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2011/12/31

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月六日附句稿五十六句より 十二句

 許せかし醉ふてみだれし月の前

 涼風や鼻尾をはさむ足の指

 涼しさのえりあしみせし髮の形り

 蚊遣香の渦のからみを色にたどり

 素足の膚鼻尾濕りの色にじむ

 夏降りの臙脂濕りの鼻尾の面

 あまおとの殼つたひけり蝸牛

 晩そ夏の膚をさらすや湯の濕り

 錯亂の頭の一角や紅蝙蝠

 蚊遣香の渦たどりゆく錯覺す

 炎天の輓馬に蹤きてゆくほかなし

 炎天の輓馬と吾と徑岐る

 今……二〇一一年十二月三十一日午後九時半過ぎ……しづさん……残すところ、千百数句……今年最後の、私のあなたの句の選句です……ありがとう、しづさん……

新編鎌倉志卷之七 飯島 頼朝亀の前不倫スキャンダル / そして よいお年を!

「新編鎌倉志卷之七」は光明寺を終了、飯島まで公開した。飯島では頼朝亀の前不倫スキャンダルを注で詳述した。これが僕の今年の最後の公開テクストである。今年もあと三時間を切ったが、三流週刊誌風に楽しく読んで頂ければ、幸いである。よいお年を!

いねいねと人にいはれつ年の暮 路通

いねいねと人にいはれつ年の暮 斎部路通

2011/12/30

喪中につき新年のご挨拶を失礼させていただきます 《再掲》

母 聖子テレジア藪野は筋萎縮性側索硬化症による呼吸器不全で三月十九日に七十八歳で永眠いたしました
皆様にはどうぞよいお年をお迎えください
寒さに向かう折柄ご自愛のほどお祈り申し上げます

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月五日附句稿二百七十四句より(11) 贈り人失せて日仐は靑し戀もまた 

 贈り人失せて日仐は靑し戀もまた

 掉尾日傘十句から。ケリーからのプレゼントであったのだろう。
――仕舞われていたお気に入りの水色の日傘を今年もまた包みから出してさしてみる――
――一年前は彼はまだ、生きていた――
――けれど今年はもう――
――あの人は永遠に冥界の霧の彼方へ消えていってしまった――
――燦々と降り注ぐ陽光――
――もう私しか帰ってこない住まいへ――
――くるっ――くるっ――
――と傘を回してみる――
――くるっ――くるっ――
――みずいろの日傘としづ子――
――しづ子独り――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月五日附句稿二百七十四句より(10) 四句

 驛へ驛へ學生つづく猛り鵙

 おほかたの思想かたむく落花かな

 統ぶるすべざる思想捲散る

 學生やこころ一途に夏の雲

 「おほかたの」の下五は底本「落花かふ」。訂した。学生運動の初期の映像である。しづ子も戦前の若き日にそうした集会に出たらしき「春燈下をんな學生混へつつ」という句を見た。しづ子は眼前のこの学生たちを、やや距離を置いて見ているようには見えるが、最後に掲げた句などには、やはりそこには一種の心情上の共感が感じられる。しづ子は決してクールな傍観者ではない。ただそこには常に現実から彼女が学び取ったところの、絶対善や自由の謳歌への疑義、相対的な現実世界の持つ胡散臭さを嗅ぎ取っているようにも私には感じられるのである。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月五日附句稿二百七十四句より(9) 三句

 死を誘ひ死をはばみては秋櫻

 わが生をとどむるものやコスモスなど

 コスモスなど搖れやすければ死ただよふ

 かつてしづ子が拘ってきた「コスモスなどやさしく吹けど死ねないよ」という「公案」への――今の一つの――しづ子の答えであった――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月五日附句稿二百七十四句より(8)  梅雨めく雲爲さば爲べきこといくつ

 梅雨めく雲爲さば爲べきこといくつ

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月五日附句稿二百七十四句より(7) 戀の蝶たがひ触れつつとほのきぬ

 戀の蝶たがひ触れつつとほのきぬ

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月五日附句稿二百七十四句より(6) 二句

 北海の流る五月の髮なりき

 封建性そのものの貌蝦暑し

 ここに再び「鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿五百四十六句より(4) 北海道追懐句群十七句」で示した北海道追懐句が数句現れる。詳しくは先行する当該部の私の注を参照されたい。「封建性そのものの貌蝦暑し」(「蝦」はこれで「えぞ」と読ませるか、若しくは単純な脱字であろう)は父俊雄の「顏」と読む。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月五日附句稿二百七十四句より(5) 七句

 出生を忌むばかりにてちろろ蟲

 これを最後とおもふ朝顏あきかぜに

 露萬朶吾に死ぬ日の■然と

 露萬や美濃に訣るる墓の前

 美濃■る日の近づきや露育つ

 離るべきおもひの強み露育つ

 白露や逢ふが別れと誰が言ひし

 判読不能字を含みながら、全体に不吉な句群である。既に岐阜を去り、失踪を決意したしづ子の社会的な死の末期の眼でもあろうか――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月五日附句稿二百七十四句より(4)  擦るマツチ戰いの前と後を生

 擦るマツチ戰いの前と後を生

 この句から始まる「擦るマツチ」「マツチ擦る」「擦りしマツチ」句群が十一句続く。下五は「いく」と読ませるか。この句は、この連作中に「いくさ前の生活おもふや擦るマツチ」という句があることから、第二次世界大戦の前後のしづ子自身の生き様を一瞬の儚いマッチの炎の点灯と消滅の中に見てとっているのだということが分かる。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月五日附句稿二百七十四句より(3)  雷雨の夜壺の白花に詩感なし

 雷雨の夜壺の白花に詩感なし

 と詠みつつ、雷鳴と雷雨を詠んだ連作句群三十数句から。しづ子の句作はそれ自体が一つの生死の連続体への公案の答えであると私はしみじみ思うのである。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月五日附句稿二百七十四句より(2)  牡丹得て人のごとくに吻づける

 牡丹得て人のごとくに吻づける

 ある日――独居の家に高価な牡丹の花を買(こ)うて戻る――活けた牡丹に対坐して冷えた夕餉を摂るしづ子の牡丹(一部の句には芍薬ともある)句群三十四句より。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月五日附句稿二百七十四句より(1) 二句?

 野に戻ればふと

 體のうちのうづくなり

 二句目は底本では「うづくるり」。一瞬、すわ、しづ子の自由律かと眼を見張ったのだが、これはどうも、
   野に戻ればふと體のうちのうづくなり
 上五の大幅な字余りという連続したもののように思われる。ちょっと残念。

2011/12/29

さても困った338586アクセス

記念テクストが間に合わない。取り敢えず芥川龍之介に関わる同時代自死直近評論二つは用意してある。勿論、ネット上には、ない。これで、みんなちょいと許しておくんなまし。

新編鎌倉志卷之七 光明寺へ

「新編鎌倉志卷之七」は光明寺に入ったが、どうも細部に拘ってなかなか進まない。本年中に区切りをつけたかったが、とっても無理であることを自覚した。あなたに馬鹿にされない程度には、僕は真剣にやっている。どうか、お許しあれ。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月二日附句稿百五十八句より(5) 戀遠しひらけば日仐みづいろに

 戀遠しひらけば日仐みづいろに

 「仐」は「傘」のこと。

 どこぞのちゃらちゃらした現代の女流俳人に、似ても似つかぬ超軽量の類似句を見たことがある――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月二日附句稿百五十八句より(4) 蟻三句

 蟻の眼に水のかがよひ美しき

 子の指がねらひし蟻のすべてを殺す

 夜の蟻迷ふかぎりを迷はしむ

 『指環』の掉尾から三つ目「蟻の體にジユツと當てたる煙草の火」で知られるが、しづ子には蟻の句が断然多い。そんな中でこの蟻の眼に」のような俯瞰ショットでなく、水に落ちた蟻の目線で詠んだものは珍しい。「この指が」の句、ずっと昔読んだ漫画に、少年が巣に戻る蟻を親指で悉く潰し続け、母に呼ばれて、家へ帰るのだが、最終コマは笑顔で走ってゆく少年の前方からのアオリのショットで、その背後の天空から巨大な手が親指を向けて降りてくる――というのがあった。この句は、少なくとも蟻からのアオリの映像が見える――「頑是無い」子供の無邪気な殺意の「愛くるしい」表情が――見える。「夜の蟻」はそのシチュエーションと語彙の選択、厳然たる写生性がオリジナルで面白い。――えっ? 大丈夫、御安心なさい――この前の句でしづ子は「土に還さしむ」と詠んでいますから――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月二日附句稿百五十八句より(3) 六句

 夫ならぬ夫と哀しむ林檎剝く

 林檎酸くむかしおのれの還るなし

 林檎酸く假定の中にをくおのれ

 狂ほしく一黑人の愛の手の

 林檎剝くや人を愛せしことも過去

 林檎剝けばむかしのおのれ稚な妻

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月二日附句稿百五十八句より(2) 八句

 とりいだせし扇風機にも過去嚴と

 とりいだせし扇風機にて戀哀れ

 扇風機の奢りにありぬひとりの居

 扇風機にもつともちかく貌をさらす

 扇風機に眞對ふ貌の細の眸

 夫という言とひしめく靑梅と

 實梅落つ素直に享くる人の愛

 死す如く眠りおちゆく扇風機

 先の「過ぎ失せし愛の記念や冷藏庫」ほどではないが、しづ子の恋句には電気製品という極めて現代的な対象によって追懐されるという際立った特徴がある。それもこの昭和二十年代には、冷蔵庫や扇風機を普通に持っていた上流階級に属する俳人誰彼であっても、こうした自慢げに見える句は流石に嫌味になるから遠慮して決して作るまい。これらの句は、言わば、そうした階級意識を持った「遠慮」――その実、厳然としてある貧富の差の目線――更にしづ子のようなダンサーを蔑む彼らの視線――「しづ子」伝説に涎を垂らす鵜の目鷹の目猥褻卑猥な自称俳人の男たち――といった有象無象の優位感を持ったしづ子の周囲の輩に対する、しづ子独特の、一つの冷めた報復であるように感じられる。扇風機の真正面に目を細めて髪を靡かせて無言でいるしづ子は――「ワレワレハ宇宙人ダ」ではない――「お前たちこそ人の心を踏みにじって屁とも思わない宇宙人ではないか」と私に語りかけてくる――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月二日附句稿百五十八句より(1) 蹴りつつに家へ近づく實梅かな

 蹴りつつに家へ近づく實梅かな

 アナタニハソンナ經驗ハアリマセヌカ ナイトナラバアナタハ幼年期ヲ慘タラシク拒絶シテ愚劣ナル大人ニ強イテ成ラントスル淋シイ人デスネ サウシテ サウシテ此ノ句ハシヅ子ニ別ナ過去ヲ引キ出サセル情景トナルノデスヨ――次ヲ御覧アレ――

2011/12/28

草野大悟が生きていたら

草野大悟が原発の現実をドキュメントしていたら――僕はもっと強烈に人々は意識すると思う――「知」じゃない――真の「感性」の訴える「聲」が欲しいのだ――草野には――彼だけにそれが出来たと思う――「聲」の「質」を喪ったメディアが――f分の一ゆらぎの、如何にもな「聲」切り売りするの愚劣な輩が――余りに多過ぎる――そんなことを今日、僕は感じたのだ――

鈴木しづ子 三十三歳 『樹海』昭和二十七(一九五二)年七月号掲載句全五句

 既に『樹海』前号から始まった巨湫による、膨大な既投句稿からのパッチ・ワーク的な恣意的選句がはっきりと見えてくる。句の後に投句稿のクレジットを示したが、その抄出は逆時系列、五句の中の季の連関性や流れも糞もない、むしろ、しづ子の持っている連作性や句間の有機的連合を解体し、わざわざランダムにしてあるとしか思われない。また、この五句が私には――勿論、私は私の選句眼が一般に通用するようなものだとも思ってはいないけれども――それにしてもこの掲載句は、どれも決して多量投句群の中で光っている佳品であるとは到底、感じられないのである。私は前号とこの号辺りに、後の、しづ子失踪後に始まる巨湫の確信犯的犯罪の源泉があるように思われてならない。

 蠅打ちてけふのおのれの在りにけり (六月六日附)

 眉引くやことしの春は雨多く (五月六日附)

 轉業かうすき雲ゆく花の穹 (四月十五日附)

 事もちし花のコスモスいますがれ (三月三十日附)

 沙羅双樹富しことなし貧もまた (三月二十八日附)

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十七日附句稿百三十二句より(6) 十二句

 花桐や絶ちし交はりそのままに

 花桐やこころかよはぬ叔母と姪

 花桐や死すとも逢ふを欲らざるなり

 花桐やこころ否める女人の貌

 花桐や三十年をアララギ派

 肉親に蔑まれつつ夏を棲む

 花桐や作家としては慕はしき

 花桐や作家にあらず人として

 肉親のあらそひつづく梅雨の月

 花桐や言はるることも一應は

 封建制そのものにして桐に棲む

 肉親らしからざる情桐の花

 「花桐や三十年をアララギ派」は底本では「花桐や三十年をア■■ギ派」。句稿最後に配されたアララギ派の歌人であった岐阜在住の叔母山田朝子との訣別句群十数句から。「肉親らしからざる情桐の花」は掉尾。川村氏は「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」に「その後の叔母と父」という項を設けておられ、その中で芭蕉の「我宿のさびしさ思へ桐一葉」を引用、『その葉は衰亡の兆しを表わしても』おり、『しづ子はこの<桐の花>の優雅な佇まいを、奇気位の高い当時の言葉でいえば、封建的と見立てている。彼女は古くから詠まれているこの<桐の花>を、古いモラル、そして自身の意思が通じない象徴として捉えている』と解釈されている。これらの句群を総攬した時、確かに川村氏の謂いは強い説得力を以て私に響いた。そして――しづ子の失踪の覚悟は――既にカウント・ダウンに入っていたものと思われるのである。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十七日附句稿百三十二句より(5)  秋風裡片言を以て母を呼ぶ

 秋風裡片言を以て母を呼ぶ

 限りない哀切が中七の字余りで利いている。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十七日附句稿百三十二句より(4) 四句

 醉ふを欲る一夜の酒や雨の沙羅

 かかる夜は醉ふれ崩れむ雨の沙羅

 花沙羅に雨はすばやくあがりけり

 こころなき一夜の降りや沙羅双樹

 「かかる夜は」の中七「醉ふれ崩れむ」は不審。
 これらの沙羅句群、声を出して詠むと、不思議に響きがよい。しづ子は句を創作する時、きっと音読しつつ詠むことを心掛けていたと私は確信している。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十七日附句稿百三十二句より(3) 五句

 いなづまがくつきり摑む壺の形り

 涼風の居のくらがりに人を招ず

 野莓やみるみる暗む空の雲

 雲下りて十藥暗し疾風起り

 まつたくの沖の暗みや花茨

 しづ子のモンタージュの感性上の上手さがこれらの句にはよく出ている。「涼風の」の句は不思議に凄みがある。最後の句は後に続く句から、しばしばしづ子が好んで行った知多半島の嘱目であり、その前の二句もその折りの句である可能性が高いと私は思う。因みに私の祖父藪野種雄は東邦電力の発電所技師として知多半島の根元にあった名古屋発電所の建造起動に携わり、後に知多南端の河和の町で肺結核のために亡くなった。祖父の遺稿はここに。私にとっても因縁の地である。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十七日附句稿百三十二句より(2)  揚花火女人の肩に似て崩る

 揚花火女人の肩に似て崩る

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十七日附句稿百三十二句より(1) ケリー・フラッシュ・バック五句

