鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年一月二十三日附句稿百四句より (3) 十句 又は しづ子は娼婦ではない
霙るる葉此の國厭ふやむかたなし
ここまで読み進めてきた私には、やはり、その切実さの重量に於いてしづ子は寺山修司を遙かに凌駕していると思う。
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射たれて死すといふマタ・ハリを讀む白薔薇に
上海へこころはしるや槻芽立つ
東洋といふ語の魅力槻芽立つ
讀む雪の十九世紀の血を憶ふ
「マタ・ハリ」芸名《 Mata Hari 》は本名《 Margaretha Geertruida Zelle 》マルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ(一八七六年~一九一七年)。パリのムーラン‐ルージュの人気ダンサー(高級娼婦の肩書を記すものもある)。マレー系オランダ人(「マタ・ハリ」はマレー語で「太陽」の意)。第一次世界大戦中、ドイツのスパイの嫌疑をかけられてフランス軍に捕縛、一九一七年十月十五日、バンセンヌの要塞で銃殺刑に処せれた。以後、女スパイの代名詞となるが、現在は冤罪に近いと考えられている。
「槻」は「つき」で欅の別名。私の想像であるが、しづ子は読むマタ・ハリの評伝から、東洋のマタ・ハリ川島芳子を連想しているのではあるまいか。そこで彼女は「美的装束をして街を闊歩した詩人」(梶井基次郎「檸檬」)になった――続く幾つかの句では、この今の状況下にあって、日本人として生まれたことへの嫌悪と忌避を露わにしている――
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あらためて指紋とらるる霙るる燈
あはれ指紋すべての娼婦とられたり
ダンサーも娼婦のうちか雪解の葉
警察より戻る雪解の徑と橋
紙貼りて休業つづく一月盡
正月明け、何らかの違法営業行為や事件によって、しづ子が専属ダンサーとして勤めていたダンス・ホールが検挙されたのであろう。確かに彼女の勤めていたのは実質的にはダンス・ホールを表看板とした、半ば公然たる売春営業も行う店であったのであろう。但し、川村氏も子細に調査されておられるが、そうした慰安婦と、客を呼び込むためのホール・ダンサーは求人に於いても職務に於いても、厳密に分けられていた。何より、これらの句群を素直に読むなら、この事件を冷徹にドキュメントしているカメラマンしづ子が、娼婦でないことは一目瞭然である。手入れによって警察に一斉検挙されて、十把一絡げで否応なく連行されてしまったしづ子――指紋を採られる接待婦(売春婦)たちを見ているしづ子――そこで一律娼婦扱いで犯罪者の如くしづ子の指紋をも採ろうとする警官に対し、抗議するしづ子――しかし、所詮同じ穴の貉どもと罵倒され「ダンサーも娼婦のうちか」と溜息をつき、接待婦たちと一緒に釈放され、雪解の道を帰ってゆくしづ子……営業停止を受けた、人気のない、寒々としたダンス・ホール、その入り口の、休業の張り紙(ズーム・イン)……一月晦日の寒風が、剥がれかけた、それをパタパタと煽る……
はっきりさせておく。
しづ子は娼婦では、ない。
言っておくが、私はただ、事実を述べているのだ。
問「しづ子は事実、娼婦であったか、なかったか?」
答「娼婦ではなかった。」
という、ことである。僕の言説(ディスクール)はそれ以上でも、それ以下でもない。
――しづ子は娼婦ではない――
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