鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年一月二日附句稿百五句より ケリー・クラッケ悼亡悲傷句群全二十一句
同句稿の巻頭二十一句を漏れなく採った。後半の数句は必ずしも亡きケリー・クラッケへの追悼哀傷に留まらないものを――しづ子が最も愛した第二次世界大戦で戦死した日本人の恋人への感傷の遡及を――感じるけれども、それはしづ子の愛の喪失という中で心傷(トラウマ)としての聖痕(スティグマ)として渾然一体のものであるから、私は敢えてそこまで採ることにした。「ケリー・クラッケ悼亡悲傷句群」とは私が仮に附した標題である。「■」は川村氏の判読不能の字を示す。
霧の洋渡り渡りきし訃報手に
霧五千海里ケリー・クラツケへだたり死す
訃報掌に霧もむら立つ體のほとり
こころの墓霧立ちのぼる人の死へ■
霧濃き中哀感そそる死びとの眼
地の果や霧に隠れし七つ星
嚙めば血潮は熱くとどろくかひなかな
かばね置く霧をへだてし東のかた
霧うすうす立ちてとどかぬものは距離
すべて總てがみをさめなりし霧月夜
霧月夜髮ふれしめし記憶もつ
黑人の哀しさ言ひし霧葉かな
圍ひなす霧中叫び得ざりしか
霧立てばこころしづかに狂ふ日つづく
葉の上に滴りしも愛の終止符
霧徐々に人の體とらへけり
屍すでに抵抗はなし霧濃き中
悲劇はこの世だけでいいスクリーンの白雪
まぼろしの霧の手袋片手に持つ
霧去りしこころの裡の水漬く屍
一つの屍茫々霧をへだてけり
次の一月十一日附大量句稿には「押繪羽子板」や「元旦の燈」が詠み込まれているが、新年の句はこの句稿にはない。総て「年の内」の句であり、「大晦日」を詠み込んだ句一句、末に並ぶのは「年越」句群五句である。恐らく、一月一日にケリー・クラッケの訃報を受け取ったしづ子は既に準備していたもっと後に送るつもりだった年内の投句稿の頭に、これらのケリー・クラッケ悼亡悲傷句群の衝撃を詠んだ句を急遽追加して、衝動的に巨湫に送ったものであろう(但し、一句だけこの後に追悼句と思われる「霧もむら立つ人死なしめしこころの裡」が混入している)。これを松の内に受け取る巨湫の気持ちなんぞを考えるゆとりなど、しづ子にはなかった――だからこそしづ子らしい――いや、巨湫にだけは――この慟哭のシャウトを聴かせたかった――聴くべき義務がある――としづ子は思ったのかも、知れない。
――この元日はしづ子にとってアンビバレントな日でもあった。――
この日、しづ子の真の意志とは無関係に、鳴り物入りで予告されていた第二句集『指環』が、随筆社から刊行されているのである。
ともかくも彼女にとって第二の人生を選択出来た、かも知れない、この句集出版の喜びも――このケリーの死によって、舞台の模造の雪片のように、儚く吹き散ってしまったかのように私には思われる――
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