 八月を夢美しく病みゐけり

 またたくは葉月をはりの遠燈し

 短夜の夢はただよふ筑紫の野

 汗わきつぐくらがり中のぎらつく眸

 けんらんたる夏夜の夢の中に病む

 これらの句は前年の夏の句と推定される。「筑紫の野」とあるのは、ケリーが朝鮮戦線から佐世保へ生還したことと関連するが、しづ子が佐世保へ向かった事実は確認されていないから、これは一種の想像句と読みたい。川村氏は「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」でしづ子が慕った歌人の叔母朝子が敗戦後に中国から引き揚げた際の上陸地が佐世保であること、また同時期には『父俊雄が熊谷組福岡支店長代理として、同じ九州の福岡に義母と共に暮らしている。しづ子にとっては、この九州の地は因縁深いものがあ』ったと記されている(同書二七八頁)ことから、これはこの佐世保からのケリー帰還の連絡を受けたしづ子があくがれる心で詠んだものと思われるのである。――しかし、既に記したようにケリーはヒロポン中毒者となっていた――これらの句の「病みゐたり」「ぎらつく眸」「夢の中に病む」のは間違いなくケリーである。そしてこの映像は、佐世保から埼玉県朝霧へと移送されたケリーと面会した、しづ子の実感に基づくものである。病んだままにアメリカへ帰国し故郷テキサスで死んだケリーの面影は、幾度となく、こうして、しづ子の心のスクリーンにフラッシュ・バックするのである――

2011/12/27

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十四日附句稿百五十七句より(6) 萬緑の岩に腰をきトマト喰めり

 萬緑の岩に腰をきトマト喰めり

 十数句のしづ子の好きな木曽川の渓流での句の中の一つ。巧まぬ画面の色彩の面白さが利いて、更に、ほっと一息ついているしづ子の美しいフル・ショットと笑顔が、見える。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十四日附句稿百五十七句より(5) 五句

 駐留軍キャムプへかよふ棗の實

 タイプ打って必死の夏を過ごしけり

 タイプ打つWに當つる汗の指

 夏葉吹き英文タイプにミス多く

 タイプでは生活たたず棗嚙む

 しづ子が岐阜へ来たのは昭和二十四(一九四九)年であるから、その後の二年間の夏の時期に、しづ子は進駐軍のキャンプでタイピストとして働いていたことがあるか、働こうとして米軍基地でタイプを習っていたことが、これらの句から推定される。川村氏は「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の二七〇頁で、ケリーとの交際の中でその機会を得たのかも知れないが、しづ子が米軍基地に勤務した形跡は見当たらず、しづ子がかつて『女子大学の入試に失敗したように、その夢もまた果たせなかったのかもしれない。この句が、ダンサーになる以前のものか、その後の句なのかは定かではない。だが哀れな心境ではある』と記されている。特に「タイプ打つWに當つる汗の指」は、しづ子の真骨頂であるカメラのアップが素晴らしい私の大好きな句で、二〇〇九年八月河出書房新社刊の『KAWADE道の手帖』の「鈴木しづ子」のエッセイで俳人の土肥あき子氏がこの句を鑑賞し、『浮遊した双手をわが身に引き寄せるように、タイプライターの上で悪戦苦闘するしづ子』の映像を語り、『しづ子の人生にもっとも大きな影を背負った、運命の指がそこにある』と語られている。この「Wを打てば」という文章、しづ子への評の中でも頗る名品であると私は思う。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十四日附句稿百五十七句より(4) 二句

 美しく悲しきはなし星祭

 七夕ややつぱり母の戀しくて

 七夕は星祭りとも言う。しかし、「美しく悲しきはなし」とは、牽牛淑女のことであろうか? そうかも知れない。皆、そう読むかも知れない。しかし、私はこの句を読んだ瞬間、これは、もしや宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」を詠んだ句ではなかろうかと夢想したものである。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十四日附句稿百五十七句より(3) 還らざることの確かさ蚊追香

 還らざることの確かさ蚊追香

 「蚊追香」は見慣れない表記だが「かやりかう(かやりこう)」と読みたい。私は好きな句だ。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十四日附句稿百五十七句より(2) 西瓜七句

 指はじきはじき西瓜の品さだめ

 わが選りしにし西瓜の重み掌を替え持つ

 識らざれば言はるるままの西瓜得て

 西瓜得て黄昏のみち急ぎけり

 西瓜割る燈しの下に板を据え

 夜の西瓜かつと割るや刃の兩側

 刃をあつるべく定まらぬ西瓜の位置

 しづ子の誤字であろう、総ての句の「西瓜」は総て「西爪」。総て「西瓜」に訂した。「指はじき」の中「はじき西瓜の」は底本「はいき」。独断で「じ」の誤読と判断して訂した。「わが選りしにし」の「選りしにし」は誤字か誤読が疑われるが、「選りにし」の謂いであろう。「識らざれば」の下五は「西爪を得ふ」である。これは「得て」か「得し」か「得る」などが疑われるが、「累」の変体仮名「る」は実は最も「ふ」に近い。但し、次句の上五との一致から独断で「得て」とした。
 私はこの西瓜連作、とっても好きだ。

新編鎌倉志卷之七全12冊 第10冊終了

「新編鎌倉志卷之七」(全十二冊)は崇寿寺鐘銘及び経師ヶ谷を終了、巻之七の前半、第十冊までを終了したことになる。残すところ二冊(第八巻は一巻一冊)。「新編鎌倉志」のテクスト化に入ったのは今年の1月2日であったが、まさかこんなに進むとは僕自身も予想だにしていなかった(その間、「鎌倉攬勝考」にも手をつけ、現在、巻六~十一を完成した)。四月以降は母の死を一時忘れることがその動機であったが、逆にその母の力が、ここまで持続出来た唯一の理由であったように思う。

母さん――ありがとう――

2011/12/26

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十四日附句稿百五十七句より(1) 四句

 なにゆえに花にあめ降る石は白く

 芭蕉を意識して贅沢な句であるが、字余りの下五に座り心地の悪さが残る。

   *

 わが眼より玻璃裏側を蟲の匍ふ

 蜂の飛翔をなぜか哀しき眼もて追ふ

 蜂が巣をしづ子の家のすぐそばに作ったらしい。刺されること怖がったしづ子は窓に金網を張った。二十数句に及ぶ連作から。

   *

 ダイナてふこの颱風を捲かれ

 「捲かれ」は「まきつかれ」と読むか(そう読んでも私には「たいふうをまきつかれ」という破格文法は腑に落ちないのだが)。ただ私がこの句を採った理由は、しづ子の大量投句稿が正しくアップ・トゥ・ディトな、『現存在吟』であるということを示したかったからである。ダイナ台風は昭和二十七(一九五二)年の台風第二号で 六月二十日に発生している。国際名“Dinah”。六月二十三日に静岡県浜名湖付近に上陸、死者六十五人を出しているが、ネット上で検索すると、翌月の「アサヒグラフ」一九五二年七月十六日号は「台風ダイナ岐阜県下を襲う」という特集を組んでおり(標題のみで記事は未見)、しづ子のいた岐阜はその被害が甚大であったことを容易に想像させる。岐阜市の公式の大水害記録にも、二十三日のクレジットで、
ダイナ台風・台風規模中型・最大風速NNE10.8・最大瞬間風速 N12.2・岐阜県内の主な被害(死者1・負傷者29・床上浸水460・堤防決壊128・岐阜市水稲被害500ha
という記載が見える。
この句稿の日附に注意されたい。同年六月二十四日、ダイナ上陸の翌日である。この句は句稿の六十九句目、ほぼ全句の中央に位置している。やはり、しづ子は決してストックした句を易々と投句していたのでは、なかったのだ。正に強烈な「修行」として、日々時々刻々と精進していたのだということが、私にはここで改めて実感されたのである。俳句を消閑の具とするあなたには馬鹿馬鹿しいことかも知れない。私には、しかし、重大である。

新編鎌倉志卷之七 太平記 長崎高重最期合戦の事 にテッテ的にハマる

「新編鎌倉志卷之七」は崇寿寺旧跡まで更新。ここで僕の大好きな「太平記」の「長崎高重最期合戦の事」にテッテ的にハマった。昨夜、殆ど徹夜をして原文・語注・現代語訳を附した。実に現在までの当該ページの1/3の分量になった。グンバツに面白い。是非、お読みあれ! 決して失望させませんぞ!――

2011/12/24

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十三日附句稿百七十一句より(6) 「指環」改作 三十一句

 本句稿の最後は『「指環」改作』と標題を附した三十一句からなる。句集刊行後半年にして改作句をこれだけ纏めて師に示すこと自体、私は異例のことと感じる。総てを見て行きたいが、「改作」と言いながら、厳密に校合したわけではないが改作の直接の原句が『指環』に見当たらない句が半分以上ある、というのが私の印象である。恐らくは『指環』で用いたところの過去のイメージのストックから、今作った句であるけれども『指環』に載せるならこっちを載せたかったと思う句が含まれているのではなかろうか。原句と思われるものを三字下げで示した。この句稿は変である。ともかくお読み頂こう。

   *

「指環」改作

 葉の松の年のはじめの黝みどり

 原句なし。『指環』の新年の句は冒頭の

  にひとしのつよ風も好し希ふこと

であるが、この改作には見えない。「黝みどり」は「あをみどり」と読む。

   *

 玻璃の面や凍みるほどにも疵走る

   月蒼む吻ふれしむる玻璃のはだ

   たんたんと降る月光げよ玻璃きづつく
 原句は二句とも巧みな「捻じれ」が表現されているが、改作は物理学の実験みたようでつまらない。

   *

 早春のリボンはためく髮の先

   春さむく髮に結ひたるリボンの紺

 改作は凡庸なカメラマンのブレまくった写真。原句のスローモーションとアップと色彩に及ぶべくもない。

   *

 梅雨降りの激ぎちきたるやゼネスト日

   雲ながれゼネストつづく熟れいちじく

 やはり原句に軍配。噎せ返るようなゼネストの雰囲気が「熟れいちじく」の饐えたアップと美事に一致する。

   *

 ラケットの握りななめや靑葉光げ

   テニスする午前七時の若葉かな

 これは比較すれば改作句の方が動的でいいが、原句改作何れも凡庸な句であることに変わりがない。

   *

 うべなへば頭べ吹かるる秋芒

   穗の芒こころそまざることもきく

 どちらもよい。これは二句並べてしづ子の内心が確かに伝わるところの句であると言おう。

   *

 秋燈下履歴つづりてはばかるなし

   秋燈下こまかくつづるわが履歴

 これは無論、改作句に軍配。

   *

 春雷のそれきり起たず籠り宿

 これと似ているものに、

   默々と小包つくる春の雷

があるが、これは改作というより、連作の別シーンである。

   *

 潮の渦解けしのちにて潮流る

   *

 なにゆゑのあがきぞががんぼ玻璃をうち

 ががんぼや雨の吹きつけ玻璃の面

 ががんぼのあがきつつや玻璃のあめ

 とび入りし玻璃のががんぼ騒々し

 ががんぼのいきて息づく玻璃面かな

 ががんぼの在らずなりたる玻璃の面

 『指環』にががんぼの句は一句もない。但し、これと同じシチュエーションを蛾で読んだ連作は大量投句稿の中にはある。「ががんぼのいきて息づく玻璃面かな」の下五は底本「玻璃面かふ」。訂した。

   *

 じゅんじゅんと冬夜の蒸氣昇らしめ

   對決やじんじん昇る器の蒸氣

 これなどは最大最悪の改悪句にしか見えぬ。

   *

 懺悔めく冬夜の雨のいたりけり

   *

 みじろげばたがひの衣霧じめり

   *

 理性葉つ一夜の霧の妖めきに

 「理性葉つ」はママ。意味不明。判読の誤りであろう。

   *

 たたずむは女人とおもふ蟲の闇

   *

 東京も北多摩べりのカンナかな

   往還にカンナ花もつ病不可

   カンナ花せいめい永し朝夕通る

 何となく東京への懐かしさから地名を詠み込んだものの、これも駄句に堕してしまった。

   *

 雪崩るると衣あたらしき双の膝

   *

 居ごもりの蘇枋の濃かりけり

   蘇枋濃しせつないまでに好きになつたいま

 それにしてここまで改悪の駄句が並ぶと、これは一体どういうつもりで『改作』と名打ったのか――如何にも不思議の感にとらわれてしまう。この句群は何だか――やっぱり変である。

   *

 見上げれば星炎えいづる梅雨のひま

 底本「梅雨のひき」。独断で変更した。

   *

 黑人うたごゑつづく花ふれり

   黑人と踊る手さきやさくら散る

 哀しい改悪のダメ押しである。

   *

 燈の柿のころがりてゐて娼家かな

   ひまはりを植えて娼家の散在す

   夏草と溝の流れと娼婦の宿

 上五がやや不審であるが、悪くない。

   *

 移りて美濃の夕焼け濃かりけり

 底本「美濃」は「美農」。訂した。

   *

 はずさるる汗の耳輪の靑びかり

   *

 疲るるなき十指の爪の汗じめり

 この句は、もしかすると『指環』の掉尾、

   朝鮮へ書く梅雨の降り激ちけり

の改作のつもりなのかも知れない。しかし、ケリーへの恋文を書くというよりも、つい先日の昭和二十七(一九五二)年六月十五日附投句稿の、ケリーの母レベッカへの返信を書くしづ子の映像にこそ、この類型イメージは沢にある。

   *

 まみゆると大赤に踏む梅雨の上

   まみゆべし梅雨朝燒けの飛行場

 「朝燒け」を「大赤」と言うのだろうか? 識者の御教授を乞う。

   *

 古し品をかたみとおもふ靑嵐

   頒ち持つかたみの品や靑嵐

 これが句稿の掉尾でもある。この最後の句が『指環』の改作句であることはご覧の通りだ。やはり、しづ子はこの凡庸な改悪句三十一句を、何故か分からないが『「指環」改作』と標題して巨湫に示したかったことが分かる。――私はあまりのことに――この句群は何らかの暗号なのではないか? この句をどうにかして配列すると何かの別なメッセージが浮かび上がってくるのではないか?――などと――今も疑っているのである――

新編鎌倉志卷之七 補陀落寺鐘銘に手古摺る

「新編鎌倉志卷之七」は畠山重保石塔・下宮旧地・新居閻魔から補陀落寺まで終えた。補陀落寺の鐘の銘(この時既に東慶寺にあった)、何だかすっごい佶屈聱牙。識者の御教授を乞う。

2011/12/23

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十三日附句稿百七十一句より(5) 四句

 千代女をのてかしはとしとする花火

 千代女より久せ多住ると遠花火

 白露やむかしはかかる詩でよく

 夫失せの千代女の詩は露をいふ

 珍しく加賀千代女の名を詠み込んだ句群から。但し、最初の二句は失礼ながら判読の誤りとしか思われない意味不明の文字列である。原本を見たい気持ちが髣髴として湧き起こる。後ろの二句は千代女の「露はまた露とこたえて初しぐれ」などを念頭に置くか。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十三日附句稿百七十一句より(4) 三句

 塔白き熱さまよひの夢なりし

 白塔と蟻と熱砂と夢に病む

 夢に病みて月美しき蝦夷の夏

 「夢に病みて」の中七は底本「月美しさ」。独断で変えた。この辺り、死の翳りを潜ませたような不思議な夢の句が続くが、そこに師巨湫を憶う妙な句が挟まったり、「夢に病みて」からは幼少期の北海道の思い出がフラッシュ・バックしたような「札幌」「蝦夷」「アカシヤ」を詠み込んだ句が十句ほど続いたりもしている。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十三日附句稿百七十一句より(3) 三句

 指ふれのさくらはなびらとどましむ

 底本中七「さくらはふびら」。訂した。

   *

 指に選る書はさむべき銀杏木葉

 下五は「ぎんなんば」と読んでいるか。

   *

 八車の花の吹かれや母とほし

 「八車」は花期から考えてバラ目ユキノシタ科ヤグルマソウ Rodgersia podophylla であろう。句柄にもに円錐状のあの白い花がよく似合う。但し、通常は「矢車」と書く。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十三日附句稿百七十一句より(2) 春雷といひてきこえのこころよし

 春雷といひてきこえのこころよし

 しづ子の第一句集の題名は『春雷』、第二句集『指環』の名吟に「好きなものは玻璃薔薇雨驛指春雷」があるが、しづ子には実は文字として以上に、正に「いひて」、言葉として発した聴覚としての響きに対する偏愛があることを忘れてはならない、則ち、しづ子の句は読む以上に聴く俳句であることを我々はもっとディグする必要があるのである。

朝鮮民族は一体とならねばならない

血族を殺すことは、儒教の真の精神を今に残す稀有の朝鮮民族にとって、もっとも恥ずべき行為である。だとすれば、如何なる政治的イデオロギーからも、国際的力学からも鮮やかに解き放たれて、朝鮮民族は一体とならねばならないのだ。かつて日本や中国から受けた屈辱を断固として払拭してきたように、アメリカや旧ソビエト・中国からの従属的呪縛をきぱりと捨て去って、本来の民族としての誇りに立ち戻らねばならない。それをこそ、それをのみ今の我々は心から望むべきである。旧東西ドイツが「当たり前のこと」として行った統一を、今こそあなた方朝鮮民族自身の、如何なる政治的思想的思惑からも自由に解き放たれ、成し遂げねばならないと僕は切に思うのだ。朝鮮民族に栄光あれ!

