鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年一月二十日附句稿二百十二句より (1) 二十一句
生理期の吾が頤を寒しと見る
炭つぐや吾が生理期の指纎う
生理期の吾が手冷やこき限りなり
「生理期」句全三句。こうした表明が文学的に忌避されることが当然の社会は未成熟というべきである。ホモ・サピエンスにとって、
生=性
であり、
性=生理
であり、
生理=生の実在
の認識であると言ってよい。そもそも、その最初期に女性のメンスを「生理」と日本語で表現した人間は、実にそうした真理を押さえていたとも言えないだろうか?――「纎う」は「しなう」(歴史的仮名遣では「しなふ」)で、個人的にはこの句がいっとう上手いと思う。
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示されし盲腸すでに一個のもの
ついさっきまで肉体の一部であったものを厳粛に見つめるしづ子である。私の共感する一句である。
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靑春は女人に短し寒菊黄
しづ子の著名な「たんぽぽ黄」でもそうだが、しづ子の句は、シナリオに於けるある技法と同じ効果を狙っている。一般に脚本家はカメラの指示をしてはいけないというのがカメラマンに対する一種の礼儀である。しかし、やはり作家の中にここはアップで撮って欲しい場面は必ずある。その場合の一つの「合法的な」手法に、対象を格助詞の「の」で繋げながらアップにしたい対象物を最後に持ってきて体言止めにするというのがある。しづ子はそうした技を生得的に身につけていると言える。読む者は「寒菊黄」は「寒菊」の黄色い花びら接写せずにはいられないからだ。
東京の雪か雪つけ本きたる
受取りし吾が手冷やこし詩の本
送られきし雪にしめりし句集の本
紙の上吾が詩ならぶ雪明かり
二句目の「詩」は「うた」と読ませるか。しづ子が自身の第二句集『指環』を手にした際の句であるが、そこには何らの浮き立つ思いは感じられない。寧ろ、総てが雪の冷気の中にある――しづ子の『指環』は既にして――雪の上に書かれた儚い絵文字なのであった――
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霧の燈よおほかたの過去忘れたり
菊の雨むかしはむかしの詩もてり
先の「紙の上」の後、二句を挟んである句。これがわずか三十二歳にして第二句集を手にしたしづ子の正直な冷めた感懐であった。それはケリーの死が共時的なかったとしても――私は余り変わらぬしづ子の思いであったと思う。
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冬芽立つ吾が戰前の戀憶ふ
かの雪の深き記憶や子どもごころにも
いまは昔雪に死したる人あまた
たしか吾が幼稚園の頃かの大雪
先の「菊の雨」に続く一句。『指環』という余所行きになって派手な衣装を纏わされた句集から、しづ子は『春雷』以前の、純情な乙女の時分に、少女の頃へと意識を遡る。それは伝説の「しづ子」の句集『指環』へのかすかな――自嘲――ででもあったかも知れない。この句の雪は「あの日」の雪である。次の句。
二・二六事件の雪と較ぶる癖雪積れば
――しかし、我々は気づいてしまう――しづ子は「しづ子」を最早、演じ続けねばならぬ宿命を背負ってしまったのだ……昭和十一(一九三六)年二月二十六日……この時、事実は彼女は幼稚園児ではなかった……淑徳高等女学校に通う十七の乙女であった……それにしても、この句の十三句後にしづ子は「この雪やかの大雪の日につづく」と詠んでいる……しづ子の戦後は戦前と直結していた……しづ子の戦後は永遠に終わらなかった……いや……今も……終わってはいない……
*
雪積むや東京を戀ふこころ持つ
追憶がしづ子を刺激した……しづ子の懐かしい東京への憧れが少し首をもたげた……
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氣の強さ丑年生れ柚子は黄に
一葉の死せし歳過ぐ冷やこき手
誕生日東京に雪在る無しや
脈寒く二十七年經てきし手
「氣の強さ」の句は「丑年生まれ」が必ずしも作者と限定して読めないような流れでは作られている。因みに、しづ子は大正八(一九一九)年六月九日生まれで、生年の干支は己未である。しかし続く「一葉の死せし」でそれが限定される。樋口一葉は満二十四歳で亡くなっているから、この時、満で三十二歳のしづ子とは八歳違う。三十二歳で「一葉の死」んだ二十四歳を「過ぐ」とは、恥ずかしくて逆立ちしても言わないであろう。大正の丑年生まれは、乙丑の大正十四(一九二五)年である。――そしてしづ子の妹正子は大正十四年一月二〇日に生まれている。――正子は、この昭和二十七(一九五二)年一月二十日で満「二十七」歳、「一葉の死せし歳過ぐ」歳であったと言ってよい。――しづ子は妹の年齢を詐称していたのである。――それも「誕生日東京に雪在る無しや」と言い得る――一月二十日という誕生日――さえも――まるで――しづ子はマルセル・デュシャン!――
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