鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月八日附句稿二百十六句より(3) 四句
手にとればなにもなかりし熱砂かな
掌の熱砂砂漠もたざる國に生れ
思を凝らし熱砂の砂漠描かしむ
熱砂敷く沙漠ありせばありとせば
句稿の中に突如現れる沙漠の砂の句四句である。最初の三句は連続で現れ、二句挟んで最後の句が出る。私はこれをケリー・クラッケ追悼句群の一つと見る。この頃、ケリーの母からケリーを埋葬した地の砂がしづ子に送られて来たのではなかったか?(川村氏らの著作によって、この前後にケリーの遺品がケリーの母から送られてきたことは確かである) また、昭和二十七(一九五二)年一月二十三日附句稿百四句にあるケリー・クラッケ・メモリアム・テキサス句群から、ケリーの故郷はテキサス州にあったことは確実である。ところがテキサスというと、たいして西部劇の洗礼を受けていない私などでも「パリ、テキサス」などで今も砂漠のイメージが強いのだが(脱線だが――私がかつて勤務したとある学校では「学校内の僻地」という意味で、平然と教員さえ校内で最も離れた特別教室を「テキサス」と呼称していた。私はそれに強い違和感を覚えた。生徒に、「それじゃあそこをネパール、東北、と呼ぶことにしたらどうだい?」、「うちの姉妹校で訪問して来たアメリカの高校生にテキサス出身の学生がいて、何故、テキサスなのかと質問されたら、あそこはカントリーだからさ、と言えるわけだ?」と挑発もした。教員がその呼称を用いるのはやめるべきだと職員会議で意見も述べたが、同僚からは鼻でせせら笑われただけだった。多分、今も相変わらず用いられていることであろう。それが我々日本人の人権感覚のお粗末な正体なのである――)、実は沙漠地帯はテキサス州の十%足らずしかなく、かなり地域が限定されるのである。チワワ砂漠と称するこのテキサス州南西部国境域周辺の――メキシコや南部のデキシーと西部開拓時代の人種混合した文化の、不法入国者が絶えず、現在でもアメリカでは極めて経済的に厳しいこの地域の――どこかに、ケリーの故里はあったのではあるまいか? ケリーがどんな人物であったか、僕らは最早、追跡できそうもない。しかし、私は、私なりにケリー・クラッケを私の中にブロマイドを創る。そうして、しづ子が愛したケリーを、私も愛する。――でなければ、しづ子のケリー・クラッケ句群を語る権利はない――いや、そもそも、しづ子の句を語る資格はない、と、私は本気で思うからである。
« 義母(かあ)さんは元気 ♡ | トップページ | 鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月八日附句稿二百十六句より(4) 三句 »