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十三日附句稿百七十一句より(1) 月光やかすめてすぎし殺意めき

 月光やかすめてすぎし殺意めき

 初五はしづ子の好みからいって「つきかげや」と訓じているものと思われる。こういう猟奇句、私は大好きである。

「新編鎌倉志卷之七」の鰹

「新編鎌倉志卷之七」は妙本寺を経て、田代観音堂・延命寺・教恩寺・逆川・辻町・辻の薬師・乱橋・材木座までやってきた。材木座は藪野家の実家でもあるので近親感がいや増すのであるが、ここで漁村であることからカツオのことを記している。ここのところ、何事にも怒らないようにしているから、今回、「徒然草」の引用でわざと切れた。すっきりした。更に調べてみたところが、実にあの芭蕉の友人素堂の名句や芭蕉の句がこの「新編鎌倉志」の執筆と完全にシンクロナイズしていたことを発見し、今度は何故だか訳もなく嬉しくなってしまった。以下に引用しておく。

〇材木座 材木座ザイモクザは、亂橋ミダレバシの南の濵ハマまでの漁村を云ふ。里民魚を捕トりて業ワザとす。【徒然草】に、鎌倉の海に竪魚カツヲと云魚ウヲは、彼の境には左右なき物にて、もてなすものなりとあり。今も鎌倉の名物也。是より由比の濵ハマへ出て左へ行ユけば、飯島イヒシマの道右へ行ユけば鶴が岡の大鳥居の邊へ出るなり。
[やぶちゃん注:「もてなすものなりとあり」の部分は底本では「もてなすもの也と有」であるが影印本で訂した。以下に「徒然草」第百十九段を引用しておく。
鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境さかひには、双さうなきものにて、このごろもてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申しはべりしは、「この魚、おのれら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づることはべらざりき。頭かしらは、下部しもべも食はず、切りて捨てはべりしものなり」と申しき。か樣やうの物も、世の末になれば、上樣かみざままでも入りたつわざにこそはべるなり。
多田鉄之助「たべもの日本史」(一九七二年新人物往来社刊)には、当時、下種とされた鰹が鎌倉武士に好まれたのは「カツヲ」が「勝男」通ずるからとある。にしてもだ! 私はカツオが大好きで、たたきなら大蒜さえあれば一尾一人で食い尽くせるほどだ! 従って兼好のこの一文だけは永遠に許せないぞ! 糞坊主が!
 なお、本書「新編鎌倉志」の元となった光圀自身の来鎌は延宝二(一六七四)年、その後に本書が完成印行されたのが貞亨二(一六八五)年であるが、山口素堂が材木座海岸で詠んだとされる名吟、
 目には靑葉山ほととぎす初鰹
は延宝六(一六七八)年の作、また芭蕉の知られた、
 鎌倉を生きて出でけん初鰹
は元禄五(一六九二)年の作、更に、蕉門十哲の一人其角には、
 まな板に小判一枚初がつを
の句があることからも分かる通り、正にこの光圀の時代には将軍家へも献上され、通人は鎌倉で揚がった初鰹を舟通いでわざわざ鎌倉にやってきて、一尾一両で買うのをお洒落としたのであった。これらの句をここに並べてみると、実に「いいね!」
「大鳥居」は現在の一の鳥居のこと。]

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十日附句稿二百五十一句より 十三句

 二百五十一句としたが、実際にはこの句稿はもっと多い。途中に編者による丸々四ページ分の『判読不能』注記があるからである。底本の本文に画像で示されている一部句稿を見るに、一枚宛八句表記であるから、単純にこれで計算しても四枚で三十二句、この句稿は実際には二百八十句を有に越える句稿である。それに加えて、この句稿は保存状態が悪かったのか、異様に判読不能字も多い(判読不能字を含む句は実に二十七句に及ぶ)。また編者に失礼ながら、誤読と思われる字も、また多い。

 菊は地に天に勝利のピストル音

 冒頭の「ピストル」連作の一句。これらの一連の句は昭和十一(一九三六)年の山口誓子の著名な句「ピストルがプールの固き面にひびき」に触発されたものであろう。他の句柄から小学校か何かの秋の運動会の何メートル走かの種目競技の嘱目吟であるが、この句だけを取り出すと総てが役割を変じて不思議なおどろおどろしさを醸し出すではないか。一種の天狗俳諧、俳句のマジックである。面白い。そうした読みを断固拒絶なさるなら、俳句を棄てたがいい、と私は本気で忠告する。定型俳句の物理的論理的限界性を見据えずに花鳥諷詠だの伝統俳句だのとほざく輩は私の知己ではない。

   *

 蛇死して子供あそべり夏旱

 蛇死すと歩を早めつつ徑をそれ

 「蛇死して」は底本では「蛇死してる供あそべり夏旱」であるが、独断で変更した。
 以下は、私がかつて卒論で鑑賞した尾崎放哉の句鑑賞の一つを用いた。しづ子の句はこの「蛇が殺されて居る」の近親句である。

 蛇が殺されて居る炎天をまたいで通る

 炎天下、蛇が殺されて横たわっている、つぶされて、生臭い体液を土ににじませて。それを避けることも出来ない細道なのか、それともあえてその凄惨な現場をまたごうとする不思議な心理か。
 惨殺された蛇の屍をまたぐのを、「炎天をまたいで通る」と表現したところに一種ぞっとするような俳諧味がある。太陽のギラギラした直射、埃っぽい乾燥感のなかにあって、ただ蛇から流れ出た血だまりだけが、湿り気をもって、生々しく迫ってくる。
 私はこの句を読むにつけ、芥川龍之介が大正六(一九一七)年の『中央公論』に連載した「偸盗」の第一章の冒頭を思い出す。夏の蒸し暑い不潔な朱雀綾小路の、「車の輪にひかれた、小さな蛇(ながむし)」のシークエンスは、この句とまさに短歌長歌の関係にあると言えよう。
『むし暑く夏霞のたなびいた空が、息をひそめたやうに、家々の上を掩ひかぶさつた、七月の或日ざかりである。男の足をとめた辻には、枝の疎な、ひよろ長い葉柳が一本、この頃流行(はや)る疫病(えやみ)にでも罹つたかと思ふ姿で、形(かた)ばかりの影を地の上に落としてゐるが、此處にさへ、その日に乾いた葉を動かさうと云ふ風はない。まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせゐか、人通りも今は一しきりとだえて、唯さつき通つた牛車(ぎつしや)の轍が長々とうねつてゐるばかり、その車の輪にひかれた、小さな蛇(ながむし)も、切れ口の肉を靑ませながら、始めは尾をぴくぴくやつてゐたが、何時か脂ぎつた腹を上へ向けて、もう鱗一つ動かさないやうになつてしまつた。どこもかしこも、炎天の埃を浴びたこの町の辻で、僅に一滴の濕(しめ)りを點じたものがあるとすれば、それはこの蛇の切れ口から出た、腥い腐れ水ばかりであらう。』(一九七七年岩波版全集より)
下手な解釈を下すより、芥川のこの一文の示すところが、放哉の――そしてしづ子のこれら句の持つ生理的実感を如実に伝えているではないか。

   *

 爆撃下炎日の河流れつき

 ハリーの朝鮮戦争での体験を聞き書きした間接体験の句と読めなくもないが、前に「夏盛る東京をのみ記憶とし」とし、後に「望郷や瓦■の草の吹きつぎて」とあるから、しづ子の空襲体験に基づくものと読みたい。但し、季節が異なることから所謂、知られた昭和二十(一九四五)年三月十日のような大規模な東京大空襲での体験ではないと思われる。東京は本土初空襲であるドーリットル空襲(ドーリットル中佐指揮のB-25中型爆撃機編隊16機による)による昭和十七(一九四二)年四月十七日以降、実に百回を有に越える空襲を受けているが、しづ子はその間、岡本工作機械製作所設計課トレース工として日吉工場に勤務していた。東京の衛星都市で工場群も多かった神奈川も昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲等、大きな爆撃を受けている。

   *

 吾らが手一夜の爐火を絶やしめず

 この句の前後には愛する相手を詠った句が並ぶ。例えば前の方には「雪こんこん吾らが愛に國境なし」「薔薇白く國際愛を得て棲めり」とあるから、ハリー・クラッケの追悼句群と捉えてまずは間違いないのであるが、実はこの句の前にあるような「雪崩」「雪」となると、これは前に掲げた『樹海』昭和二十三(一九四八)年五月号の「山の殘雪この夜ひそかに結婚す」「雪崩るるとくちづけのまなこしづかに閉づ」「春雪の不貞の面て擲ち給へ」の「雪崩」句群の頃の愛人『樹海』同人池田政夫の思い出へと変容しているようにも読まれる。もうこの頃には、しづ子にとって愛した男たちはすべてが遥か彼方の有機的な複合体として意識されていたのかも知れない。私はそれでいいと思う。実は私の過去への意識もしづ子のそれに近いからである。

   *

 銀漢や軍備を希ふ言多し

 銀漢や戰忌む言胸えぐり

 しづ子の時々ふっと胸を突いて出る社会性俳句。前に述べた通り、この時期、保安隊の発足が叫ばれ、再軍備化が進みつつあった。しづ子は賛成反対の二つの声を実に冷徹に謳いあげている。そこにはそのどちらにも組しない、組出来ない、そのどちらにも、邪な思いと嘘がある、と知ってるから、と呟くように。

   *

 驛柵の畫きて月下の道はじまる

 萩原朔太郎「定本靑猫」より。

  停車場之圖

 無限に遠くまで續いてゐる、この長い長い柵の寂しさ。人氣のない構内では、貨車が靜かに眠つて居るし、屋根を越えて空の向うに、遠いパノラマの郷愁がひろがつて居る。これこそ詩人の出發する、最初の悲しい停車場である。

   *

 驛の井の蓋なきままに夏盛る

 巧まぬ美事な写生である。

   *

 二十代ははや落莫と冬に入る

 「二十心已朽」(李賀「贈陳商」)――二十にして心已に朽ちたり――歩こう、預言者――

2011/12/22

先生……帝銀事件を墓場まで持って行かれるつもりですか……

僕は今も先生の「手帳」を待っています……先生……帝銀事件の真実をお話し下さい……あの時、仄めかされたように……僕は忘れていませんよ……先生……僕も命かけてるんですよ……

2011/12/21

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十七日附句稿「白痴」句群六十二句より十五句

 この句稿は一見一読、ともかく強烈である。私が差別的ニュアンスをも避けずに敢えて全句を「白痴」句群としたのは、この全句が重い知的障碍を持った近隣の知れる女性を詠んだ完全な六十二句連作で、途中の一句と最後の五句を除いて総ての句に「白痴」が用いられているからで、この六句も、一句は牡丹の前に佇んだその娘からの散った牡丹の花へのティルト・ダウン、以下に総て採った最後の五句も娘が眼前から去った後の余韻句として詠まれているからである。そこでしづ子は、この『狂人の娘』を「白痴」の語を連打して一見、残酷悲惨冷徹に描いているように見えながら、その実、この『狂人の娘』の中に、まさに女人としての哀しき『人生の狂人の娘』たるしづ子自身を見つめていることがはっきりと分かってくる。私の選句はそれを伝えるに不十分である。底本によって全句の通読をお薦めするものである。

 せつなけれこころ白痴に媚態せる

 白痴にてこころ深げに形りに佇つ

 白痴佇てり夕燒けは血の如くして

 白痴佇てり親あれば髮美しく

 白痴佇つやつねひらかれてうごかぬ眼

 昏れがての雲のうつろひ白痴佇てり

 白痴佇てり吾とひとしき女體もて

 白痴失せぬ雲の夕燒け消えしより

 せつなけれこころ白痴に髮黑く

 白痴の眼牡丹の一點を捉へたり

 白痴にて女人の歩みたもちつつ

 生きるべし梅雨の夕燒けしたたる如

 梅雨燒けや五體そろへばありがたき

 梅雨燒けぬこころゑがける祈りの手

 この刻や生ひしひしと梅雨燒けぬ

 泪しておのれに言ふや梅雨燒けぬ

 二句目「白痴にてこころ深げに形りに佇つ」は底本では「こころ深けに」。独断で濁音化した。下五は「なりにたつ」と読んでいよう。
 冒頭にも述べた通り、この最後の五句が差別的な「白痴」をメタなレベルへと引き上げてゆく。「夕燒け」の生々しい生き血の「したたる如」「生きるべし」――生きよ――と叫び、「五體そろへばありがたき」と感じているのは『狂人の娘』へであると同時に、しづ子自身への強烈なエールである。「こころゑがける祈りの手」は『狂人の娘』の艶めかしく美しい白い祈りの手であった映像が手へフレーム・アップして、再びティルト・アップするとそれはしづ子である。「この刻や生ひしひしと」「泪しておのれに言ふ」言葉は――あの子は私――というしづ子のモノローグなのである――
――僕が小学生だった時、通学路のすぐ脇に一軒の旧家があった。いつもその縁側には朝も夕も年中同じ白木綿の寝巻を羽織った、燃え立っているいるかのように真っ黒な髪の毛の、その髪のまた、恐ろしく豊かな、四~五歳ほど私よりか上と思われる小太りの少女が座っていた。学校には行っていなかった。通る時に皆で彼女のことを覗いたりすると、彼女は必ず嚙み付くように「なんダヨ!」と奇妙なアクセントで、ねめつけながら僕らを怒鳴ったものだった。――私は今も――何故だか彼女の顔を忘れられない。彼女は今、どうしているのだろう――彼女は――私の幽かな心の疼きとともに、時々浮かんでくる『永遠の少女』なのである――

