鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月十一日附句稿百六句より(2) 亡き母へのレクイエム句群より十五句
終焉や地に影おく林檎の木
花林檎かつては疎開つづかしめ
花林檎双親つとに失せにけり
銀漢や失せて總ては戰爭中
母死なせし林檎花もつ北の方
花林檎咄嗟の泪もたざりけり
雪解けの続く限りや明里町
冬苔やおのが識りゐし一つの死
踏切や母には難き炎天下
出生を忌むがばかりに寒牡丹
夏蟬やむかし母には冷たかり
濡れ初めの石の面てや冬の苔
春雨にひとしく濡るる石の面
母死なせし靑き冬苔濡るる中
枯れの面や綾子之墓と母に書けり
「終焉や」に始まる三十数句に及ぶ亡き母へのレクイエム連作から。これらから、しづ子は母の逝去の地をこの句稿直近に訪ねていることは確実であると思われる。
「花林檎かつては疎開つづかしめ」はしづ子の「しづ子」のための句。年齢詐称のためには、「しづ子」は戦中に疎開をしていなくてはならない年齢であった。但し、「疎開」という言辞そのものが更に虚構であって、川村蘭太氏の「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」によれば、昭和十六(一九四二)年の夏に母綾子が病に倒れ、その転地療養のために一家で福井県福井市に転居している。そして更に虚偽があって、この時、しづ子は一人、東京に残ったのである。
「花林檎双親つとに失せにけり」も事実ではない。しづ子の母綾子は昭和二十一(一九四六)年五月十五日に亡くなっているが、父俊雄は、この時、未だ健在である。以前にも記した通り、さんざん綾子を苦しめた父俊雄が、昭和二十三(一九四八)年に、母綾子の生前から関係があった女性と再婚したことに対して激しい嫌悪感情を持っており、しづ子にとってかつて尊敬した父は、今や完全に死んだ存在であったのである。
「雪解けの続く限りや明里町」川村氏の略年譜では綾子の逝去の地を「福井県福井市明王町」と記すが、この句の「明里町」が正しいものと思われる。現在の北陸本線福井駅の西方二キロ弱の現在の福井競輪場近くに位置する小さな町である。
「出生を忌むがばかりに寒牡丹」の主語はしづ子自身であろうか。とすれば、愛する母と同じように、愛に恵まれなかった自分の出生への呪詛となる。
« 鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月十一日附句稿百六句より(1) 五句 | トップページ | 君たちを愛する »

