鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年二月五日附句稿百五句より (1) 五句
ケリー・クラツケ亡し葡萄の種を地に吐く
「葡萄の種を地に吐く」のはしづ子なのだが、私にはそれがケリーに変貌する。その地に吐かれた葡萄の種は、みるみる蔓を延ばし、実をたわわにつける――私はこのしづ子=ケリーに、キリストを見る――
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米人を父にもつ子ら雛まつり
雛の燈や黑人の子らよく育ち
雛まつるおほかたは父わからぬ子
このしづ子が訪ねている場所は、児童養護施設かそれに準じた宗教的な保護施設ではないか。米黒人兵と邦人女性との間に出来た私生児の子らを見つめるしづ子の眼。私は六年後昭和三十四(一九五九)年に創られる今井正監督の「キクとイサム」(大東映画)を思い出さずにはおれない。そのしづ子の限りなく優しい視線を、ここに読まずにはおれない。ここにはまた――遂にこうした子らの母になれなかったしづ子――いや、この子たちみんなの母にならんとするしづ子の――思いが裏打ちされているのではあるまいか。
因みに、この句稿投稿の前日、しづ子は岐阜駅で師巨湫と数分間の再会を果たしている。それは句集『指環』出版記念会出席の確認を巨湫がしづ子からとりつけるためのものだったとされている。しかし川村氏はこの束の間の邂逅にこそ、しづ子と巨湫の秘密が隠れており、しづ子の永遠の失踪の序曲の開始を意味する調弦があると推理されている。その文章の緻密さと冴えは、是非とも原書をお読みあれ。
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