酒詰仲男先生の卒業論文がJ.M.シング“Riders to the Sea”であったという僕の驚き

僕の父の考古学の師であった酒詰仲男先生は、実は同志社大学英文科卒である。それは先生の土岐仲男名義の詩集「人」にも示した通り、知っていたが、今回、先生の御子息で甲南女子大学のフランス文学教授であられる酒詰治男先生から父に贈られた資料を借りて読み、不思議の感に打たれたことがいくつかある。

先生は特高の拷問を受けて前歯を4本折られたのであるが、その容疑が、かの右翼に刺殺された生物学者山本宣治の一グループと疑われたためであったこと、それで開成中学校英語教諭の職を解かれたこと、その後に考古学への道を歩まれた際に、國學院大學文学部史学科の学生たちと交流を持って発掘調査に従事したこと(僕は國學院大學文学部文学科卒である)など、興味深く読んだのであるが、特に酒詰仲男先生の英文科の卒業論文がJ.M.シングの“Riders to the Sea”(「海に騎り行く者たち」)であったという酒詰治男先生の文章を読んで、正直、吃驚したのである。

僕はアイルランドの作家シングが大好きである。搦め手からのアプローチではあるが、既に芥川龍之介の愛した『越し人』片山廣子訳のシングの「聖者の泉」、芥川龍之介の著作中、レア物である「シング紹介」もテクスト化している(どちらも、ネット上でのテクスト化は僕が最初のはずである)。廣子は後にシングの戯曲全集の翻訳群があり、勿論、この“Riders to the Sea”も「海に行く騎者(のりて)」として納められている。因みに芥川龍之介の生涯の畏友恒藤恭(当時の姓は井川で、京都大学法学部へ進学していた)は、芥川の勧めで第三次「新思潮」に載せるために正にこのシングの“Riders to the Sea”を「海への騎者」 として翻訳してもいるのである。

――父の遠い昔の師酒詰仲男先生が二重螺旋のように僕に繋がっておられるような気がして、正に不可思議な感に強く打たれた――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿百六十五句より四句

 梅雨降れり混血の子がうようよと

 父にもち黑人兵を死なしめし

 雪美しき國への帰化を希ふとか

 ゆく雲や妻を愛せば帰化ならむ

 「梅雨降れり」の「混血の子が」は底本「混血のるが」であるが、以上のように独断で変えた。上五も何だか座りが悪い。「父に持つ」ではありまいか。「父にもち」の句の「死なしめし」は底本「死ふしめし」。訂した。以前、しづ子が頻繁にこうした混血の児童や孤児を保護した施設を仕事の合間に訪れていたように思うと書いたが、やはりそれを感じさせるもので、生活句の中にぽんと放り込まれた連続する二句である。
 後の二句も連続する二句であるが、これもおや? っと感じさせる句である。この「雪美しき國」は日本、ダンス・ホールで「日本人のワイフを愛しているから帰化しようと思う」としづ子に語りかけているのはクラブへやってきたGIということになろうか。
 この句稿、冒頭で勤め先の集団性病検診の景を詠んだり、「靑蔦」や「梅雨」「セル」の多量連作句が並び、見た感じがそれら「蔦」「梅雨」「セル」の文字が恰も総譜の通奏低音のように見えたりもするのだが、残念ながら私の琴線に触れてくるものはなかった。

2011/12/20

横光利一「蠅」の「四」の生徒によるオリジナル・ピクトリアル・スケッチ

「心朽窩 新館」の僕の『横光利一「蠅」の映像化に関わる覚書/シナリオ』の冒頭に、同作の「四」のシークエンスの、今年の僕の高校三年生の教え子の手になる秀抜なる作品『横光利一「蠅」の「四」の生徒によるオリジナル・ピクトリアル・スケッチ』をリンク、公開した。本人の公開許諾を取り付けてあるが、著作権は彼女にある。一切の転載はこれを禁ずる。

横光利一「蠅」の「四」を青空文庫から引用しておく。

       四

 野末の陽炎の中から、種蓮華を叩く音が聞えて来る。若者と娘は宿場の方へ急いで行った。娘は若者の肩の荷物へ手をかけた。
「持とう。」
「何アに。」
「重たかろうが。」
 若者は黙っていかにも軽そうな容子ようすを見せた。が、額ひたいから流れる汗は塩辛かった。
「馬車はもう出たかしら。」と娘は呟つぶやいた。
 若者は荷物の下から、眼を細めて太陽を眺めると、
「ちょっと暑うなったな、まだじゃろう。」
 二人は黙ってしまった。牛の鳴き声がした。
「知れたらどうしよう。」と娘はいうとちょっと泣きそうな顔をした。
 種蓮華を叩く音だけが、幽かすかに足音のように追って来る。娘は後を向いて見て、それから若者の肩の荷物にまた手をかけた。
「私が持とう。もう肩が直なおったえ。」
 若者はやはり黙ってどしどしと歩き続けた。が、突然、「知れたらまた逃げるだけじゃ。」と呟いた。

その生徒のワン・ショットから――

Haruka_2

もう一枚――

Harukas_5
絵のタッチといいい、光源やアオリのカメラ・ワークといい、SEといい――僕には永遠に忘れ難い素晴らしい作品である。私の筐底で消え去るのは惜しい。これは僕の永遠の教師生活の形見である――是非、ご覧あれ――

公開を許してくれた彼女に――心から――

“Here's looking at you, kid!”
――君の瞳に乾杯!

2011/12/19

新編鎌倉志卷之七 大巧寺・本覚寺・夷堂橋・大町

「新編鎌倉志卷之七」は大巧寺・本覚寺・夷堂橋・大町まで更新した。ここは我が藪野家の歴史の地である。僕の祖父が亡くなって四人の子を抱えた祖母はまず大巧寺おんめさまに落ち着く。後、大町に居を構えた。その川向こうにかつて芥川龍之介は新婚時代の蜜月を過ごしたのだった。何もかもが不思議な因縁ではないか。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿五百四十六句より(15) 掉尾三句

 指あはれ汗とインクといづれが濃き

 とどまればあふるるほどの暑さかな

 百姓の夕べ歸るや雲と水

 

 この三句、名吟であると私は思う――語りつくした後の巧まぬ感懐吟である――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿五百四十六句より(14) 十四句

 ひとごとと聞きながしつつ柿の花

 おのが言おのれに還るや柿の花

 世の人の眼の確かさよ柿の花

 評さるる吾はここにあり柿の花

 わが詩はわが詩なりに柿の花

 香水やいつはりは亦美しく

 香水やいつはりは亦難くして

 香水や狎るれば僞言恥づるなく

 告げ得ざる師へのいくつか梅雨めく雲

 わが詩にいつはりありや梅雨めく雲

 讀むひとの意の異りや梅雨燒けて

 詩の意の曲げらるること梅雨燒けて

 辯ぜざれば梅雨の夕雲朱かりき

 離りきて師ぞしろしめす梅雨の雲

 これは句集『指環』の齎した「しづ子」伝説へのしづ子の――半ば諦めた半ば尻を捲った――一つの感懐である――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿五百四十六句より(13) 水中花故郷は遠くなるばかり

 水中花故郷は遠くなるばかり

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿五百四十六句より(12) 三句

 鳳仙花むかしわが詩やさしくて

 鳳仙花まことは弱き女人にて

 鳳仙花まことの姿知らしめず

 ホウセンカの花言葉は「快活」「私に触れないで」「せっかち」である。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿五百四十六句より(11) 二句

 書きつつにおのれ涕く夜の燈蛾かな

 燈蛾捉へたり手に持つものと壁のひま

 二十七句に及ぶ、手紙をしたためる夜の句群から。ケリーの母レベッカへの返信と思われる。

2011/12/18

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿五百四十六句より(10) ハリー・クラッケ哀傷句群全三十六句

 テキサスの春を傳へてあますなし

 人の母老いけり梅雨の月薄く

 旅費送るともいはれつつ春の雪

 テキサスの花むらさきに文重し

 米語におもふことばの崩れ月梅雨めく

 月梅雨めくなりゆきなりといふ觀かた

 異つ國のことば習ふやアマリリス

 レベツカと讀みし署名や梅雨燈下

 うつしゑや雪消え山そびらにし

 人の母の情に涕きぬ梅雨燈下

 人の母にまみゆることや春の雪

 春の雪うつしゑをもてまみえけり

 耐えしめずうつしゑに見し人の墓

 習ひのごと十字を切りぬ梅雨燈下

 墓碑の面の名は讀めざりき雪被き

 梅雨激ちケリー・クラツケ在らざるなり

 信ぜざるべからず梅雨の降り激ち

 梅雨の降りとどめを刺されし如くにて

 激つ降り人のうつしゑ棄てにけり

 夕星やうべなひ難き見えざる死

 梅雨燈下海■りきし文と品

 梅雨の燈やおののきほどく文の端し

 やうやくに返事したたむ牡丹かな

 英字にて署名をはるや梅雨激つ

 花椿たがひかよはす文あらぬ

 鬼灯や人のことには觸れず書く

 テキサスまで送るべき文夏薊

 夏薊週餘ののちに届くべし

 靑葉濃き木曾のうつしゑ送りけり

 梅雨の燈や縁者あらざることも似て

 老い先は短かからむといふを讀む

 人の母のうつしゑを見ていねがたき

 蔦の葉や老いの身が言ふ金のこと

 蔦の葉や子を喪ひしことの文

 文を見て涕かされしことからむ蔦

 からむ蔦それもこれも運命かな

 ハリー・クラッケ哀傷句群とは私の仮題である。私がそう判断する連続する全三十六句を総て採った。この連作には注も不要、如何なる俳句的批評も無効である。このハリーの母レベッカ母さんの、雪を被ったケリーの墓の写真を、送られてきたケリーの遺品を、胸に抱いて涙するしづ子に共感しない者は(そんな輩は私はいないと信ずるが)、しづ子自体を語る資格が全くない。遙かなテキサスのレベッカの映像さえ見える。それは、しづ子がこのレベッカに実母綾子を完全に重ね合わせているからに他ならない。SEは終始、頭上に降り、身の周囲をたぎるように流れ落つる雨音である。
(雨音。)
――燈下に送られてきたケリーの生前最後の写真に見入るしづ子――
――泣きながらゆっくりと、細かく、ケリーの写真を破るしづ子の手――
――燈火のしづ子、哭く――
(雨音、激しくなる。F・O・)
「墓碑の面の」の下五「雪被き」は「ゆきかずき」と読んでいよう。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿五百四十六句より(9) 二句

 わが神は魔なり黑髮かく長く

 神よりも魔親しも身ほとり風光る

 一句目の中七は底本では「魔ふり黑髮」であるが、訂した。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿五百四十六句より(8) 二句

 貞女とは秋をきらめくダリアの緋

 烙印を押されてしまひぬダリアの緋に

 この二句に共通するのは、少なくとも意味深長な解釈を許すのはダリアの花言葉「栄華」「華麗」そして「移り気」以外にはない。しづ子はやはり花言葉に精通していると私は思う。本邦での花言葉の普及はネット上の情報によれば、昭和初期に発売された小学生相手の趣味の本に、既に花言葉の解説が掲載されているとあり、花言葉の流行はかなり早いと考えてよい。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿五百四十六句より(7) 不思議ながじゆまる句群より十句

 かりそめにあらざる契りがじゆまる葉

 がじゆまるの葉の滴りも小豆島

 海荒れの雲のうごきや南の國

 海流に沿ふて流すやがじゆまる葉

 たがひ持つがじゆまる葉の靑さかな

 かりそめの言の不吉さがじゆまる葉

 裂きて持つがじゆまる葉よ離るまじ

 古りけり吾手に残るがじゆまる葉

 指に折る書より出でしがじゆまる葉

 片割れのがじゆまる葉よ夕べ濃く

 哀戀や裂けば破るるがじゆまる葉

 不思議な句群である。「がじゆまる」を詠み込んだ連続する十七句から。そもそもこの「がじゆまるの葉の滴りも小豆島」を示さなければ、ここにある句群を小豆島だと思う読者は皆無である。今なら普通に沖繩の詠と誰もが読む。「南の國」「海流に」は正に沖繩に、「がじゆまる」の生い茂るそこにふさわしい。岐阜から見れば小豆島は南で、温暖な島国ではあるし、瀬戸内海も海流は流れる――と言われていも、やはり「がじゆまる」と「小豆島」は意外中の意外、私にはオーパーツである。だいたいガジュマルは日本では主に南西諸島にしか自生しない。小豆島は温かいが、ガジュマルが生えているとは思われない。何らかの植物園内なら考えられるが、この昭和二十七年代にそうした施設があったのか? いや、オリーブの島ならガジュマルも生えるか、ともかく小豆島に現在若しくは過去にガジュマルの木があるかあったか、御存知の方、御一報頂けると幸いである。ネット上の検索では見当たらなかった。
 そして次は、このシチュエーションの謎だ。

――私は――あの「がじゆまる」の木の下に、恋人と一緒に佇んだのを思い出す――
――そこで私たち二人は葉を何枚か千切り――そのうちの一枚の葉を二つに千切って――それぞれに裂いて持つた「片割れのがじゆまる葉」、その「がじゆまる葉よ離るまじ」と――確かにそこで永遠の愛を契ったのだった――
――二人して歩んだ美しい砂浜――私たちはそこで何枚かの「がじゆまるの葉」を流して戯れたりした――楽しかったあの日――
――でも、ふと呟いた言葉の中に「かりそめの言の不吉さ」が混じっていた――
――それは今や本当になってしまったわ――
――あの時の「がじゆまる」の葉――それが今、私の手の中にある――すっかり古びてしまったけれど――大好きな本の栞にしていたの――
――ああ、私の哀しい恋――
――もう、あなたは、いない――
ピッ……
――「裂けば破るるがじゆまる葉」――

この「がじゆまる」の木は現に生えている。「葉」だけではない。でなければ「たがひ持つがじゆまる葉の靑さかな」とは詠まない。不吉な言上げは、これを呟いたのがどちらかかは分からない。ともかくもそれは二人の思いもしなかった離別や死別を暗示させるものであったということである。しづ子はこの「がじゆまる葉」連禱十七句の最後に――その「がじゆまる葉」を裂いて粉々にしてしまう――夕暮である――

最後に。この相手は誰か。――恋人・旅行・南国・離別、そして現在もしづ子の中に深い思慕の情が現存する――私はハリー・クラッケしかいないと思う。

2011/12/17

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿五百四十六句より(6) 八句

 冷藏庫あがなひし折倖せに

 冷藏庫の扉閉ぢつつ笑みしことなど

 人還るおもひに棲めり食む氷菓

 冷藏庫の扉開けては閉ぢにけり

 過ぎ失せし愛の記念や冷藏庫

 死によりて斷たれし愛や氷菓美し

 嚙む氷菓うべなひ難き一つの死

 國際愛とは氷菓にほどく厚き紙

 「冷藏庫あがなひし折倖せに」の「あがなひし折」は底本では「あがなふし」、「嚙む氷菓うべなひ難き一つの死」の「うべなひ難き」は底本では「うべふひ難き」。訂した。冷蔵庫と氷菓を詠んだ十七句に及ぶハリー・クラッケ追悼句群の一つから。昭和二十二年頃から売り出された冷蔵庫はとんでもない高級品であった。川村氏によれば、しづ子がGIのハリーと同棲したのは昭和二五(一九五〇)年十月頃からと推定され、翌年五月頃には朝鮮戦争に彼が出兵、八月にヒロポン中毒なって帰日、即座にアメリカに帰国した。しづ子の一瞬の「倖せ」を思い出させる冷蔵庫と氷菓(自家製製造器によるアイスクリームかシャーベットであろうか)――哀しい「記念」(かたみ)であった――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿五百四十六句より(5) 二十八句

