鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年一月十一日附句稿百五句より八句
これだけの句数ながら、やはり全体に著しく力がない。拍子もぎこちなく、語彙の輝きも著しく減衰している。ケリーの死の心痛が伝わってくる。
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迎年の死戰に生きし生命かな
「逝きし人に、かつては」という標題の冒頭句。ケリーへのレクイエムとして重厚できりっとした名句である。
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暴れしあと月の有明死の如し
髮なびくここ月明の有明海
珍しい羈旅回想吟が現れる。有明海を詠み込んだ四句の内の二句。しづ子は過去に台風の直後の有明海を訪れている。
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上流へ約八町の枯日かな
冬映えの木曾のみなそこ透る石
これも小さな旅。十数句続く木曽川での吟。何度も訪れているようで、句群の中には初夏の景を回想して詠じている。しづ子の好きな場所であったことが分かる。昭和二十六(一九五一)年十一月二十九日附句稿で採った「みなそこは冬のはじめの草と石」も木曽川と思われる。
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ことし青葉の頃こそ行かむ桃太郎の出生地
……しづさん、愛知県犬山市栗栖(くりす)の桃太郎神社のことでしょう?!……僕も行きたいんです……今度、一緒に行きましょう!……キッチュな人形を二人で眺めましょう、しづさん……
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頸根つく伊勢のかがり火凍てにけり
離るればあかつき闇のかがり火凍つ
川村氏略年譜にある、この元日の三重の伊勢神宮参拝を裏付ける句である。川村氏ははっきりと二年参りとしているから、しづ子は大晦日から出掛けていることになる。そして――この帰宅した元日に、すづ子はケリーの訃報を手にした――。「離るれば」は句稿の掉尾である。
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