鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月八日附句稿二百十六句より(1) 四句
忌むかぎり狂ふ燈蛾と人の貌
凄絶な語彙選択の勝利だ。
*
吹かれつつ春日の中のひとりかな
春冷えの吾が室ならぬ中にゐる
春林の徑たゆるまで行くべしと
杉田久女の、「蝶追うて春山深く迷ひけり」がオーバ・ラップする。だが、もうこれは、インスパイアではない。――久女のそれは、私にとっては、句よりも後年の映画、ロバート・アルドリッチ監督の「何がジェーンに起こったか?」(一九六二年アメリカ)のベティ・デイヴィス演じるジェーン・ハドスンが、ラスト・シーンで海岸で踊る姿を髣髴とさせる。久女が後年、精神を病んだように。――しかし、しづ子の春日の中の姿は、毅然としているのだ。彼女は春の林の中にいる。そこは「吾が室ならぬ中」でありながら、しかもしづ子が「ひとり」屹立する地平である。しかししづ子はその春林の「徑たゆる」地平の果てを目指す覚悟なのだ。則ち、しづ子は「迷」ってはいないのだ。しづ子はきっぱりとした明晰にして冷徹な覚悟の中で、春の林を突き抜けて「ひとり」「行くべし」と言い切る。――私はこれらの句に恐ろしいまでのしづこの覚悟を見る――それはKの破滅への、死(タナトス)の「覚悟」を、では、ない――しづ子の生(エロス)の、強靭な激り、のそれを、である――
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