 大輪の朝顏ゑがく種袋

 好きだね。俳諧本来の諧謔とアイロニーが写生に生きているではないか。

   *

 父の如まさに落日在りにけり

 詠んだ者勝ち。いいじゃないか。

   *

 惜春や壁にかたむくマリアの像

 悪くない。初五が嵌まり過ぎて少し観念に堕ちるか。

   *

 尾張路や自轉車に積む荷の芒

 いいね! 子規も褒めそうな。

   *

 煤煙のながれゆく方冬鷗

 底本「ふがれゆく」。訂した。長回しのゆっくりとパンするカメラがいい。

   *

 またしてもぽつかり割れて夜の胡桃

 三鬼の「夜の桃」を意識しながらも、女らしくインスパイアしたクロッキー風の佳品。

   *

 胡桃燒くわれに一つの宿命あり

 ファム・ファータル――その名はしづ子――

   *

 秋白く追ひつめられてゆく思かな

 声に出して詠むとこの句の美しさが、分かる。

   *

 雲下りて十藥白し美濃の果て

 「十藥」は「どくだみ」。霧のような雲と一緒にゆっくりとティルト・ダウンして、ドクダミをアップ――急速にバックして広角で美濃の全景をアオリで撮る。

   *

 たんぽぽや■美と知多が圍ふ海

 この底本の「■美」は「渥美」でしょう。

   *

 死してありよべはなやぎし螢どち

 詩語の選びと表記が絶妙である。特に下五の「どち」が上手い。

   *

 酒を嘔く泪ぎらつく月の前

 雲間の月土曜日曜いとま得ず

 あてどふく働きつづく月の西に

 疲れし體西方よりの月に佇つ

 この日頃なりはひたたず梅雨めく雲

 月朱し醉ふほどに酒飲まされて

 「嘔」は底本では「※」=「口」+(「偪」-「亻」-「田」+《「田」の位置に》「匹」)であるが、「嘔」と判断した。珍しくポーズのない、しづ子の生活に疲れた句群である。この後にも仕事で飲んで嘔吐する句が続く。

   *

 蠅の屍に蠅が寄りきて離れざる

 いいね――慄然とするエッチングだ――

  *

 不思議にも荒れざる膚や夏の貌

 夏ちかづく素顏の膚や小麦いろ

 堕ちきれず寒月は地にびつしりと

 しづ子はやっぱり小麦色のぴんとした健康な女である。しづ子は堕ちない。

   *

 石を蹴るときは悲哀のこころあり

 『あるひは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)』(尾形亀之助「障子のある家」巻頭)

   *

 とほからず行く上海や夏の海

 夢の銀河鉄道『「しづ子」伝説号』は大陸行の片道船便も用意されています――どうぞ、ご自由に――上海バンスキングと参りましょうか――

   *

 腋毛濃しさんさんと湧く雲間の陽

 私はこの句が好きで好きでたまらない――

   *

 氷■中突きて散らさむ五體かな

 鴉群る■漠に置けりおのが屍を

 この二つの句、判読不能字の存在故にこそ魅力的である。

   *

 人買ひに買はるるもよし夕鴉

 しづ子のしづ子による「しづ子」伝説は「オルレアンの噂」の域にまで達していたのですね――

   *

 うべなふや薔薇くれなゐの花ことば

 底本「うべふふ」。訂した。句鑑賞に花言葉を添えるのを、自分ながら胡散臭く思う部分が私にはあるが、それでもこれは添えずにはおくまい。赤い薔薇は「愛情」「情熱」「熱烈な恋」、中でも濃い赤の薔薇は実は「内気な恥じらい」である。しづ子がうべなうのはこっちだと私は思う。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿五百四十六句より(4) 北海道追懐句群十七句

 石狩の林檎をかじりをはりたり

 死に難しかくもしたたる蝦夷の夏

 北海の浪のしぶきや夏の航

 蝦夷の地へこころ走るや山邊の燈

 生きるべし蝦夷はまつたき夏みどり

 北海を渡るこの體ぞ胸熱し

 折り待てる鈴蘭萎ふこともなし

 逆卷ける浪に投げけり一莖を

 海渡る髮にかざせし鈴蘭かな

 鈴蘭やわが二十代けんらんと

 石狩の夕燒けに染む十指かな

 陸見え來指に落とせし煙草の火

 旅の體に蝦夷の夕燒け濃かりけり

 旅果てり蝦夷の角卷見ることなく

 夕べ濃きひと日の蝦夷を離りたり

 樺太は識らず夏めく白夜かな

 石炭の蝦夷に來て泊つ靑菜汁 

 北海道追懐句群。しづ子は実は北海道に住んだことがある。しかしそれは大正一四(一九二五)年、しづ子六歳の時のことで、これらはその遙か四半世紀も前の回想吟なのである。あなたは六歳の記憶をこれだけのパワーを以て詠えますか? 私には出来ない。
 「折り待てる」の句の「萎ふ」は「しなふ」であろうが、通常は「しなぶ」で「しなびる」の意である。
 「鈴蘭や」の句は、北海道の追懐ではなく前句の「鈴蘭」に触発された感懐句であろうが、連続性を認めて採った。
 「陸見え來」や「夕べ濃き」の句柄は不思議である。これはあたかも大人になった、若しくは句稿を投じた近々に一日だけ北海道を訪れたかのような句柄である。夢想句かも知れないし、事実、実はしづ子はこの頃、何らかの理由で北海道を再訪していたのかも知れない。謎である。一つだけ、私が気になることがある。それはこの前の年、昭和二十六(一九五一)年に黒澤明監督の「白痴」――ドストエフスキイの「白痴」を北海道に移して脚色――が公開されている点である。しづ子はこの映画を見て、この想像を絶したタイム・スリップの大ジャンプ句群を美事に成し遂げたのではなかったろうか? さすれば、私は、私の大好きな原節子演じる美しい角巻姿(以下の注を参照)の那須妙子に、しづ子はシンクロニティしたはずである。これらの一見、現在形北海道実景句は、悲劇のヒロイン那須妙子――ナスターシャになったしづ子の演技ではなかったか?――と夢想するのである。
 「旅果てり」の句の「見ることなく」は底本では「見ることふく」であるが、草書体「な」の誤読と判断して訂した。「角卷」とは「かくまき」と読み、北国で女性が外出する際に身に纏った防寒着の名称である。サイト「北海道人」の「角巻ものがたり」によれば、『大きめの四角い毛織物で、三角に折って背中から羽織るように着た。ショールとも違う、すっぽりと体が入るくらいの大きさで、色は茶や赤、紺などさまざま。四角形のふちには房があり、歩くとさらさら揺れた』。このファッションは明治期から現われ、昭和三十年代には姿を消したとあり、『この角巻は、北海道だけの風俗ではなく、東北地方や北陸地方など、北国に広くひろがった冬の風物詩だった。』ルーツは赤ゲットにあり、『女性にとってみれば、ショールやマントのようにまとえ、和服でも洋服でも合わせることができ、しかも断然に温かい角巻は、実用性とファッション性を兼ね備えたものだった』とあり、この記者は『かつて母の角巻に包まれて幸せだった子供たちの姿も、もう見ることはできない』と結んでおられる。――角巻――如何にもしづ子に似合いそうではないか――
 川村蘭太氏の「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」によれば、しづ子の父俊雄の渡道は、大正末から昭和初年で、陸軍のシベリア測量班としての出兵のための訓練を受けるためであったと推定されている。『俊雄は、家族に自分の勇姿を見せたかったのだろう』とあり、『家族で棲む北海道。叔母の朝子も祖母たちもしづ子の手を握って、北海の風景に見とれていたのだろうか。鈴木家にとって、それは一番の至福の時であった。』しかし、川村氏は続けて言う。『しづ子が当時の子供時代に戻ってこの俳句を詠んでいる。家族の前から姿を消す覚悟の上で作句している。哀れである。巨湫もかつての恋人も知らない、家族との思い出である。』――しづ子の人生の楽園は、もう二十五年以上も前の霧の彼方へ、とっくに消えていたのであった――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿五百四十六句より(2) 六句

 ガーベラの朱が搖れます氣欝症

 ガーベラの花言葉は「希望」・「常に前進」・「辛抱強さ」、特に赤は「神秘」・「燃える神秘の愛」で、愛の告白やプロポーズに使われる。面白いことに現代のフラワーセラピーでは「赤いガーベラは低血圧・頭痛・眩暈に効くとある。

   *

 冬もルムバ火の鳥めきて踊りけり

 ウィキのルンバによれば、『キューバの伝統的なRumbaはキューバに奴隷として連れられてきたアフリカ人によるもの。アフリカの神々に捧げるサンテリアなどの黒人宗教音楽から派生したキューバの郷土娯楽音楽』とある。ここにきて、踊り巫女しづ子も健在である。中七「火の鳥めきて」が利いている。

   *

 壁越しの怒聲五月雨強む夜

 この頃、しづ子は長屋かアパートのような貸家に住まっていたらしく、しばしば壁越しのこうした、隣人の生活句が現れる。しづ子の聴覚的な面白さのある句であるが、そこにはそうした現実社会とは実は半ば切れたような、仄かな一種の遁世者の「隣りは何をする人ぞ」といった冷めた意識も感じられる。

   *

 戰なし夏が近づく垣間の燈

 恋人ケリーの精神を病ませ、遂に死に至らしめた朝鮮戦争は、前年からの休戦協定の模索の中、この昭和二十七(一九五二)年一月には実質的な休戦状態に入っていた。但し、その結果として同一月十八日には軍事的に余裕をもった韓国が李承晩ラインを宣言、竹島や対馬の領有を宣言して連合国占領下の日本への圧力を強め始めてもいたのだが。

   *

 まざまざとことば交はしぬ夏の夢

 しづ子が交わした相手は誰だったのか――戦死した初恋の相手か――亡きハリー・クラッケか――二度と逢わぬことを秘かに覚悟した、そしてこの句稿を読む師巨湫か――いや、これを読んでいる、そう、あなたかも知れない――しづ子の句とは――そういう不思議な魅惑を、持っているのである――

   *

 水中花かなしき時も花たもつ

  水中花   伊東靜雄

水中花と言つて夏の夜店に子供達のために賣る品がある。木のうすい/\削片を細く壓搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の變哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤靑紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコツプの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都會そだちの人のなかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。

今歳水無月のなどかくは美しき。
軒端を見れば息吹のごとく
萌えいでにける釣しのぶ。
忍ぶべき昔はなくて
何をか吾の嘆きてあらむ。
六月の夜と晝のあはひに
萬象のこれは自ら光る明るさの時刻。
遂ひ逢はざりし人の面影
一莖の葵の花の前に立て。
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿五百四十六句より(1) 四句

 恐るべき膨大な数の句稿である。この前の二本(五月二十二日附・六月六日附)の句稿は極端に少なく、その前も七十七句、その前の四月十五日附句稿の中間部からは肺に関わる体調の不良や病臥を詠んでいたが、ここにきてしづ子の体調(少なくとも肉体的な)がやや快方へ向いてきた印象が句柄からも持てるように思われる。

   *

 惜春や衣みどりや双つ肩

 句稿巻頭。きりりとした決意は、虚子の赤裸々な「春風や闘志いだきて丘に立つ」なんぞよりずっと映像的で嫌みがない。

   *

 春蟬や湯の面に落とす指の布

 しづ子独特の美事なクロース・アップのカメラ・ワークが戻ってきた。私は凡夫であるから有名な法師温泉の高峰三枝子の広告写真を思い出す。いいや、私は実際に誰もいない法師温泉で独特の春蟬の鳴く二日間を実際に過ごしたことがある。だからこの句がリアルに感ぜられるのである。

   *

 春晝の溝うつくしく流れけり

 『雨が二階家の方からかゝつて來た。音ばかりして草も濡らさず、裾があつて、路を通ふやうである。美人(たをやめ)の靈が誘はれたらう。』(泉鏡花「春晝」)

   *

 わが十指花栗の香にまみれけり

 栗の花の匂いには、男性の前立腺から分泌するスペルミンC10H26N4というポリアミンが含まれている。栗の花はしばしば精液の匂いと同じだとされる。私に高校生の時、このことをちょっとはにかんだ笑顔で教えてくれたのは、理科の先生でも、ませた友人でも、なかった。私の母であった。

新編鎌倉志卷之七 塔の辻

「新編鎌倉志卷之七」は「塔の辻」まで更新。この「塔の辻」に出てくる古武士安東左衛門入道聖秀、何とも言えず好きなんだなあ。

芥川龍之介 ひよつとこ ■初出稿+□決定稿附やぶちゃん注 リニューアル 同縦書版

先日、久しぶりに芥川龍之介の「ひよつとこ」を再読したが、芥川龍之介の最初期の重要な作品ではあるものの、今の若い読者には幾つかの語が注なしには読めないと感じた。僕の既に作ったテクスト「ひよつとこ (■初出稿+□決定稿)」は初出稿を合わせたオリジナルなものではあるが、今回それを再校訂し、更にオリジナルな注を附して「ひよつとこ (■初出稿+□決定稿附やぶちゃん注)」としてリニューアルし、読み易い同縦書版も公開した。

これは芥川龍之介の――「晩年」であり――「仮面の告白」である――当時東京帝国大学英吉利文学科二年生で23歳の筆――やっぱり芥川龍之介は凄い!――どうです? この機会に再読されてみては? 

