし、それは平均的な陳腐な才媛作家群の中に哀しくも埋没して、決して浮上するような句を残すことはなかった。我々はこの「高女卒とは名のみばかりに八重櫻」の淋しいうしろ姿にこそ、鎭子の、否、しづ子としての旅立ちを見なくてはならないのである。

   *

 以下、私のある思いから先の末尾の「高女卒とは名のみばかりに八重櫻」の次の句から句稿最後までの三十九句を残らず(一句も省略せず)順に掲げる。「*」を入れず、「――」「……」で私の勝手な解釈を附す。

 水の邊の墨田風起つ夜の櫻

 風起ちて花は夜を咲き向島

 ――ここにはマジックがある。昭和十三(一九三八)年春の十九歳のしづ子を点景とする「八重櫻」は「墨田」と「向島」の妖艶な夜桜に変容し、その梶井基次郎の「櫻の木の下には」のような屍の精力が――十九の処女を一瞬にして三十の女にするのである――

 東京の花を待たずに離り耒し

 早春の風吹く美濃に耒初めけり

 三月盡來初めし土地に家を探す

 職を得て土地に棲みつく櫻かな

 ――お分かりのようにこれは女学校時代から二十代をスポイルして昭和二十四(一九四九)年の春の、府中から岐阜への転居へとタイム・スリップしている。しづ子の事蹟を知らぬ者には、女学校生が一気に転落してゆくように読めるところがマジックである。私は「要注意」などと教師臭いことを言っているのでは、ない。再度申し上げるが、この句稿は最早、巨湫に「撰せられる」ことなど微塵も意識していないのだ――これらは総て、弟子しづ子の巨湫という野狐禪師への、命を懸けた公案の掛け合いなのだ――そもそもこの私の「しづ子琴線句」選を読まれる方は川村蘭太氏の「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」を読まずんばならず、読んでおられるとならば、私のこの分かり切った屋上屋の解説自体、不要なはずである。

 街娼とかよふ爲しごと花は夜を

 夜櫻や土地に耒初めて錢は無く

 夜櫻や救ひたまふか異邦人

 夜櫻や代償と得し錢一貨

 錢一貨握りにぎりて花は夜を

 い寐やらぬ一夜の花のホテルかな

 ホテルの夜十指の爪を燈に濡らす

 花の夜や爪は光りておのがいろ

 はからずも花ぞひらける一夜かな

 はじめての夜るの櫻とひらきけり

 はじめての人の背にある春燈かな

 おのおのの貌は忘れて花は夜々

 夜櫻やこころの鏡曇り次ぎ

 麻痺つづく一つこころと花は夜々

 ――私は如何にも無謀と言われるかもしれないが、以上の十四句を連合した『娼婦変身仮想句群』として読んだ。作句内時制はしづ子がダンサーとなった昭和二十五(一九五〇)年頃か。冒頭の句はれっきとした全うなダンサーであるしづ子が「街娼とかよふ」――街娼と変わりゃしない「爲しごと」じゃ、と後ろ指刺されることへの深い傷心の表現であり――だったら私、娼婦になったつもりで――あだ「花は夜を」生きる伝説の「しづ子」を、句の中で演じてみよう――それがこの、しづ子の魂胆ではなかったか?
 ……夜櫻の私…………
 ……「舞姫」のように……
 ……初めての土地に来て……一銭の錢もない……
 ……そんな私を救ってくれたのは……
 ……かのエリスと同じき……
 ……異国の肌え黒き人だった……
 ……代償として受けたのは錢一貨……
 ……その錢一貨……見つめる私……
 ……これが……私の価い……私の価値……
 ……それをギュツと握りに握って……
 ……あだ花は夜を生きるの……
 ……一夜の花のホテルの一室
 ……男に抱かれながら……
 ……十指の爪を燈に翳して……見る……
 ……その濡れたような十本の指……見つめる私……
 ……花の夜やうつりにけりな爪は光り……
……そはまごうなきおのがいろ……
 ……はからずも花ぞひらける一夜にて……
 ……はじめての夜の櫻とひらく……
 ……はじめて買われた人の……その黒い背(そびら)を手前に……
 ……春の夜の淋しい燈火が……見える……
 ……こと終えて……おのおのの貌は……もう忘れましょう……
 ……あだ花はまた別な夜々へ舞い散る……
 でも、そんなこと! とっても堪えられない! 私のこころの鏡は曇りに曇る! 麻痺、麻痺だわ! 私の一つのこころは、麻痺するの! そんなのはあり得ない! 私は娼婦じゃない! ダンサーよ! 舞姫なの!――私は「夜櫻やこころの鏡曇り次ぎ」「麻痺つづく一つこころと花は夜々」の二句をそう読む。一言だけ言っておくと、例えばしづ子は一文無しで岐阜に「落ちて」来たわけでは全くない。また、川村氏の現地調査でも、しづ子を知る人々の語る印象は、決して悪くない。寧ろ好感を以て語られていると言ってよい。彼女が、よもや、そうした『賤しき限りなる業に墮ち』(森鷗外「舞姫」)ていたなどという事実は――「しづ子」の匂わされた句以外には、実はどこにも存在しないというのが真実なのである。なお、私のこの仮想には当然、愛したケリー・クラッケの印象を入り込ませたことを断っておく。
 ――そしてこれらが夢想句群である証左が以下の句となる。ここでしづ子は現実に戻る。そうして『娼婦でないダンサーのしづ子』が、冷厳に辛辣に同僚の慰安婦たちを活写するのである。

 キヤバレーに得し一つ職花は夜々

 脚組むや紙のはなびらふらす花

 女たちうすぎたなくも脚を組み

 女たち顎突きだして煙草喫ひ

 女たち一つ煙草を喫ひおくり

 女たち自國語ならぬことば識り

 女たちくちびる厚く吻ふくみ

 女たち乳を隠して膚かくさず

 女たち燈明り蔭に吻をすひ

  女たちおほかたひまに酒を飲み

 女たち猜むおもひを露はにも

 花は夜々ジエーンと名づけられつつに

 賣れつ子といはるるほどに花は夜々

 一身に猜みあつめし胸の汗

 猜まるること極まりて職を抛つ

 ――「猜む」は「そねむ」と個人的には読みたいが、最後の句の「猜まるる」は明らかに「ねたまるる」であろう。しづ子はとあるダンス・ホールではジェーンという愛称で呼ばれていたか。最後の五句に現れるダンサーとしての自信と矜持は一抹の卑下も感じられない。しづ子は堂々と挑戦的に「女たち」の前で美事にステップを踏んでいるではないか。

 退(ひ)きし身の籠りつづくや愛ぞ得て

 戰ひは吾らに嚴し愛ぞ斷つ

 距つなばそれもよかりし海の霧

 海の霧戰死ならざる死と知りて

 ――ケリー・クラッケとの同棲――ケリーの朝鮮出兵――ヒロポン中毒者としての日本への帰還と、慌ただしい帰国――そして故郷テキサスからのケリーの訃報――

 ――以上、珍しく多量の句を選んだ本句群は、私にはその全体が一読忘れ難い有機的な融合体として意識されるのである。

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