鈴木しづ子 三十二歳 『樹海』昭和二十七(一九五二)年六月号掲載句全四句 貝殻

 この全四句には表記通り、掉尾の句から「貝殻」という標題が附けられているが、以下に私が投句稿の日附を( )で示したように、この「貝殻」というのは巨湫による恣意的な仮想標題であり、句群としての集合性は実は全くない。『樹海』だけを我々が読むと、これらの句を「貝殻」という連続したソリッドな有機体として読み誤ることになる。そこは大いに注意しなくてはならない点であると私は思う。

貝殻

 この星や浮塵子の如く家郷なし    (三月十一日附)

 眞對へば陸が近づく花菜の黄     (四月十五日附)

 人の子や親しめば柿柚子など呉れ   (一月 二日附)

 秋風裡掌に容れし貝殻散らす

 なお、この標題とされた掉尾の句――私はこの句が好きだ――は、大量投句稿の中に見出すことが出来ない。「秋風裡」はしづ子の好きなフレーズであったと思われ、前年の昭和二十六年十一月二十九日附投句稿に、

 秋風裡女體の息を想ふこと

があり、同じく書き溜めた前年の句柄と思われる、季節外れの昭和二十七年三月三十日附投句稿にも、

 秋風焜爐の■に炭碎き

(「■」は底本の判読不能を示す記号)が、また、大量投句稿の日附不明の部にも、

 秋風裡わさびきかせの鮨を喰ふ

がある。これらから、しづ子には現在知られる大量投句稿以外に散佚してしまった句稿群が存在することが分かる。それは、最早、俳句に何の関心も持たない子孫によって、誰かの亡き父や祖父のがらくたと一緒に、今もどこかの筐底に紙魚に喰われつつあるのであろう……

2011/12/15

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年五月二十二日附句稿十七句より 一句 倚る樹膚かなしきときは雲を見る

 倚る樹膚かなしきときは雲を見る

2011/12/14

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年五月六日附句稿七十七句より 三句

 形りあらば地(つち)抛つものをわが詩心

 五月雨や執念絶つにすべはなし

 山形の砂の面てや蠅生る

 一句目は難解である。「なりあらばつち/なげうつものを/わがししん」ととりあえず詠みたい。「なげうつ」を音数律で「なりあらば/つちうつものを/わがししん」とも読めるが、採らない。――実体があるものならば、この固い「現実の土」の面へ、投げうって、こなごなに完膚なきまでにうち砕いてしまいたい、私の詩心――。二句目。しづ子の投句は決して書き溜めた古句想ではないことが分かる。そして「執念」は今も、ある――。三句目。安倍公房の「砂の女」の反転。――砂の山は擂鉢状に逆に屹立している――その崩れる砂――砂――砂――そこから這い出してくる蛆――蛆――蛆――そこから羽化する蠅――蠅――蠅――無数の蠅――それはしづ子というどっこい生きてる執拗(しゅうね)き蠅――

ぼろぼろな駝鳥 高村光太郎

何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
足が大股過ぎるぢやないか。
頸があんまり長過ぎるぢやないか。
雪の降る國にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかりを見てゐるぢやないか。
身も世もない樣に燃えてゐるぢやないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて來るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
あの小さな素朴な顏が無邊大の夢で逆まいてゐるぢやないか。
これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。

(「猛獸篇」より)



だから駝鳥は或朝とつとと走つて逃げだすことにしたのだ

にんじん、分かるだろ?――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年四月十五日附句稿二百十七句より(12) 二句

 借りて棲む蠶屋の隅や文學論

 ここに少女期太宰文學神とあほぎ

 太宰治は処女短編集『晩年』を昭和十一(一九三六)年六月に刊行、翌年には内縁の妻小山初代とのカルモチンによる自殺未遂を起こして一年間執筆を断っているが、しづ子は昭和十一年六月当時十七歳、淑徳高等女学校二年であった。川村氏はしづ子の年齢詐称との問題から、少女期の太宰文学との出会いを微妙に留保されているが、私は素直にこの時の体験としてよいと思っている。ここで年齢詐称は必ずしも露見するとは言えず、既にこの時、しづ子にはそうした気遣いは不要になっていたと私は思うからである。但し、前者の句の「借りて棲む」という謂いは、しづ子が単身東京に残った昭和十六(一九四一)年(しづ子二十二歳)以降、戦後直後を詠んでいる可能性が高いとは思うし、それが太宰が女性に人気を博すのとシンクロしているとは言える。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年四月十五日附句稿二百十七句より(11) うす醉ひの氏に手觸られて春の宵

 うす醉ひの氏に手觸られて春の宵

 『指環』出版記念会か、その後の二次会の回想吟か。定かではない。句稿の最後の方に、ぽつんと現れる句である。二次会は神保町の喫茶店「きやんどる」であった(位置を変えて現存)。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年四月十五日附句稿二百十七句より(10) 七句

 國ごころ花の蘇枋は濃かりけり

 蘇枋咲き封建ごころつづくなり

 自由欲し花の蘇枋は降りて咲き

 日本といふ國なつてはをらずきぼしの芽

 蘇枋濃しむかし還るか國ごころ

 蘇枋濃し共産ごころも一つの思

 ややこしき政治なるかな蘇枋濃し

 底本では「蘇栃」とあるが、しづ子自身の誤記か底本の誤植かは分からないが、「蘇枋」の誤り(「蘇栃」と書く植物はない)。私の判断ですべて訂した。「蘇枋」は「すはう(すおう)」で、バラ目マメ(ジャケツイバラ)科ジャケツイバラ亜科ジャケツイバラ属スオウ Caesalpinia sappan 若しくは同ハナズオウ属ハナズオウ Cercis chinensis こと。四月、葉が出る前に黄や桃・赤紫・白色の小さな蝶形の花が固まって咲く。「濃し」とあるから後者のハナズオウ赤紫のものかと思われる。花言葉は「豊かな生涯」。
 これらの珍しく強い政治性を孕んだしづ子の社会性俳句は、この句稿の日附から、警察予備隊から保安隊への再編の時期との関連を強く感じさせる。以下、ウィキの「警察予備隊」によれば、この日附の十三日後の昭和二十七(一九五二)年四月二十八日、サンフランシスコ講和条約が発効し、ポツダム命令は原則一八〇日以内に失効するはずであったが、ポツダム命令に含まれた警察予備隊令については同年五月二十七日の改正によって「当分の間、法律としての効力を有する」ものとされた。しかし政府は、軍事力を保有する法的根拠の明確化と体制整備を図るために海上警備隊を統合する保安庁構想の下に保安庁法を成立させ、同年八月一日に保安庁を発足、『警察予備隊は後の防衛省の内部部局に相当する「本部」、陸上幕僚監部に相当する「総隊」、陸上自衛隊に相当する「管区隊以下の部隊等」に分けられ、本部と総隊はそれぞれ保安庁内部部局と第一幕僚監部への移行と同時に廃止されたが、部隊等は』『警察予備隊」の名称のまま保安庁の下部組織として』数か月存続、同年十月十五日、後の自衛隊となる保安隊が発足することになる。なお、若い読者のために言っておくと、日本共産党は戦後、「人民の軍隊」による自国防衛の必要性を訴え、一九八〇年代までは、アメリカに従属した自衛隊を解消した上で、改憲をも視野に入れた自衛組織による武装中立策をとっており、非武装や護憲ではなかったし、昭和三十(一九五五)年七月の第六回全国協議会(六全協)で武装闘争路線の放棄を決議するまでは、中国革命に倣った社会主義革命のための武装闘争を長い間、綱領としていた。このサンフランシスコ講和条約によって一九五〇年から続いていたレッドパージは解除されたが、公職追放や解職・免職となった人々の殆どは現職復帰は出来なかった。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年四月十五日附句稿二百十七句より(9) 三句

 瞬間の死にあらざればむしろ否

 桃は濃し母のごとくに死ぬるなめ

 死なば死ね地の底を匍ふ人のこゑ

 これらの句の前後や句稿の後半には肋膜を疑う句や発熱、病臥、慰めを言う医師がしばしば詠まれ、以上のような死を直接に詠む句、知多半島河和と思しい小旅行を「最后の旅かもしれず」などと意味深長に謳うなど、しづ子の結核罹患の可能性への不安を濃厚に感じさせる句が並ぶ(但し、私はしづ子が事実、結核に罹患していた可能性には懐疑的である)。二句目の「死ぬるなめ」は不審。「死ぬるなり」「死ぬるなれ」若しくは「死ぬるなる」(連体中止法)の誤記か? 考えにくいが「死ぬるなんめり」の「ん」無表記の「り」の脱字か?
 しづ子はこの頃から、先の入水無幻のような自殺願望を示す句を創り始める。本句稿のの後半でも「もはや飽みたり生きること」「不意に死を得る」「死は最良のさだめとか」のいった表現が用いられている。知られた「しづ子」伝説の一つに、巨湫も口にしているしづ子自殺説があるが――これは無論、私の願望でもあるのであるが――私は「瞬間の死にあらざればむしろ否」というこの句に現れた凄絶ながらきっぱりとした覚悟から、しづ子は自殺してはいないと感ずるものである。

2011/12/13

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年四月十五日附句稿二百十七句より(8) 三句

 月明のみなそこ沈む死を想ふ

 希まば死つまさき近むきりぎしに

 花散りぬ眸の隅笑ふ看とり女は

 連続の三句。突如、入水夢幻句が現れる。落花の如く川面に散るしづ子の眸の隅に一瞬映るみとり女の不気味な笑い――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年四月十五日附句稿二百十七句より(7) 一句 玻璃の面や春のあかつきの鐘の音

 玻璃の面や春のあかつきの鐘の音

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年四月十五日附句稿二百十七句より(6) 二句

 かつては防空壕さくらはなびら散りて吹き

 吹く櫻要なき壕の穴ならび

 ここまで暗い心性の私の特異な抄出であるから、断っておくと、決して暗く沈んだ句柄が並んでいる訳ではない。東京から帰ったしづ子は、春の野に出でて、大好きな木曽川の岸辺に佇んで、その息吹きを多様に素直に詠っている。
 防空壕をこのような景色として日常的に知っている世代は、多分、私辺りが最後だろう。この句を映像化さえ出来ない人々が半数を占めるような時代になった事実には、何か不思議な感懐が私の胸を打つ。防空壕―戦争という直喩以前に、この情景が見えないのだから。二句目下五は動詞の連用形ではなく、「穴ならび」という名詞で読むべきであろう。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年四月十五日附句稿二百十七句より(5) 一句 春風裡はらわた裂きて蛇死せり

 春風裡はらわた裂きて蛇死せり

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年四月十五日附句稿二百十七句より(4) 一句 遊び女と徹し切れざる十指かな

 遊び女と徹し切れざる十指かな

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年四月十五日附句稿二百十七句より(3) 夫に仕ふ一人女人や夕牡丹

 夫に仕ふ一人女人や夕牡丹

 これも私は実は、出版記念会の感懐句群の一句と思っている。しかし……しかし――何故か、この句はしづ子が余りに可哀相な気がするのだ――だから私はこれをここに別掲しておきたいのだ。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年四月十五日附句稿二百十七句より(2) 手の裡の夜店戻りの鏡かな

 手の裡の夜店戻りの鏡かな

 しづ子の淋しい瞳――しづ子の掌の中の小さな丸い手鏡の中――春の夜の夜店のアセチレンの匂いとともに…

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年四月十五日附句稿二百十七句より(1) 於神田神保町西神田倶楽部 鈴木しづ子第二句集『指環』出版記念会 感懐句群 二十九句

 帶京の夜の花とはなりにけり

 氣疲れや飯をくるめしとろろ汁

 湯の音も絶えてしまひぬ旅の膳

 旅の夜や海苔がくるみし熱き飯

 品川の宿の夜櫻海苔の膳

 靑海苔や泊り短く發ちにけり

 花の穹感激もなく雲流れ

 紅茶冷えよくしやべる男だな

 それと見し性の異ひや夜の紅茶

 よはひ覆ふすべもなかりし夫人かな

 眼鏡してオレンジジュースひややかに

 ソーダ水眼鏡の奥に性をよむ

 醫學者や眼鏡ひかりて夜の紅茶

 花一日人らつどひてくだらなく

 東京に靑穹を見し花ちかく

 眼鏡せし夫人のこころ解せぬなり

 眼鏡して蔑すみゐるにちがひなし

 恃むなし離京の汽車に目つむれば

 東京の花のひらきや愛着はなし

 花いまだおもしろからぬ離京かな

 ともかくも義理を果たせし櫻かな

   *

 ソーダ水上目づかひに見られつつ

   *

 ソーダ水眼鏡透りし伏目の眸

 眼鏡して夫人はちらよ見たりけり

   *

 帶京や神田籠りの花の穹

 花の街目的もなく鞄提げ

 東京は汗ばむほどの櫻かな

   *

 眼鏡せし夫人をうとみつづけたり

 眼鏡せし夫人の方は眸をやらず

 昭和二十七(一九五二)年三月三十日に神田神保町西神田倶楽部にて催された鈴木しづ子第二句集『指環』出版記念会に出席したしづ子の感懐句と思われる句をほぼ総て拾った。「*」を挟んだ後ろの七句は、それぞれ少し後の方に思い出したように登場するものであるが(「*」は断続点に打った)、最初の二十一句は句稿の冒頭から総て連続する。――これらはその時の、さめた――「冷めた」であり「覚めた」であり「醒めた」であり「褪めた」である――しづ子の総てだったのだ――

2011/12/12

新編鎌倉志卷之七 テクスト化開始

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」で「新編鎌倉志卷之七」テクスト化を開始した。

岡潔の肉声

ここで聴ける。我が師から今日教えて頂いた(この師は最晩年の岡先生の講義を直接聴いていらっしゃる多変数函数論を専門とされる数学者であられる【只今、このブログをご覧になられた御本人曰く、「師はちょっと困ります」「数学を勉強中の一老書生」とのこと……なればこそ大凡夫の僕の「師」であられる所以であります。追記:21:59】)。

……日本人は「もの」を心の中へ入れて、そしてその自分の「心」を見るっていう風なことが非常に上手だのに、今の人はどーも、この「内」を見る眼っていうのがあんまり開いてないように……日本人の本来の「心」を思い出して貰いたいな……

この映像の中で、自らを芥川龍之介の弟子と称した岡先生が、文化勲章の授章式の写真で芥川龍之介の盟友であった佐藤春夫の隣りに座っているのも僕には嬉しかった。

――「情緒と数学」という「哲学」が確かに腑に落ちてくる先生の肉声である――

喪中につき新年のご挨拶を失礼させていただきます 藪野直史

Motyu

2011年12月11日 国立劇場「曽根崎心中」評

今回のものは「文楽鑑賞教室」プログラムで、これは初めて見たのであるが、解説はそれなりに興味深く、面白いものではあった。面白い――特に相子太夫と三味線の清丈(右上に「ヽ」)それは漫才の掛け合いのようで楽しかった――楽しかったが、あれだけ笑いを取ると、その笑いが静まるまでの時間が総体として有意に後を押すことになることは分かっているはずである。終演時刻を17分という一桁刻みでアナウンスしたのは、本演公演の午後の部との絡みでのことであろうが、問題は「文楽鑑賞教室」だからといって――そのために芝居自体が縮小されることがあっては本末転倒だということだ――ところがそれがなされてしまった。

まず今回、僕は天満屋の段での縁の下の吉田玉女の「徳兵衛」を楽しみにしていた。面遣いがただ一人で、尚且つ、「文楽」の常識ではでは有り得ない例外中の例外たる女の素足を扱うのだから、否が応にも新しい世代を担う玉女の力量の見せ場であるからだ。このシーンの絶妙の演技を教えてくれる玉男はもういない。玉女は玉女のオリジナルな「徳兵衛」を演じるしかないのである。
大きな瑕疵はなかった。僕には途中、「お初」の左裾の乱れを手前から黒子が直したのは目障りだったけれども、これは直さいではおかぬものであり、黒子はいないものというのが文楽の決まりであるから問題ない。この乱れは偶然の不可抗力であり、更にそれは縁の下の玉女からは実は見えない。従っての彼の罪ではない。
この段の尤も難しいのは「徳兵衛」の演技の持続性である。頭の自由も奪われている以上、「徳兵衛」の右手だけがこのシークエンスの最大の命である。「お初」の足で首を掻き切る仕草は玉男に劣るものではなかったと思う。ところが、僕は今回、ずっと「徳兵衛」だけを見ていたのだが、その右腕が、一度、何をしようとしているのか分からない、空を切てしまうシーンがあった。それは恐らく先の乱れた左裾が黒子によって補正された後の位置が、玉女の考えた位置から微妙にずれていた結果として生じたものであった可能性が高いのであるが、それを除いても、今回の「徳兵衛」の右腕は何度か、僕には静止した人形の手に見えたことも事実である。
玉女の「徳兵衛」は未だ僕には課題が残されている――というのが正直な感想である。

今回の大きな問題は「天神森の段」にあった。道行が違う。実は僕は何か違和感を感じながらも、若い清十郎の「お初」と若い玉女の「徳兵衛」の如何にも若さを感じさせる等身大の強い引き合いと頭の感情表現に感激して、図らずも涙していたのだが、見終わった後に妻に違うと知らされて、はっとした。道行きの森の後ろの背景の大道具の移動が早く、更にそれが完全に終わってしまってから、二人が出てきたのだった。これは折角の舞台のダイナミズムがぶち壊しである。これは間違いなく後ろが押しているためになされた「やるべきではなかった」省略短縮ではなかったか。たかが「文楽鑑賞教室」されど、である。相子太夫は竹下に文楽憐みの令を出して欲しいと言って笑いをとったが、この道行のバタバタは、それこそ如何にも「憐れ」ならぬ「哀れ」な行為ではなかったか? 勿論、演出は多様であってよく、これが許されないものではないことも分かる――分かるが、真の感動はそこで微妙に殺がれたというべきではなかったか? 実際に妻は全体に不満であったようである。それはある種の――「文楽鑑賞教室」なるが故の、演者総体の微妙な気迫の欠落というものを、女の直感が感じたものと言えるのではないか。……しかし乍ら、完全なものを見てしまえば、それは芥川龍之介の「芋粥」の五位に陥るのが凡夫の我々の常である。ある軽微な失望を繰り返しながら、僕らはまた文楽を見たくなる。逆説的な真実として、人形にしか演技出来ない人間の本質が、そこにはある、と僕は思う。――文楽よ、永遠なれ――

2011/12/11

本日これより曽根崎心中

玉女の德兵衛は初めてだ――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月三十日附句稿百五十六句より(10) 五句

 花の雨明日のこの刻在らざる居

 春降りや金曜にもつジヤズタイム

 春降りや刻いつぱいのジヤズ了る

 沈丁やととのへ成りし旅のこと

 旅立ちの夜るの沈丁にほふなり

 川村氏は「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の三〇九頁でしづ子が上京するために乗った列車を、三月三十日の東海道本線急行の岐阜発〇時五二分東京行と推定されている。すると、「花の雨」の句はその前々日、三月二十八日の零時前後の作と考えられる(因みに二十九日の天気も川村氏は当日の「岐阜タイムス」の予報の記事を引用して、ここ数日の「花の雨」の事実を確認しておられる)。昭和二十七(一九五二)年三月二十八日は金曜日であった。「春降りや」の二句は、ダンサーとして勤めているクラブのその花金の閉店時間一杯までの勤務の活写であり、最後の二句(句稿掉尾の二句である)は翌日三月二十九日の景、特に最後の句は既に二十九日の夜に入ってから、まさに家を出るその「旅立ち」の詠である。私はそれを彼女は岐阜駅へと向かう途次で投函したと思う。
――これは私の感覚でしかないのだが――私がしづ子なら――この句稿を師居湫に手渡しにはしたくないと思うのである。今までの郵送投句(それは師との一対一の文字通り修行であり参禅であった)の例外行為というだけでなく、これを私はしづ子にとって極めて特別な意味を持つ句稿と捉えているから、猶更に今まで通りの郵送で送りたいのである。
――しづ子がこの二十九日の土曜一日をかけて書いた一つの人生の区切りとしての――しづ子の新たな孤独の夜の果ての「旅立ち」としての――この清書した絞り出した公案の答えを――
――姿を他人に見せる最後となる旅の当日の句稿を――
私なら絶対に愛する師(男)に――しかも「しづ子」見たさに鵜の目鷹の目で群がっている男どもの前で――ある表情の意味を読み取られるような感じで――この最後の覚悟の大事な遺書の一部を手渡しにするようなことは――決してしたくはないからである――
――因みに沈丁花の花言葉は――「栄光」――「不死」――「不滅」である――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月三十日附句稿百五十六句より(9) 五句

 朝鴉河西善藏在らざるなり

 情炎の河西文學蚊帳をゑがき

 靑蚊帳や讀みすて文の一つ痴話

 蚊帳靑し痴語といふには哀しくて

 一つ文情痴はめぐる誘蛾燈

しづ子の文学体験を考察する上で、貴重な句群と言える(「河西」は「葛西」のしづ子の誤り)。次の同年四月十五日附大量投句稿でも、しづ子は太宰に傾倒したことをやはり詠んでいるが、川村氏は「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の九十六頁でこの「朝鴉」の句を引き、太宰に先行する典型的な破滅型の、この赤裸々な私小説作家葛西善蔵の意識の中にあった一種の『開き直り』と、しづ子の『指環』による「しづ子」伝説形成への、しづ子自身の『開き直り』との共通性を見出し、『それはひとえに、しづ子が目指した俳句そのものに、私小説的なる源泉をみていたからであろう』と記しておられる。至当な評言である。残念ながら私は葛西の作品を若い時に数作読んだぎりで、ここでこれ以上の語るものを持たないし、実は掲げた五句総てが私にはどれも意味が判然としないのである。ただ二句目とそこから展開連想される三句については気になるところではある。ネット上での検索から、アルコール中毒症状を呈するようになってから彼が書いた「弱者」という作品の中で、まさに前幻覚症状ともいうべき、強迫的な追跡妄想の表現が蚊帳に関わって現れているのを見出した。本句の「蚊帳」とは無関係かも知れないが、引用しておく(引用元は個人のHP「御酒之寝言屋頁」の「御酒の話(2)」。但し、漢字を正字化し、一部の読みを排除した。「…」はママ)。

自分はその狹い植え込みの中に、動く黑い姿を認めた。ゾウーとした感じにうたれた。…兎に角にさう云ふ黑い影が、毎晩のやうに私を脅かす。閉めておいた筈の雨戸が開放されてあり、閉めてゐた筈の障子が開いてをつて、漠然とした黑い影が蚊帳の外に立たれるには敵(かな)はない…

2011/12/10

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月三十日附句稿百五十六句より(8) 三句

 古葉光げ土面しめりてゐたりけり

 よべ濡れの古葉ひかりの土面かな

 花ちかく朝はしめれる土面かな

 本句稿抄出冒頭の「降りやみの濡れ葉いろなす土おもて」の推敲句が後半に再び現れる。これはしづ子がどうしても、この句稿で――特にこの日の日附の句稿で――どうしても摑みたかった句境だったのだ――と私は思うのである。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月三十日附句稿百五十六句より(7) 十二句

 花吹雪東京に夢果てにけり

 熟れ柿や汝があこがるる東京とは

 花吹雪東京の詩削りつつ

 美濃は好し春は水辺に詩の生まれ

 美濃は好し夏は水辺に語らふも

 美濃は好し秋は水辺に髮を梳き

 美濃は好し冬は水辺に指濡らし

 棲みつけば離るがさだめ歸り花

 歸り花棲み古りてより離り耒し

 一つ土地棄ててきたりし歸り花

 その昔府中の霧を夜々燈し

 離るれば府中の霧の歸り花

 連続した十二句。私はこれらが一体となって不思議な定型詩として響いてくる。それは例えば次のように――

 花吹雪
 東京に夢
 果てにけり

 汝(な)に問はん
 「熟れ柿や
 汝があこがるる
 東京とは」と――
 吾(あ)は答ふ
 「花吹雪
 東京の詩
 削りつつ」と――

 ああ
 美濃は好し――
 春は水辺に詩の生まれ
 夏は水辺に語らふも
 秋は水辺に髮を梳き
 冬は水辺に指濡らし

 なれど――
 棲みつけば
 離(さか)るがさだめ
 歸り花

 棲み古りてより
 離り耒し
 一つ土地は
 棄ててきたりし

 その昔
 府中の霧を
 夜々燈し
 離るれば
 府中の霧の
 歸り花――

それは不思議に、限りない郷愁と漂泊の、伊東靜雄の詩の一節のような響きを以て、私の心に流れるエレジーなのである――

――そして忘れてはいけない――

――この句稿は――

――しづ子が神田神保町西神田倶楽部で催された自身の第二句集『指環』の出版記念会に上京出席した当日の日附であることを――

――冒頭の私の問答はしづ子と他者ではないのだ――

――しづ子としづ子の公案なのである――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月三十日附句稿百五十六句より(6) 四句

 かよちやんは眞赤なセーター双つ子の

 きみちやんはチェツカの外套双つ子の

 和男に詩朗たちきやんは否進學す

 徑でこぼこけんちやんゆきちやん一年生

 幼稚園の修業式を詠ったものと思われる句群から子らの名を詠み込んだものを採った。この子らはしづ子の住んでいた近隣の子らであろう(直後に「進学す肉商ひの親ありて」がある)。きっとよくこの子らとしづ子は遊んでやったのであろう。でなければ、名をこんなに親しげには詠み込まない。先に「寒雲に忌むや啄木と一茶殊のほか」と詠んだしづ子であるが、双子の連作や絶対リアリズムの最後の句、そして何より、総て違った子らの名を詠み込んでいるところに、作句の新規一転などという小賢しい作為などではない、しづ子の眼差しの限りない母性的優しさを隠しようもないではないか。三句目は、「たきちゃん」ともう呼ばれるのは小学生なんだから「否(いや)」という意味で採れなくもないが、そうした荒い省略法はこの期のしづ子には見られないし、前後の素直な詠からしても、これは「皆」の誤りかと思われる。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月三十日附句稿百五十六句より(5) いづれは體土還るとも曼珠沙華

 いづれは體土還るとも曼珠沙華

 「體」は「たい」であろう。「とも」という接続助詞が「曼珠沙華」の瞬時に燃え立つ女の強い情念の決意を引き出す。これは文字で書いた時初めて、背をすっくと伸ばした古武士のようなしづ子が髣髴としてくる視覚的な効果を持った句である。

新編鎌倉志卷之六 江の島終了 テクスト化注釈完遂

「新編鎌倉志卷之六」の完全テクスト化と注釈を完遂、公開した。江の島の項は最後に、更に途中の注に弁才天に関わる注記を追加した。「魚板石」の注に芥川龍之介の「大導寺信輔の半生」を関連作品として示したが、芥川龍之介と江の島が語られることは余りないだけに、秘かに快哉を叫びたい気はしている。……本当はまだもっと島の中に止まっていたいというのが本音なのだが……言うべきことはとりあえず言った気がする……またいつか必ず帰って来よう、この島へ……

1976enosima

2011/12/09

まさか!――あのアンティーブのパウエルとドルフィのたった一度の邂逅の――「パリの四月」の――全演奏映像だ! ぜ! エ~~~!

http://www.dailymotion.com/video/x78fuj_1960-bud-powell-charles-mingus_music#rel-page-2 !!!!!!!!!!!!

生きててよかったとマジ思ったゼ!!! もう死んでもええわぃ!!!

これはねぇ!!! トンデモないことなんだよ!! ぼくにとってはね!!!

バドには何と! 天使の輪ッカが見えるじゃないか!!!

ドルフィーは思った通り、誠意と優しさに満ちてるじゃあないか!!!

……それにしても、こんなに狭っ苦しい場所で、アドリブの前後には他の演奏者に気を使って、如何にも遠慮がちに右往左往する彼らが……とっても意外で可哀そうに見えた……20代の時からこのパワフルな演奏だけを聴いて、ずっとイメージしていたステージとは……全く違っていた……でも、これこそが「ニグザイルしている」と言われた欧州でのジャズ・ミュージシャンの、現実だったのだな、と腑に落ちた……それは聊かショックでさえあったたけれど……しかし、演奏のドゥエンデは些かも傷つかなかった――

――僕のバドと僕のドルフィーに――

“Here's looking at yous, kids!!!”
――君らの瞳に乾杯!!!

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月三十日附句稿百五十六句より(4) 十二句

 一つ死のぬぐふあたはぬ霧笛かな

 一つの死月のコスモス地を匍ひ

 一つ思やつねたたしむる月夜霧

 霧たてばおのれならざる思の狂ひ

 めぐる思や霧の朝霞は曉けにけり

 霧笛起つ抱き深さのかひな裡

 一つ思と乳房くるまば霧たつか

 霧たてばかたちなきものかい抱く

 霧衣うつし身の肩冷えにけり

 かひな觸る想ひのみかは霧衣

 悲しめば吾が體一つの霧笛かな

 霧たてば見えざるこゑに體こそ投げ

 先に挙げた「霧たてばおのれならざる思の狂ひ」の前後に存在する、ハリー・クラッケ追悼句群の推敲・改稿句を拾ってみた。ここにはしづ子の連想法の特異性がよく示されている。特に「一つの死」が「一つの思」という通音で意味が変容してゆく過程は面白い。漢字も音数律から特異な読みで変化を持たせようとしているのが分かる。しかし――しかし――その絵の真ん中には――濃い霧の中に――独り立ち尽くすしかない孤独なしづ子だけが――見える……

2011/12/08

Joao Gilberto Estate

ジョベルトの「夏」……ジョアンの演奏する曲の中でも「飛び切り」をつけたい好きな曲……あなたの「エスタテ」は……そう僕にとっては……あの夏だ……

新編鎌倉志卷之六 碑石

「新編鎌倉志卷之六」は今以て謎の「碑石」まで辿り着いた。極私的な注は確信犯だ。

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月三十日附句稿百五十六句より(3) 霧たてばおのれならざる思の狂ひ

 霧たてばおのれならざる思の狂ひ

 ハリー・クラッケ追悼句群の一句。人影は霧の中へ――そして中七の「おのれならざる」の思惟――下五の「しのくるひ」が読む者に対して――詠むしづ子の胸の裂ける思いを――ざっくりと――突き立てる――

2011/12/07

A terra 中村善郎

僕は中村善郎が好き――ジョベルト好きのギターは勿論のこと――外国語染みたどこぞの連中がやらかす歌い方が大嫌いなはずなのに善郎だけは――その謡いが好き――そしてCDで出ていない「世界秘境全集」のテーマ曲が好きで好きでたまらない――このメロディを聴いただけであの美しい恋するミャンサリを思い出す――その曲が――ここで聴けるのが嬉しい――

僕はこのDVDのシリーズが好きで好きでたまらない――何度見ても涙が出て来て止まらないんだ――騙されたと思って見て欲しい――

追伸:ちょっと苦言を呈すると、このナレーションの中の「本当の豊かさ」という語の使い方はNGだ。僕がライターなら、素直に、

私たちは私たちの「豊かさ」と引き換えに、本当の「豊かさ」を失おうとしているのではないか?――

とするだろう。このシリーズを語るフレーズは――もう選択可能性の幅のある疑問文ではあり得ないんだ――いや、「本当は」もう僕らがとっくに失っちまったものを――この作品は悲しくも思い出させるのだから……

波多野睦美 三月のうた

武満徹「三月のうた」

波多野睦美(メゾソプラノ)

つのだたかし(ギター)

母さん――ここに見つけたよ――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月三十日附句稿百五十六句より(2) おはじき玉ガラス缺けつつ草萌え耒

 おはじき玉ガラス缺けつつ草萌え耒

 『それからまた、びいどろといふ色硝子で鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになつたし、南京玉が好きになつた。またそれを嘗めて見るのが私にとつて何ともいへない享樂だつたのだ。あのびいどろの味程幽かな涼しい味があるものか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなつて落魄れた私に蘇つてくる故だらうか、全くあの味には幽かな爽かな何となく詩美と云つたやうな味覺が漂つて來る。』(梶井基次郎「檸檬」より。下線部は底本では傍点。)

作家 芥川龍之介

 文を作らんとするものは如何なる都會人であるにしても、その魂の奧底には野蠻人を一人持つていなければならぬ。

(芥川龍之介「侏儒の言葉」)

新編鎌倉志卷之六 「風土記」引用に嵌まる

今日から2年生が修学旅行、授業はない。お蔭で「新編鎌倉志卷之六」の江の島は無熱池まで登ることが出来た。但し、入口の岩本院の宝物の「蛇の角」に入れ込んでしまった結果、苦手な古代史の「風土記」を引用してしまい、今日一日、その訓読と読解に悩んだのだが……しかし同時にそれは秘やかに楽しくもあったのだ。

2011/12/05

先生へ

先生……しづ子の俳句は難しいとおしゃったけれど……失礼ながら当たり前なんです……誰も彼女を本気で知ろうとした者は……誰一人としていないのですから……それが、「しづ子」なんですよ、僕を含めて……

2011/12/04

新編鎌倉志卷之六 江ノ島へ入島

「新編鎌倉志卷之六」は遂に江ノ島に渡った。しっかり一歩一歩踏みしめるぞ――だから文字通り、注の最初は地図上での厳密な実測からだ――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月三十日附句稿百五十六句より(1) 四句

 本句稿の日付は極めて意味深いものである。何故なら、これは何と、しづ子が神田神保町西神田倶楽部で催された自身の第二句集『指環』の出版記念会に出席した当日の日附だからである。これはどこでしたためられたものなのか? この日附に拘るとすれば、年譜的事実からは出版会の後、その日の夜宿泊したところの品川の宿で書かれたということになるが、それは如何にも考えにくい。とすれば、答えは一つしかない。すなわち、この句稿は出版会に出席するために岐阜を立った、三月二十九日の夜までに記され(前日出発については川村蘭太氏の「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の三〇八ページに確定的考証が示されている)、三十日の朝、東京で投函されものだということである。川村氏は直接持参して巨湫に手渡した可能性を同ページで示唆されているが、いずれにせよ、私はその仕儀に、毅然としたしづ子のある覚悟が見えるように思えるのである。
 『指環』出版が実は、必ずしも彼女の意に沿ったものではないことは、川村蘭太氏の驚くべき精査によって最早、明らかである。『指環』によって「鈴木しづ子」なる伝説の城は、師巨湫を始めとする「異端の娼婦俳人しづ子」を求める有象無象の俳人らの共同正犯によって完膚なきまでに外堀を埋められたのだった。
 無数の猥雑な『独身者によって略奪された花嫁』しづ子――しかし、それであって『さえも』――しづ子は、
「みなさん、ごきげんよう、さようなら」
という鮮やかな一言の肉声を最後に投げかけて――その姿を永遠に消し去ったである――

   *

 降りやみの濡れ葉いろなす土おもて

 指にぎる草秀しほるるばかりなり

 吹きやみの夕べ黝ずむ葉のおもて

 毬さがす夕べ明りの草の中

 この句稿は庭の草取りの情景群に始まるが、その草取りは草取りの持つ「生」や「活」の属性を全く感じさせない。雨後の庭であるが、抜く草の穂は最早既にしおれている――そして、あっという間に夕闇が迫る――最後に採った句では、しづ子は少女に戻っている――しかし夕闇は果てしなく濃い――タルコフスキイの「鏡」のラスト・シーンのようにカメラは情景を、否、そこに独り立つ少女のしづ子を映して――愛おしむようにゆっくりと叢の中へとフェイド・アウトしてゆく――

南極観測船「宗谷」夢

僕は氷結した海に接岸する南極観測船「宗谷」に友人と二人で乗り組む。名古屋港の「宗谷」のように、展示室になっているのであるが、そこには「遊星からの物体X」のような、布のような卵のようなパイルのような多様な不定形の生物の冷凍保存体が無数にあり、それが密閉されたアクリルの棟の中で、凍ったままにはためいたり、膨張したり、振動したりしている。一部屋がタロとジロに割り当てられているのだが、そこにはやはり完全冷凍になって、かつチワワ大に収縮した実物のタロとジロが、氷結した室の壁面にいて、我々にクンクンと鳴くのである――とその時、大地震が起こって、「宗谷」が大きく30度近くピッチングする――僕は舫いが離れたのを実感した――僕と友人は、最早、この得体の知れない氷結した「宗谷」とともに『さまよえる日本人』となるのだ――と覚悟した――

という夢を今朝見て、「宗谷」を調べて、こんな僕の安っぽい夢に出ていいような船でないことを初めて知った。「宗谷」は戦前にソ連の発注で作られ、後に日本海軍の軍艦となった事実をである。以下にウィキの「宗谷」を参照にして纏めたものを示して、「宗谷」の歴史に心からの敬意を示したい。

現在の「宗谷」は、実はソビエト連邦通商代表部から耐氷型貨物船として日本に発注され、1938年(昭和13年)2月16日にソ連船ボロチャエベツ(Volochaevets)として進水するものの、戦争によって引き渡しが行われず、「地領丸」として竣工した。当時としては珍しいソナーが装備されていたため、大日本帝国海軍が購入、1940年(昭和15年)2月20日、正規の軍艦として入籍、海軍艦政本部により「宗谷」と改名された。8㎝単装高角砲1門・25㎜連装機銃を装備した砕氷軍艦として横須賀鎮守府部隊付属となった。北樺太の調査を初期任務としてこなし、後、サイパン島への調査を行った。1941年12月8日、横須賀で日米開戦の報を受け、トラック・ラバウルなどの南方での測量作業に従事、1942年のミッドウェー海戦には上陸部隊輸送船団の一隻として参加、同年8月にはラバウル第8艦隊に所属した。同年8月7日からガダルカナル島の戦いが始まり、海軍陸戦隊を載せた「宗谷」はツラギ島奪還に向かう。同年8月8日、作戦中止命令により「宗谷」はラバウルを経てトラック基地に帰還。戦局悪化後はガダルカナル島撤退に使用された。トラック島では空襲の回避行動中に座礁、米軍機1機を撃墜するも9名が戦死、総員退艦命令が出たが、満ち潮と共に宗谷は奇跡的に脱出に成功した。しかし当時の艦長天谷嘉重大佐は責任を感じ、1944年(昭和19年)12月16日に拳銃で自殺している。1945年(昭和20年)6月26日、「宗谷」を含む第126船団は船越湾大釜崎沖を航行中、米潜水艦「パーチェ」からの雷撃を受ける。「宗谷」は爆雷で反撃、パーチェに損害を与えて撃退した。終戦時、「宗谷」は北海道室蘭港に所在、終戦後は主に小樽―樺太間を往復して、引揚者を本土へと運んだ。1956年(昭和31年)11月8日 国際地球観測年に伴う南極観測のための南極観測船「宗谷」となり、1957年(昭和32年)1月29日、「宗谷」の乗り組んだ第1次南極地域観測隊がオングル島に昭和基地を建設したのであった。

2011/12/03

合唱組曲 チコタン

僕の永遠に忘れ難い曲とアニメーション――「チコタン」――

チコタン-ぼくのおよめさん 前編

チコタン-ぼくのおよめさん 後編

作曲 南安雄
作詩 蓬莱泰三
昭和44(1969)年度芸術祭優秀賞受賞

アニメーション「チコタン」
歌  西六郷少年少女合唱団
アニメーション 真賀理文子・秦泉寺博・及川功一
撮影 吉岡謙・田村実
美術 小前隆・徳山正美・数藤雅三
編集 園尚子
脚本 岡本忠成・坂間雅子・来道子・田村実
協力 田畑精一
現像 東洋現像所
演出 岡本忠成

ぼくらの町は川っぷち 西六郷少年少女合唱団

僕の大好きな一曲――本当は僕の特別に大切な音源でこっそりと聴いていたい――一曲――でも、この音源の音質、癪だけど――極めていいね――

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月二十四日附句稿二百十九句より(4) 詩心句群 二十一句

 詩絶えのちかづくおもひ爪は燈に

 半歳とつづかぬ詩心爪長く

 戀うたを削りけづりて爪は燈に

 詩稿いくたび煙と化せし炭火中

 詩一冬竹の高葉の吹き徹し

 詩絶えの懼るにあらず竹は吹き

 寒浪のすさるに似たり詩心いま

 愛しむや盛りし詩心失せゆくに

 半歳の詩心華麗にして了る

 爪は燈につづる詩心翳ぞ濃く

 蝶翔ちて吾が頭は輕し一過の思

 詩のことたつきのことと爪は燈に

 爪は燈に十とそろへてつつがなし

 たつき憂し兩立かくも爲し難く

 破綻眼に見ゆるばかりに春南風

 たつきか詩か三月さむき火の燃えて

 春北風たつきぞあらざる詩はなし

 春北風やたつきぞ守り徹すべし

 春北風やたつき敗るるとも詩は

 ひひらぎや詩倖せにこの體在り

 春南風詩とたつきと頭にからげ

 「詩心」を詠み込んだ一連の句群を二十一句連続で採った。川村氏はこれを若き日のしづ子が詩から訣別した回想句として捉えられている。そして、そこで川村氏は新発見の森田洋平なる男性名の定型詩を示されている。その詩は「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」百四十頁を参照されたい。昭和二十一(一九四六)年の小冊子『子徑』に載る詩である。そうして私も確かに「半歳の詩心華麗にして了る」の句までは、そのように――近代詩から俳句に遷移したしづ子の句と十全に読めると言おう。だが、そこから後半の句は、私には実は現在時制で感じられるのである。後半の句では「詩」は音数律から言って「うた」と訓じているようにしか読めない。そして、句群の季節は明らかにこの句稿の季節そのものである。だとすれば、少なくともこの句群の後半は、過去の回想吟ではなく、「たつき」=「生」と両立し得る「詩」=詩歌=俳句を意味しているようにしか私には読めないのである。さすれば、そこには「俳句」と「たつき」たるダンサー、いや、これからしづ子が選び取らんとしている何らかの「たつき」=「生」と、「詩」=俳句の覚悟の訣別の謂いとしか読めないのである。しづ子は、この時、既に俳句を棄てる覚悟をしている、と私は読むのである。この句群の後はきっぱりとして、「詩」を語彙から棄てている。そして、彼女の好きだった木曾川の砂地を歩むしづ子が十数句詠まれて終わるのだ――

 陽炎や砂地つきなば還るべし

しづ子は――好きだった木曾の河原の砂地を走ってゆく――タルコフスキイの「僕の村は戦場だった」のラスト・シーンでイワンと妹が走ってゆく川岸のように――好きだったその『抒情の文学=詩=俳句』の世界の、絶えて尽きたところで――「もう、帰りましょう」――と、しづ子は覚悟しているのではなかったか?――この二日後、第二句集『指環』が刊行される――

新編鎌倉志卷之六 砥上原

「新編鎌倉志卷之六」を「砥上原」まで更新、予告通り、龍口寺以下の既出パートの注を大幅に改訂増補した。

さて遂に――僕の青春の地、父母の青春の地、そして母の臨終の窓の外に広がっていた「江ノ島」に――やっと取り掛かることが出来るのだ。

2011/12/02

枯れ木について


   「人間らしさ」

 わたしは不幸にも「人間らしさ」に禮拜する勇氣は持つてゐない。いや、しばしば「人間らしさ」に輕蔑を感ずることは事實である。しかし又常に「人間らしさ」に愛を感ずることも事實である。愛を?――或は愛よりも憐憫かも知れない。が、兎に角「人間らしさ」にも動かされぬやうになつたとすれば、人生は到底住するに堪へない精神病院に變りさうである。Swiftの畢に發狂したのも當然の結果と云ふ外はない。
 スウイフトは發狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似てゐる。頭から先に參るのだ」と呟いたことがあるさうである。この逸話は思ひ出す度にいつも戰慄を傳へずには置かない。わたしはスウイフトほど頭の好い一代の鬼才に生まれなかつたことをひそかに幸福に思つてゐる。

(芥川龍之介「侏儒の言葉」より)

 「私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました。或は待ち伏せと云つた方がまだ適當かも知れません。其時の私はたとひKを騙し打ちにしても構はない位(くらゐ)に思つてゐたのです。然し私にも教育相當の良心はありますから、もし誰か私の傍へ來て、御前は卑怯だと一言私語(さゝや)いて呉れるものがあつたなら、私は其瞬間に、はつと我に立ち歸つたかも知れません。もしKが其人であつたなら、私は恐らく彼の前に赤面したでせう。たゞKは私を窘(たしな)めるには餘りに正直でした。餘りに單純でした。餘りに人格が善良だつたのです。目のくらんだ私は、其處に敬意を拂ふ事を忘れて、却て其處に付け込んだのです。其處を利用して彼を打ち倒さうとしたのです。
 Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。するとKも留まりました。私は其時やつとKの眼を眞向に見る事が出來たのです。Kは私より脊の高い男でしたから、私は勢ひ彼の顏を見上げるやうにしなければなりません。私はさうした態度で、狼の如き心を罪のない羊に向けたのです。
 「もう其話は止めやう」と彼が云ひました。彼の眼にも彼の言葉にも變に悲痛な所がありました。私は一寸挨拶が出來なかつたのです。するとKは、「止めて吳れ」と今度は賴むやうに云ひ直しました。私は其時彼に向つて殘酷な答を與へたのです。狼が隙を見て羊の咽喉笛へ食ひ付くやうに。
 「止めて吳れつて、僕が云ひ出した事ぢやない、もと/\君の方から持ち出した話ぢやないか。然し君が止めたければ、止めても可いが、たゞ口の先で止めたつて仕方があるまい。君の心でそれを止める丈の覺悟がなければ。一體君は君の平生の主張を何うする積なのか」
 私が斯う云つた時、脊の高い彼は自然と私の前に萎縮して小さくなるやうな感じがしました。彼はいつも話す通り頗る强情な男でしたけれども、一方では又人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される塲合には、決して平氣でゐられない質だつたのです。私は彼の樣子を見て漸やく安心しました。すると彼は卒然「覺悟?」と聞きました。さうして私がまだ何とも答へない先に「覺悟、―覺悟ならない事もない」と付け加へました。彼の調子は獨言のやうでした。又夢の中の言葉のやうでした。
 二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋しいものでした。ことに霜に打たれて蒼味を失つた杉の木立の茶褐色が、薄黑い空の中に、梢を並べて聳えてゐるのを振り返つて見た時は、寒さが脊中へ嚙り付いたやうな心持がしました。(以下略)

(夏目漱石「こゝろ」より)

僕はスゥイフトと「先生」と芥川が「見た」枯れ木は――全く同じものだったと思っている――そうして――僕がこれから「見る」枯れ木も――である――

 

新編鎌倉志卷之六 固瀨村

「新編鎌倉志卷之六」を「固瀨村」(現・片瀬村)まで更新した。「北条九代記」を引用し、僕にとってはオリジナルな注をガッツリ出来たと思ってるぜ。但し、もう少し、注を増やす予定だ。

2011/12/01

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年三月二十四日附句稿二百十九句より(3) 五句

 祈りはなし春夜きらめく一つ星

 まがふとも靑炎ゆるべし一つ星

 春星に狂ひつくさば果てはまた

 星炎えや水漬く屍と曝すとも

 星を読み込んだ連作句十二句の内。巻頭と掉尾はその句群の最初と最後。これらは二年前の「明星に思ひ返せどまがふなし」にダイレクトに共鳴する句群であるが、ここでは既に『祈る』ことは棄てられ、情念の炎と化した星は蒼白き滅びの光となったしづ子の『生』=「一つ星」は、狂気も死さえも辞することなく、暗闇の中に『在る』――

   *

 沙羅双樹父母は無かりし吾が十八

 勿論、偽りである(しづ子の母の死はしづ子二十七歳、父は健在)。しづ子十八歳――満ならば昭和十二(一九三七)年であるが、私はしづ子の意識は数えであると考えるから、昭和十一(一九三六)年がそれであると考える。この時にしづ子には何かがあった。それは親族に纏わる何らかの出来事であり、それはしづ子にとってある種の精神的な死と再生のイニシエーションに相当するものであったのではないか。でなくてはブッダ涅槃の「沙羅双樹」と「父母」の不在と「十八」を結びつける意味がない。少なくとも、しづ子がそのような「しづ子」伝説を仮想させることを意図して置いた一句であることは間違いない。

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